月面少女と月下の魔女

吉田エン

一章 巨大な月と魔女

1. イグノーベル賞の夜

 水沢茜は薄暗い廊下を駆けていた。握りしめているスマートフォンには誰かしらからのメッセージが着信し続けているが、彼らのことなんてどうでもいい。茜がこの知らせを一番に共有したいのは、SNS嫌いの彼女以外になかった。


「時子! ついにやったよ、2020年度のイグノーベル賞にノミネートされた!」


 叫びながら科学部の扉を開くと、中にいた時子は驚いたように目を上げ、次いで首を傾げ、手にしたペンを置きながら苦笑いした。


「そ、そう。それはおめでとう。それで、なんて研究だっけ?」


「『量子焼きなまし法を用いた自然言語解析による他人を不快にさせる話法』」途端に数ヶ月にわたる苦心の日々が思い起こされてきて、涙しそうになっていた。「いやぁ、一年間も丸々棒に振っただけの甲斐はあったよ。この微妙にハイテクで微妙に馬鹿っぽいテーマを編み出すのにどれだけ苦労したことか。弱冠十七才でイグノーベル賞にノミネートされるだなんて、最初は無謀な夢だと思ってたけど。やっぱ何事もやってみるもんだね」


 思いついた後も大変だった。量子計算については多少経験はあったが、自然言語解析も心理学もずぶの素人だった。そこから徹底的に論文をあさり、プログラムに落とし込み、量子計算機を借り、編み出された話法を実際に試してデータを取るのも大変だった。


 そう力説する茜に対し、時子はいつも通りの笑顔で冷静に過去の過ちを指摘する。


「それは大変に決まってるわ。遅刻しすぎで呼ばれた生徒指導の先生相手に試すんだから」


 そんなこともあった。


「蒔田センセ、真面目にキレて泡吹いて失神してんの。冗談のわかんない人は嫌だわ」


「茜、あれは本当に危険よ。冗談で〈虐殺の文法〉なんて作り出すもんじゃないわ」


 笑顔で真面目に指摘され、茜は心から楽しくなった。時子は茜より何倍も賢くて、常識人だ。けれども賢い人が装う常識というのは何処か間が抜けていて、不思議な感触がする。


 ひとしきり笑っていると、再びスマートフォンが震え始めた。息を吐いてざっとメッセージを改めてみると、見覚えのある名前が現れた。


「ありゃ。時子、イーロン・マスクからメッセージ来た」


「え? イーロン・マスクって、あのイーロン・マスク? テスラとかスペースXの?」


「うん。本物っぽい。なんかうちの財団で奨学金出すからアメリカ来ないかって」


 笑顔を強ばらせ、イーロン・マスク、と繰り返す時子。しかし彼女は気乗りしない風な茜に気づいたようで、机に身を乗り出させてきた。


「どうしたの茜。イーロン・マスクなんて当代一の人じゃない。そんな人に見いだされるなんて――」


「いや。なんかあの人には狂気が足りない。そう思わない?」


「狂気?」


「なんてーか、ただのワーカホリック? そりゃすごいことやってるけどさ、あくまで実業家って感じで」


「なんとなく言いたいことはわかるけど」諦めたように呟き、時子は椅子に腰を落とした。「茜、私なんかより何倍も頭いいのに。才能の無駄遣いが甚だしいわ」


「んなことないよ。時子なんか、とっくに京大の推薦決まってるじゃん」というか去年の段階で模試を通ってるレベルだ。「センセたちの受けもいいし、母校の誇りだよ。うん。一方の私なんざ赤点ばっかだし、無事に卒業出来るかも怪しい」


「それは茜は本気を出さないから。やれ特撮だ、錬金術だ陰謀論だって。すぐ変なことに夢中になって。真面目にしてたらイグノーベル賞なんかじゃなく、本当のノーベル賞だって取れちゃうかも――」


「私はこれでいいのよ」茜は窓枠に座って、まん丸に輝いている月を見上げつつ言った。「今の世の中、つまんないことばっかじゃん? みんな中身のない薄っぺらなことばっか言って、ぎゃぎゃーわーわー騒いで、最後には全部有耶無耶になっちゃう。トランプには期待したけどさ、結局やつもただの商人だったし。でね、特撮だってアニメだって、悪役がしょぼいのが一番つまんないのよ。すんごい馬鹿なことに真面目になって挑む、間の抜けた毒にも薬にもならない悪党。今の世の中に必要なのは、そんな最高の悪役なんだよ」


 時子は黙って茜の言葉を聞いていたが、最後には首を傾げた。


「いやごめんなさい、何か凄そうなこと言ってる風だけど、わけがわかんないわ」


「だからさ、正義の味方、人類の英雄は時子がいるんだから。誰かが負けっぷりのいい悪役にならないとって話!」


 まったく茜ったら、と時子は冗談に受け取ったらしいが、茜は本気も本気だった。世の中には素晴らしい人、英雄と呼んでもいい実績を残す人が沢山いるが、彼らが注目を浴びることなんて一度もない。インパクト勝負のSNS、やった者勝ちのYouTuber、SCO、PV、クリック数。それが何だというのか。時子なんて全校から賛辞を浴びていいはずなのに、地味で大人しくずっと科学実験室に引きこもってるもんだから、同じクラスになった四月まで知りもしなかった。


 駄目だ。そんなんじゃ駄目だ。


 じゃあ、どうすれば彼らが実績に見合った評価を得られるのか?


 考えた末の結論が、先の言葉だった。


 世の中にわかりやすい悪役がいる。それも上っ面だけの人気者くらい、簡単にあしらえる悪役だ。倒せるのは本当に素晴らしい学識と倫理を備えた英雄だけ。


 けど、そんな悪党、何処かにいるか?


 いない。


 ならしょうがない。私がなるしかないか。


 思いついたばかりだったが、第一の目標、イグノーベル賞は意外と簡単にゲットできそうだ。とりあえずこれでマッドサイエンティストの端くれにはなれただろう。次は資金と人脈が欲しい。そうだ、何か商売を始めよう。それもただの商売じゃ駄目だ、何か詐欺っぽさや似非科学やらを駆使して、本物のしょぼい悪党から金を搾り取って、それを元手に秘密兵器を開発して――


「あれ?」月を見上げつつ楽しい未来を夢想していた茜は、妙な違和感を覚えて声を上げた。「なんだろあれ。時子、見て見て」


 言われた通り窓に歩み寄ってきた時子は、茜の指し示す先を見上げる。


「月が、どうかした?」


「ほら、あれ」


 煌々と輝く十五夜の月。その左上部分に、何かエメラルドグリーンの靄が現れていた。それは刻々と色濃く、そして大きくなっていて、遂に時子の目にも止まったらしい。彼女は眉間に皺を寄せつつ、科学室に常備されている天体望遠鏡を覗き込んだ。


「あっ、ずるい! 私も見る!」


 押しのけようとしたが、こういうときの時子は強い。頑として譲らず、月面の異常を観察し続けた。


「なんだろう。何かが、月の裏側から出てるみたい」


「月の、裏側?」


 ようやくレンズを譲られ、覗き込む。確かにV字型に煙る緑は、何かが月の裏側から噴出している様子らしかった。


「なんだろ。月面のナチス基地で実験が失敗した? それとも宇宙人の侵略?」


「茜」


 時子に肩を掴まれ、レンズから目を離す。そして一段頭の低い彼女が指し示す月を、一緒に見上げた。


「ね、茜。月って、あんな大きかったかしら?」


 真面目に不思議だ。


 そんな風に呟いた時子に、得も言われぬ悪寒を感じた。


 確かに、それは事実のように思われた。見上げる月は、錯覚などではなく、本当に普段より大きく見えた。


 どうしてだろう。どうして大きく見える?


 考えている間にも、月はどんどん大きくなっていった。月面に刻まれたクレーターの一つ一つがはっきり見えるようになり、暗褐色の海が本物の海のように波立って見え、目映い黄金色の光が辺りを白昼のように照らし上げる。


 いや、これはおかしい。完全に、何かが変だ。


 茜は恐怖に時子の手を掴みかけたが、それはすんでの所ですり抜けた。


 月がどんどん大きくなっていく。


 いや、違う。私が月に向かっているんだ。


 悟った瞬間、茜は恐ろしい勢いで月に墜落しつつある自分に気がついた。風切りの轟音が耳を塞ぎ、風圧で目が開けていられなくなる。それでも茜は本能的に目を見開いていた。溢れた涙が千切れ、小さなデブリが頬を切り裂く。叫ぼうとしても肺に空気はなく、瞬く間に接近してくる月面に失神しそうになった、その時だ。


 声がした。


 最初は何かわからなかったが、耳を澄ますと、誰かが自分に話しかけているようだった。


『ツクヨミ。ツクヨミ――』


 不思議なことに茜は、それが自分の名前だと瞬時に悟った。慌てて〈ホワイトスーツ〉の腕に備え付けられたパネルを叩き、応答する。


「ツクヨミ、スタンバイ」


 笑い声がヘルメット内のスピーカーから響いてきた。左を見ると、ツクヨミと同じスーツを纏った少女が、銀色に輝く降下台の縁にしゃがみ込みつつ顔を向けていた。


『なんだいツクヨミ。ビビってんのかい?』


 老婆のような、嗄れた声だった。すぐに相手が何者か悟り、咳払いしてから答える。


「そりゃビビりもするよ。これから地球まで、六千キロのダイビング。平気なあんたが頭おかしいんだよ、ロッド」


 ロッドは肩を振るわせながら笑い、それこそ老いた魔女のように人差し指を向けた。


『あんたおかしい。笑える。私の頭が変だって? そりゃ当然さ。変じゃなきゃ、降下作戦に志願するはずないんだからね。違うかい?』


 納得がいかずに反論しかけたところで、また別の声が割り込んできた。


『ツクヨミ、ロッド! スタンバイでしょう! 集中して!』


 了解、と二人は揃って答え、降下台にぶら下がった。


 ぶら下がった、と言えるのだろうか。ここは月と地球の重力中間地点。正確には降下台のバーを掴んで、月側に足を伸ばしている状態だ。


 月面からは一直線に、地球に向かって柱が伸びている。過去に地球が月を侵略しようとして作られたという、未完成の架け橋だ。その直径五十メートルほどで細かい網目状の構造物には、地球を監視するための中間ステーションが据え付けてある。刀の鍔のように広がった円盤の縁からは、様々なアンテナやセンサーが地球に向けられていた。しかし今はそこにツクヨミたちが配置され、青と茶と白が斑模様になっている巨大な惑星を見つめている。


 VEI8クラスの超巨大噴火が相次ぎ、マイクロダストによる寒冷化で半分が凍り付いてしまっている。残りの半分も人類の生存と発展には不十分で、放置していれば死んでいくだけの世界。それでも人類はしぶとく、月を狙い続けている。


 頭上の視界をほぼ塞ぐ巨大な地球を眺めていると、次第に遠近感がおかしくなり、目が回り、頭がくらくらしてくる。


 あんなのに、宇宙服一つで飛び込もうだなんて。


 やっぱり、まともな作戦じゃない。


『クー、スタンバイ』


『イシュチェル、スタンバイ』


 聞き慣れた声が続く。心なしか彼女たちの声も緊張していて、強ばっていた。


『セレネ、スタンバイ』


 最後に〈長姉〉である彼女の声が響くと、降下台についた六人の少女たちに〈母さん〉が語りかけてきた。


『〈娘たち〉(Daughters)』〈母さん〉はいつも通り、穏やかに言った。『よくお聞き。あなたたちは私の誇りよ。こんな困難な作戦に送り出すなんて、心が痛む。でも〈魔女〉は常に月を狙っている。彼女たちを排除しなければ、いずれ私たちが滅ぼされてしまう。私も、貴方たちも、貴方たちの姉妹たちも。よくお聞き、〈娘たち〉よ。どんな手を使っても〈魔女〉を探しだし、対処するのです。行きなさい〈娘たち〉よ。我が愛娘たち、我らが希望よ』


『イエス、マム!』


 姉妹たちが口々に叫ぶ。しかしツクヨミは以前から、この儀式が苦手でならなかった。形ばかり口元だけで呟くと、隣のロッドが相変わらず見つめているのに気がついた。彼女は何かにつけて絡んでくる。どうもそれは彼女なりの好意の表し方らしかったが、鬱陶しいことこの上ない。鏡面バイザーの向こう側が透けて見える。その表情は頭のおかしい魔女そのもので、きっと月を狙うという〈魔女〉もまた、彼女のような顔をしているのだろうと想像する。


 ならば安心だ。心置きなく、〈魔女〉を殲滅できる。


『十、九、八』


 セレネがカウントダウンを始めた。ツクヨミは自らがぶら下がるバーを強く掴み、大きく息を吐く。同時にステーションの隔壁が開き、白磁色のコンテナが現れた。アクチュエータでツクヨミたちを追尾し、同じ地点に降下するよう作られた旅鞄だ。〈ホワイトスーツ〉のバイザーには、ナンバー3のコンテナとリンクされたと表示が浮かぶ。


『七、六、五』


 ツクヨミは最後に、足下を見下ろした。そこにはやはり、地球と同じくらい巨大な月が鎮座していた。陽光を浴びて金色に輝く柔らかな地。


 一度地球に降下してしまえば、もはやその重力から逃れる手段はない。二度と月には戻れないんだということを改めて思い出し、ツクヨミは底知れない恐怖と孤独を感じる。しかし目を頭上に転じれば、また別の感情が溢れてきた。


 侵略者たちの本拠地だという地球。滅びかけた文明。衰退した人類。得体の知れない怪物が跋扈し、荒くれ者が暴力で民衆を支配し、錬金術まがいの科学を駆使する〈魔女〉が暗躍するというゲームのような世界。


 一体そこには、どんな冒険が待ち受けているんだろう。


 ツクヨミは何を目にし、何を体験することになるんだろう。


『四、三、二、一、ゴー!』


 声を受け、ツクヨミはバーを掴んだ手を振り下ろし、力の限りで地球に身を乗り出した。推進力はそれだけで十分だった。六千キロの距離があろうとも、地球の重力は容赦なく全てを引き寄せる。六人の〈娘たち〉は頭を地球に向け、両腕を脇に付け、両足を伸ばし、一直線に地球に向かっていった。


 バイザーには地球との距離が表示されている。最初それは遅々として変化しなかったが、徐々に加速し始め、今では目で追うのも困難なほどに移り変わっていく。次第に地球から吹き寄せてくる湿り気を帯びた風も感じられ始め、ヘルメットの中であっても息苦しく感じられてくる。巨大な地球は巨大なままだったが、それも徐々に、そして急激に拡大していった。


 そしてあるとき、ツクヨミは悟った。


 引き寄せられている。


 いや、違う。私は落ちているんだ。


 ツクヨミは当然のように、地球は空に浮かんでいる物だと信じ切っていた。


 しかしその時、天が、地に代わった。


 認識が転換した途端、自分が頭を下に向けているのが不思議に思えてきた。それは自殺だ。飛び降りるなら、足を下にしないと危ないじゃないか。


 いや、そんなことは重要じゃない。どうせ必要なタイミングで、減速のためにパラシュートを開くのだ。いやでも、気持ちが悪い。他の姉妹たちも、同じような感覚に襲われているんだろうか。


 そう自分でも奇妙だと思える感覚に襲われ、脇を飛んでいるだろう姉妹たちを見ようとした、その時だ。何かが視界の脇を掠め、条件反射で顔を向ける。


 あっ、と息をのんだ。光り輝く小さな何かが、一直線に向かってくる。咄嗟に右腕を頭上に伸ばし、スーツのパネルを叩き形状記憶樹脂製の盾を展開させた。膨大な訓練の結果の条件反射だったが、体勢を整えるための十分な時間はなかった。地球から重力を振り切って飛んできた『何か』は盾の端にぶち当たり、ツクヨミは完全に姿勢の制御を失った。


 鈍く深い衝突音と、自身の叫び声が耳を塞いだ。視界は地球と月と、その間の虚空を猛烈な勢いで切り替わっていく。


 一体何が。何かしなければ。どうすれば――


 考えている間に、ツクヨミは気を失った。

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