二章 最終技術
2.1. 魔女の姿
人類にとって月は身近であると同時に、遙かに遠かった。五十年前のアポロ計画以降、有人月面調査計画は何度も立案され、何度も破棄され、今では人間を送り込める手段さえ失われてしまった。
だから月面で何かがあったらしい、という事がわかっても、探る手段が皆無だった。特に月の裏側とあっては、地上から観察することも出来ない。少し前までは中国の衛星が探査をしていたが、既に運用が終わってしまっている。たかだか三十五万キロ先の事だというのに、人類には何も出来ない。無力だった。
調査の計画は立てられているが、都合良く転用出来そうな人工衛星もない。新しく作るところから始めるのだ、五、六年でたどり着ければ早いほうだろう。しかし月の裏側の異常について人々が興味を示したのは、ほんの数週間だけの事だった。多少デブリが増えた程度で地球への目に見えた悪影響がある訳でもなく、いつNASAが予算を打ち切られたというお決まりの泣き言を言い出してもおかしくない。
「まったく。何か起きるんじゃないかってワクワクしてたのにな」
望遠鏡で相も変わらぬ月を眺めていた茜に、時子が受験勉強を続けながら尋ねた。
「何かって、何?」
「いやだから月が割れちゃうとかさ。どっかに飛んでっちゃうとかさ」
「それで、月が割れたら進路は決めなくてもいいの?」
すまし顔で問われ、茜は大きくため息を吐きながら彼女の向かいに座った。
「進路とか就職とか、そういうのって何か意味があるのかね?」
「意味はあるわ。人生設計」
「人生ねぇ」机にだらしなく伏せて、両腕を伸ばした。「ピンとこないなぁ。なんか人生っていうとさ、命をかけられる代物に捧げる物って感じがしない? 時子、そういうのって何かあるの?」
「その価値観は映画やドラマに毒されすぎね。私たちは平凡に生きて、平凡の中に生きがいを見つけなきゃならないのよ」
「平凡な人は京都大学なんか目指さないと思う」
更に言うと、推薦で入れるだけの成績があるというのに、一般受験を目指したりもしない。しかし時子は平然とした様子で参考書から目を上げると、茜に笑みを向けた。
「ま、でも茜の場合、特別な人生があるのかもしれないわ。イーロン・マスク財団の件は?」
「あぁ、あれねぇ。なんかコロンビア大学の席なら空いてるって」コロンビア大、と驚く時子の感覚が、茜にはよくわからなかった。「ただのアメリカの大学じゃん。別に魔女やスパイの養成機関って訳でもなし」
「そういうのって、実在しないと思うわ」
「現実だねぇ」顔を倒し、科学室の窓から見える月を見つめた。「ねぇ時子」
「うん?」
「月の異常の調査とか行くのに選抜されるのって、どうしたらいいと思う?」
「そうねぇ、やっぱりNASAに入るしかないんじゃないかしら」
「やっぱNASAかぁ」マッドサイエンティストとして大成するための候補には入っていた。「でもあそこ、いっつも金ない金ないって言ってるよね。どうせならなんかナチスの研究機関とかから勧誘来ないかなぁ」
「そういうのって、実在しないと思うわ」
「じゃあフリーメイソン」
「そういうのって、創価学会とかと似たようなものだと思うわ」
茜は何度目かのため息を吐き、呟いた。
「ないものは作れ、の精神で行くしかないのかなぁ」
「それで進路は?」
進路かぁ。
目を閉じてみたが、全くの空白で手がかりすら掴む事が出来なかった。
そして目を開くと、黄金色に輝く月がある。
「とりあえずNASAを目指してみようかなぁ」
「茜なら出来ると思うわ」
軽々と言ってくれる。時子は自分が常識人だと思っているらしかったが、十分に変人だと茜は思い始めていた。だいたいにしてその時子が、ただの宿屋の女主人なんかに収まっているはずがないのだ。彼女の聡明な解析能力が、それを許さない。ポンプが塩詰まりを起こしていて放置するはずもなく、突如現れた得体の知れない女の素性を探らないはずもない。
だからアカネが夢から覚めた時、普段とは違う科学者らしい眼鏡のトキコが目の前にいても、全然、何も驚かなかった。
意識を失っている間にも、アカネの脳は様々な状況を分析し、整理していたらしい。だから自分でも意外なほど冷静に、状況の観察から始めていた。
左腕が痛む。添え木が当てられていた。骨折しているらしい。頭には包帯が巻かれていて、貧血気味だった。他は異常がない。横たえられていたのは〈月下〉にありがちな鉄パイプのベッドだったが、周囲には心電図モニターと脳波計があり、点滴がされている。
アカネがいるのは、大部屋の中で透明なビニールカーテンに覆われた一角だった。壁はひび割れたコンクリートが剥き出しになっていたが、実に様々なケーブルが走り、無線ネットワークのアクセスポイントやノートPCが普通に使われている。カーテンの向こうには多様な装置が置かれ、見覚えのある男女がノートにペンを走らせたり、厳しい表情でモニターを眺めていたりする。殆どがトキコの宿の従業員なはずだ。
隣のベッドには、金髪の少年が横たわっていた。ミルだ。しかし状態は落ち着いているようで、周囲には誰もついていない。
「薬が効いたの?」
最初にそれを尋ねると、トキコは複雑な表情をしながら頷いた。
「えぇ。もう問題ないわ」
「それでここが〈魔女〉の本拠地?」
その問いにもトキコは、曖昧な顔で頷いた。
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