3.7. 粘菌じゃない

 エスパルガロが主導する生物科学班は、次々と必要な物をリストアップした。主に分析装置の類いだったが、それらは一通り〈連合〉が持ち込んだ機材に存在するらしい。しかし問題は試料だ。


「粘菌の実体が必要だ。それも、それなりの量」


 当然のお話だ。以前は〈アーカイバ〉も多少は保持していたらしいが、緑眼病の原因が袁山にあると見なされて以降、発病者も減り、また有効な分析方法もないことから破棄されてしまったという。


 市庁舎の一フロアに軟禁されている状態では探しに行くことも出来ない。トキコは逆にそれを利用し、面倒をマーティンに押しつけた。


「えっと、つまり、こういうことかな。粘菌が、いる」


 相変わらず理解力に乏しい彼に苛立ちつつ説明し、どうにかそこまでわからせる。


「えぇ。調べるにも実験するにも、その本体が必要でしょう?」


「それはそうだけど、危なくないの? それ。例えば漏れたり、散らばったりしたら――」


「危ないですね。でも粘菌そのものがなければ研究は進みません」


「わかった。でも何処にあるの? さすがに袁山の化け物? を捕まえるのは、結構大変かなって。ほら、一応、犠牲とかも出したくないし。弾薬も無茶苦茶高いから、出来れば使いたくないし。わかる?」


 それにはあらかじめ目算を付けておいた。例のミルが感染した廃船だ。あれは内部が粘菌まみれだったし、相手もネズミ程度だから準備さえ出来ていれば何とかなる。


 数日して、マーティンの部下たちは金属缶に粘菌を詰めて戻ってきた。念を押しておいた通り、缶には塩をまぶしてある。施設にも隔離ブースを設け、周囲には塩を撒く。なんだか錬金術や呪術のような有様になっていたが、現代的なバイオクリーンルームなど作れないのだから仕方がない。粘菌の繁殖方法も良くわかっていなかったが、砂漠を越えて来たケースは知られていない。だから排気に関してはフィルターに通し、加熱することで対応できるだろうとされた。


 アカネは装置類の修理に当たろうかと思っていたが、トキコから別の仕事を依頼された。


「ピピ。それにプーさんだけど」


 それだけで彼女が何を望んでいるのかわかった。


「まさか、粘菌と意思疎通できないか、って?」生真面目に頷くトキコに、ため息を吐かざるをえない。「トキコ、そりゃ無茶だよ。粘菌と知能の関係なんて、何にもわかってないんだから」


「荒唐無稽なのはわかってる。だから誰にも言わず、アカネだけでやって欲しいの」そして周囲を気にしてから、更に声を潜める。「気になるのよ。〈娘たち〉の兵器として作られたはずの粘菌が、どうしてあんな――」形容しがたい、というように手を宙に漂わせる。「あんな風な知能を持つのか」


「知能は先天的な物と後天的なものがあるでしょ。あの二つは単に、後天的にそうなったってだけかも」何か言いかけた彼女を遮り、「いいよ。調べる。でも結果は期待しないで。何しろ生物は苦手な分野だから」


 実はアカネもそこに、重大な疑問を抱えていた。


 ピピとは、何者か?


 そうだ。ツクヨミはマーク7と呼ばれる最新型のMMWを何度も分解し組み立てたが、あれには言語インターフェイスなんて存在しないのだ。


 ひょっとしたらそれは削除されただけで、マーク4には実装されていたのかもしれない。だがそれも妙だ。実際アカネは、ピピという知能に何度も助けられている。クーと戦った時もそうだ。彼女はMMWが搭乗者もなく自律稼働出来るなどとは全く考えていなかった。恐らくツクヨミであっても同じだろう。まんまと騙され、不意打ちを食らっていたに違いない。それだけ有用な機能を削除するというのも変な話だ。


 しかし粘菌については、月面施設でもろくに調べられなかった。とりあえずうろ覚えの知識を補完するべく、〈アーカイバ〉たちが分類しつつある粘菌コンピューティングの資料の山を漁ってみる。


 粘菌コンピューティングとは、量子コンピュータ処理の一種である〈焼きなまし〉と呼ばれる手法と良く似ている。いや、正確に言えば量子系で見られる有用な挙動が金属の精錬過程で行われる〈焼きなまし〉と似ているところから、そう名付けられたのだ。粘菌コンピューティングも〈焼きなまし〉も自然現象を数理解析に利用しようという意味で、酷く原始的といえば原始的な仕組みだ。


 しかし自然はコンピュータ以上の処理能力を持っている。それもまた違いない。一番簡単な粘菌コンピューティングの仕組みはこうだ。迷路全体に粘菌を付着させ、その出口と入り口に栄養素を置く。すると粘菌は最短経路だけを残し、あとは死滅する。酷くアナログで馬鹿馬鹿しく、ぱっと聞いただけでは何の役に立つかもわからない。おかげでこれを研究した日本人がイグノーベル賞を受賞したほどだ。


 しかし実は、粘菌コンピューティングというのはイグノーベル賞という格を貶めるほど大変な発見だとアカネは思っていた。いわゆる巡回セールスマン問題というのがある。幾つもの訪問先があるセールスマンが、どういう経路を辿れば最短経路になるかという問題だ。訪問先が数個であれば現代のコンピュータでも比較的簡単に計算できるが、行き先が増えれば増えるほど計算量が指数関数的に増大する。


 しかしこれも粘菌の力を使えば、計算量の増大は線形で済むのだ。


 同じ事が量子コンピュータにも言える。いわゆる各種最適化問題に対して、粘菌と量子コンピュータは似た特性を持っている。しかし当の量子コンピュータは、量子という不安定な状態を保つのがなかなか困難で、2020年でもたいした成果はあげられていない。それ以降のことは知らなかったが、ひょっとしたら量子コンピュータの有用な実装として粘菌コンピューティングが飛躍的な発展があり、それを〈娘たち〉は利用したのではないか。


 だが、それらしい情報は何もない。粘菌コンピューティングは粘菌の物理形状を結果として利用する所までで、とてもMMWのようにガラス玉に封じられた粘菌で処理を行わせるような段階までは、到底届いていない。粘菌がどうして迷路の最短経路を指し示すことが出来るのか。神経も存在しないのに、どうやって記憶を保持できるのか。疑問は幾つも残ったままで、解明された気配はない。


 マーク1と呼ばれるMMWが完成したのは、2030から40年代だったはずだ。果たして十年かそこらで、月の異常接近に見舞われている中、そんな研究が出来たのかどうか。正直、相当な疑問だ。


 新たな見知をもたらしたのは、エスパルガロの生化学班だった。彼は文献でしか見たことのなかった分析装置を山のように手に入れ、今までの鬱憤を晴らすかのように不眠不休で分析を続けていた。結果、最初にもたらされた粘菌の秘密は、酷く困惑させられる物だった。


「こいつは粘菌じゃない」


 そう宣言されても、アカネとトキコには意味不明だった。


「でも、なんか粘っこくて、生物。そういうの、粘菌って言うんじゃ?」


 アカネの疑問に、エスパルガロは説明した。


「そもそも粘菌って呼ばれる生物には色々と種類があるが、基本的には二つの性質を持つ。変形体という動物としての性質。そして子実体という植物としての性質だ。変形体はこういう粘性体で、微生物なんかを食べて増殖。最後には硬化して子実体という胞子嚢を作り出して胞子を蒔き、胞子から変形体が生まれる。それが粘菌のライフサイクルなんだが、こいつは子実体を作る気配がない。加えてこの緑色は葉緑素によるものだ。いや、葉緑素なのかどうかも微妙だが――どの文献にも書かれてないバクテリオクロリン環だ」


「つまり、これは粘菌ではなく植物性のアメーバだということかしら?」


 尋ねたトキコには頭を振る。


「いや。粘菌としての性質を持ってる。見てみろ、肉眼では判別できないが、顕微鏡で見ると原形質の中に網目状の管が存在していて、内部を流動体が流れている。これは粘菌の性質だが、こいつは通常の粘菌にはない再生能力を持ってる」


 エスパルガロは粘菌の乗ったペトリ皿を、針でかきまぜる。途端に拡大されていた網目状構造は粉砕されたが、すぐに元のと似た構造が生まれていった。


「恐らくこれが粘菌の血管であり、神経なんだろうと思う。しかしここまでの再生能力を持つ粘菌はどの記録を探っても存在しない」


「やっぱりこれは、〈娘たち〉が遺伝子改造で作り出したキメラなのかね」


 唸りつつ言ったアカネに、彼は頷いた。


「そう考えるのが妥当だろう。とにかく文献にない以上、その生物的特性を分子レベルで探るのは時間がかかりすぎる。実験で動きを見た方が早い」


 エスパルガロが言う実験というのは、ボトムアップと呼ばれる手法だった。粘菌に対し様々な物質を投与し、どういう反応をするか見ることで有効な対策を探ろうというのだ。


 生化学班は実に様々な物質を粘菌に与えてみたが、目立った反応を見せたのは、水、そしてやはり塩だった。他の液体に比べて水を与えた場合の増殖率は目を見張る物があり、ほんの数時間で核が何倍にも増殖する。つまり光と水さえあれば、粘菌は無制限に増殖してしまうということらしい。一方で塩を与えた場合は、ごく少量でも途端に管が死滅しはじめ、あっという間に例の堅く赤黒い死骸が残るだけとなった。やはり袁山の塩害は、粘菌の拡散を防ぐ役割を果たしているのだ。


 他にも彼らは、マーティンの部下が捕まえてきたネズミの分析も行っていた。実際に粘菌に侵された生物を調べることで、その特性を知ろうというのだ。


 〈月下〉の人々は経験則から緑眼病の患者から生じる飛沫を浴びると感染する確率が高いことは知っていたが、はやりネズミの唾液からは粘菌そのものが見つかる。入り込まれた生物はその体内の水分を利用され、あっという間に全身が粘菌まみれになるという具合らしい。アカネが疑問に思っていた袁山の化け物のエネルギー源も、これである程度は説明できた。彼らはエネルギーを光合成した粘菌から受け取っている可能性が高い。つまり粘菌は宿主から一方的に搾取するのではなく、ある程度の共生関係にあるということだ。


 エスパルガロは更に踏み込んで、ネズミを解剖し、その脳組織がどうなっているのかを探った。それはややショッキングな絵だった。脳全体が薄緑の粘液に包まれていたのだ。そうして粘菌は生物の神経細胞間の生化学的反応をフックし、ある程度自分たちの望む方向に変えてしまう事が出来るらしい。そういう仕組みだからこそ、感染初期にペニシリンで粘菌を死滅させさえすれば、あまり感染者の脳に影響を及ぼすことなく治療できる。だが感染が長期間に及べば、ある者は凶暴化し、ある者は――たとえばプーさんやピピのように――何らかの変態を遂げる。


 その境目は何処にあるのか? アカネはそれを知りたかったが、トキコに口止めされている以上、エスパルガロに促すことも出来ない。当然、トキコの判断は妥当だと思う。粘菌から知性が生まれ得る可能性を示唆すれば、事は相当厄介なことになる。今は手持ちの情報から考えるしかない。


 そうして研究プロジェクトは、開始されてから一月が経とうとしていた。

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