3.6. ツクヨミであるアカネ

 亥の街の自警団に潜り込み〈エラ〉と名乗っていた彼女は、あまり地球の水が合っているようには見えなかった。月の施設にいた頃に比べると随分痩せていて、綺麗だった肌も相当荒れている。


 変わらないのは、人を見下すような蒼い瞳だ。今は特にそれがロッドに向けられていて、彼女は鼻で笑いながら応じる。


「さて、これからどうすんの。〈長姉〉のセレネ。あんたがうちらの〈母さん〉代わりなんだろ? あたしゃ指示を待ってたんだけどな。何もないから、のこのこと〈連合〉と一緒にここまで来るしかなかった」


「そういう皮肉、あんたには似合わないよ」アカネは遮り、四方からセレネの様子を確かめた。「怪我はないみたいだね。〈連合〉には手も足も出なかった?」


 セレネは口をとがらせ、あらぬ方に視線を泳がせながら答えた。


「来るのが急すぎた。東はクーに任せてたのに。彼女からは何も――」


「クーは死んだよ」驚き見つめるセレネに、ため息を吐きつつ続ける。「〈魔女〉――〈アーカイバ〉の奇襲を食らった。何だよ、クーに問題があることくらい、セレネだってわかってたろ! 何で単独行動させてたのさ!」


「何? 私の所為だっての? 他にどうしろって言うの! 降下地点にあなたは来なかった。どうせ施設にいた頃みたいに、好き勝手したくなったんでしょう? 四人で調べるには〈月下〉は広すぎる。手分けするより他に――もういい。好きにすればいい。放任することにした私に感謝することね。でないとあなたはとっくに――」


「とっくに? イシュチェルやチャンウーに狩らせてた? 前からだけど、視野が狭すぎるんだよセレネは。それにロッドは? どうして彼女を無視してたんだよ!」


「無視じゃない。戦略的に自由行動させてただけ。その方が彼女に向いてるでしょ」


「向いてる?」彼女はロッドを、何もわかっていない。「いいか、〈連合〉を無視しろってあんたの方針は駄目駄目。もう、超が付くほど駄目駄目。私らは〈月下〉なんかに拘っちゃ駄目だったんだ。私らの敵は〈連合〉――」


「そんなの、〈母さん〉の命令じゃない。私たちの任務は、月を守ること。そして〈魔女〉を狩ること――」


「連中に、月を攻める能力なんてない!」相反する思考に、アカネの頭はパンクしそうだった。「馬鹿馬鹿しいよ、こんなの! 何か変だよ! いや、何もかも変だ! 月の連中は――〈母さん〉もドクター・ベンディスも、地球のことを何もわかってない!」


「いい加減にして。〈母さん〉は常に正しい。どうしてそれがわからない――」


「わかるもんか! 〈母さん〉が正しい? じゃあこの有様は何なのさ。〈連合〉は〈アーカイバ〉と手を組んで、本気で袁山を確保しようとしてる。そうすりゃ〈ミハシラ〉も目の前だ。あれを使えば月に行くことも不可能じゃないし、奴らのレールガンがある限りグレティたちを呼び寄せる事も出来ない。完全に手詰まりだよ。違う?」


「違う。今からでも〈連合〉を潰せばいい。イシュチェルとチャンウーもいずれ事態に気づくわ。それで五人でかかれば――まず最初にあのレールガンを破壊して――」


「そのレールガンが問題なんじゃない。六門のレールガンを斉射されたら、近づく間もなく破壊される」


「じゃあロッドに動いてもらう。彼女は自由に動けるわ。彼女がレールガンに工作すればいい」


「いいじゃない。イシュチェルとチャンウーの到着を待って、ロッドがレールガンを不能にして、目立つMMWを突撃させて市街地の遮蔽物に隠れ放題な旧世界の武器で完全装備の兵士百五十人を全部殺す。楽勝そうだね。勝率は五割ってとこかな」


 適当な目算だったが、セレネも同感らしい。彼女は黙り込んで俯き、不意に嗚咽を漏らし始めた。


 まったく、これだから優等生タイプは苦手だ。


 どうしていいかわからずため息を吐くと、背後で傍観していたロッドが言う。


「もう終わった? そんで、どうすんの」


 策はある。策はあったが、それはツクヨミの物だった。今の自分はツクヨミであり、アカネでもある。その双方を満足させられる作戦は、何も思いつかない。


「とりあえず、もう少し様子を見よう」アカネはセレネに背を向けつつ、ロッドの肩を押した。「ひょっとしたら〈アーカイバ〉を上手く使えるかもしれない」


「まどろっこしい。〈魔女〉は全部集まってんだ。全部殺しちまえばいいだろ。そうすりゃ〈連合〉も、これ以上余計な事は出来なくなる」


 これだからロッドは怖い。それこそがツクヨミの策だった。


 しかしアカネは振り向き、彼女の両肩を掴み、その瞳を覗き込みながら言った。


「それは駄目。〈アーカイバ〉は敵じゃない」


 ロッドは怪訝そうにアカネを見つめた。


「それって違うよね。連中は〈魔女〉だ。〈魔女〉は敵だ。そう〈母さん〉が言ってた」


「もう〈母さん〉は忘れな。あいつはやっぱり詐欺師だよ。今は私を信じて。頼むよ」


 こんな言葉を口にする自分が信じられない。だが今はそれより他に、ロッドを説得する術を思いつかなかった。だがそれに対し、ロッドは不思議そうな表情で言う。


「つまりそれって、あんたが〈母さん〉になるってこと?」


 当惑した。考えてもみなかった。しかしすぐ、ロッドの思考回路を思い出す。彼女は何かに支配されたがっている。〈母さん〉や〈声〉――そうしたものに導かれたがっていた。


 けれど今のアカネには、その役目は重すぎた。


「違うよ。それは無理。〈母さん〉も〈声〉も関係ない。あんたはあんたの考えで判断しなきゃ」


 とてもロッドには理解しがたい言葉らしかった。しばらく彼女は混乱したように目を泳がせていたが、次第に獣のような意志の籠もった瞳を取り戻し、頷いた。


「わかった。よくわかんないけど。とりあえずあんたの言うことに従う。それで、どうすんの」


「私は〈アーカイバ〉の潜入を続ける。マーク4だけど、あれ、誰にも触れさせないように出来る?」


「あれはとっくにあたしの物ってことになってる。誰にも触れさせない」


「良かった。セレネはどうなる?」


「さぁね。マーティンの気分次第だけど、ただの自警団の隊長、そんないつまでも構ってるとは思えない。いずれ開放するんじゃない?」


「わかった。まさかとは思うけど、処刑するなんて話になったら教えて」


 そしてロッドとは別れ、二階に戻る。〈アーカイバ〉たちは全員が元の講堂に集まっていた。そして壇上にはトキコがいて、彼ら全員に向かって語りかけていた。


「みんなも知っているように、私たちの役目は『あらゆる知識を確保し、保全し、活用する』こと。知識は人類を未来へと繋ぐ唯一の鍵です。けれど創設者たちはそこに、善悪の概念を込めなかった。皆と同じようにそれは暗黙の了解と思っていたのだけれど、実はそうじゃなかったのかもしれない。危機にあっては善悪を語っていられない。知識を繋ぐためには、私たち自身がどんな事をしても生き延びなければならない。それを創設者たちも、考えていたのかも――これこそが力を持たない科学者の宿命なのかも――」


 そこでトキコは言葉を切り、俯く。そして断腸の思いを込めて、彼女は続けた。


「支配と善悪は別の概念だと思います。仮に未来が〈連合〉に支配されたものであっても、人類が繋がれば、そこに希望は残る。私たちはそれに賭ける――いえ、賭けざるをえない。今は生き延びることを考えましょう。それが『あらゆる知識を確保し、保全し、活用する』こと」


 トキコは一同に顔を戻し、矢継ぎ早に言った。


「班を三班に分けます。生物化学班。皆さんが主体です。まず全体のプランを立ててください。何から始めて、どの方向に進むのか。そして必要な物が何なのか。これを早めにリストアップしてください。機械電子工学班。〈連合〉の確保している装置のリストアをお願いします。どれから優先して行うかはエスパルガロさんの指示に従うこと。安定した電源の確保もお願い。〈連合〉は電気に疎いようだから――それは私から彼らに繋ぎます。そして最後、双方の知識を持たないメンバー。みなさんは〈連合〉の確保している資料を片っ端から調べて、何でもいい、粘菌、そして粘菌コンピューティングに関わる記録を集めてください。丑寅の記録も彼らがトラックに確保しているから、それもまた整理しなくちゃね――とにかく最後にもう一度。私たちの一番の役割は、生き延びて未来に知識を繋ぐこと。そのためにも今は、〈連合〉の求めに応じましょう」


 講堂は低いざわめきに包まれる。やがて各班のリーダーが自然と定まり、彼らが声を上げて算段を立て始めた。


 アカネはポケットに両手を突っ込んで、壇上で放心しているトキコを見つめる。やがて彼女はそれに気づき、疲れた笑みを浮かべながら歩み寄ってきた。


「仕方がないわ。今は他に仕様がない」


「立派だと思うよ。トキコは凄い」


 言って肩を叩くと、途端にトキコは大粒の涙を零し、アカネの胸に顔を埋めた。


 セレネにもトキコのような人類の未来を願う心が少しでもあれば――そう思う。あるいは〈母さん〉にも。トキコに比べたら、〈母さん〉の言葉など見せかけに過ぎない。

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