最終章 月の見る夢

4.1. 2035

 端末の通知を見て、茜はやや呆気にとられた。セレーナからの着信だ。彼女とは大学を出てからというもの、すっかりご無沙汰していた。何事だろうと受話ボタンを押すと、すぐに彼女の懐かしい鼻にかかった声が響いてきた。


『久しぶりね。元気にしてる?』


「まぁ、なんとかやってるよ。セレネは?」


 途端に彼女は苦笑いした。


『コードネームは止めて。もうそんな年じゃないんだから』


「いいじゃん別に。あたしにとっちゃ、セレネはセレネだもん」


『じゃあ私もツクヨミって呼ぶ』そして大きく息を吐く。『懐かしいわ。まだ五年しか経ってないのに』


 随分丸くなったな、と茜は思う。昔のセレネは鉄壁のお嬢様という感じで、誰かに弱みを見せたりするのが大嫌いだった。それでも茜が始めた秘密結社ごっこに最後まで付き合ってくれたのは、高い家格のおかげで充足させられなかった子供心を取り戻したかったのだろう。他のメンバーからは〈長姉〉などと呼ばれ、彼女自身もそれにご満悦の様子だった。


 最終的には十二人にもなった〈娘たち〉の活動は、最高に楽しかった。貴族や富豪の娘たち、それに茜のような変人奇人、各界で抜群の力を発揮しているエリートなど、今思ってみればよく集められたものだ。彼女たちとは常日頃から策謀を巡らせていて、様々な分野の重鎮たちの交友関係を探り、ハッキングし、弱みを握り、どういう手筈を整えれば世界を牛耳れるかを計画立てた。実際にそれを実行に移したのは数回しかないが、結局最後の一押しはしなかった。何処まで出来るか試したかっただけなのだ。政変や戦争を迫られた彼らは、今でもあれは何だったのだろうと訝しんでいるに違いない。


『そういえばどうして〈娘たち〉の会合に来なかったの? 毎年やるって息巻いてたのはあなたじゃない』


「なんだよちゃんとグレティに言っといたのに。わたしゃここんとこ、ずっと打ち上げプラットフォーム船に缶詰なんだ。行けるはずないじゃん」


 それで事情を察したらしい。セレネは含み笑いで応じる。


『ドクター・ベンディスは怒ってたわよ? 自分の研究を引き継げるのはあなたしかいないって思ってたのに、金に目が眩みやがってって。何だったかしら、量子分散――』


「オブジェクト指向型自己組成量子分散複雑性処理モデル。通称〈OTHER〉なんて名付けてみたけどさ、アホくさいよあんなの。いくらモデルを作っても結局それを動かせる量子コンピュータなんていつまで経っても出てこないんだから。だいたいあの人、妙な発明を期待して顧問にしたのはいいけど、結局サークル部屋にお菓子食いに来てただけじゃん」それでも申し訳なさは残っていた。「イーロンから借りてた奨学金、学部修士博士で五十万ドルだよ? うちはしがない自営業なんだ、返済免除目当てでスペースXに入るしかなかったんだって」そこで一息吐いて、茜は尋ねた。「それで? 何かあったの」


『何かって?』


「欧州議員の秘書さんが、そんな昔話するために電話してくる? んな暇ないでしょ」


 セレネは僅かに押し黙り、声を落とした。


『相変わらず鋭い読みね。実はあなた、イーロンから何か聞いてないかと思って』


「何かって?」答えないセレネに苛立って尋ねる。「ちょっと、〈娘たち〉の秘密厳守は実証済みでしょ? 十年も一緒にヤバいことやってたってのに、何だよ今更」


『ごめんなさい。でも私も、良くわかってなくて。ほら、去年の暮れにNASAが月に人を送り込んだでしょう。それには関わっていた?』


「いや。最後まで受注争いはしてたんだけどね。なんか政治的な理由で駄目だったみたい。それが?」


 更に数秒黙り込んだ後、ようやく彼女は重い口を開いた。


「あのプロジェクトで何かあったらしいのよ。それで議員もそうだけど、お父様や叔父様も、どこか様子が変で。具体的にどう、っていうのは難しいんだけれど――ツクヨミ、そういうの詳しかったでしょう? 月の裏側だとか、異星人の陰謀だとか――それで何か聞いてないかなって」


 まさかな、と思いつつ、茜は首をひねった。その沈黙にセレネは勢い込んで尋ねてくる。


『何か心当たりがあるの?』


「いや、心当たりってほどでもないんだけど」


 茜は一昨日起きたばかりの問題について説明した。何てことはない商用衛星の打ち上げミッションだった。各ステップは問題なくクリアし、切り離しも衛星のステータスも問題なかった。だというのに結局、軌道投入に失敗してしまった。衛星は予定軌道からそれ、全く見当違いな楕円軌道に入りつつある。


「何度か修正は試みてるんだ」と、茜はその手の話は素人のセレネに苦心しながら説明していた。「計算上は問題ないはずなのに、いざスラスターを噴射させると想定外の動きになる。まるで重力バランスが変になっちゃったみたいに――それでずっと軌道計算チームは徹夜してる。きっと制御システムに問題が出てるんだろうと思うんだけど、こちらも何度自己診断を走らせても問題なくて――」関係なさそうだな、と思い直して、苦笑した。「ま、そっちとは別問題だと思うよ。とりあえず何か政略っぽい話が聞こえてきたら、連絡するよ。それでいい?」


 セレネはなんだか落ち着かない様子だった。それでも何の確信もないようで、これ以上は茜に迷惑をかけるだけだと思ったらしい。元の柔和な調子に戻って話を切り上げる。


 その時の通話はそれで終わりになった。正直茜も忙しくて、あまり深く考えている余裕もなかったのだ。幾ら調べても打ち上げに問題が見つからない。さてどうしたもんかと思っていたところで、あちこちから妙な報告が上がってきたのだ。


 人工衛星は打ち上げて終わりではない。放置しておけば徐々に軌道がずれていくもので、その度にスラスターを噴射して修正しなければならない。それは現代の物理学で十分に計算可能なはずなのだが、予想以上にずれが生じて緊急補正が必要になっているらしい。


 一体これは、どういうことか。


 加えてどうも、この問題が起きているのはスペースXだけではないらしい。なかなか企業秘密の問題もあり確かな情報は得られなかったが、JAXAもJSATもてんてこ舞いだという噂が耳に入ってくる。


 不思議なのはそんな状況でも、イーロンが何も言ってこないことだ。完全に打ち上げスケジュールが立てられなくなっている状況だというのに、これはおかしい。だが打ち上げミッションのリーダーという立場では好都合でもある。茜は辛抱強く解析班が結果を出すのを待ったが、予備報告として上がってきたデータを見て、遂にセレネとの通信を思い出した。


「まさか」


 最初の言葉はそれだった。しかし軌道計算の担当は苦虫をかみつぶしたような顔で答える。


「何度も計算した。でも答えはこれしかない。月の重力が、増えている。徐々に、それにたった今も」


 すぐにNASAに照会をかけたが、いつまで経っても回答がない。政治力が必要だと思いイーロンと連絡を取ろうとしたが、彼もまた例によって行方不明だ。きっと何か別のプロジェクトにかまけているのだろう。次第に月の異常は一般にも感づかれ、オカルトサイトなどでは格好のネタとされている。それでもNASAは何の声明も出さなかったが、遂に大手ニュースサイトに取り上げられ、黙っていられなくなったらしい。


「太陽活動の影響だって? んなわけあるか!」


 茜は報告書を投げ捨てていた。当然宇宙開発関係者が集まるサイトでは非難囂々だったが、後に詳細な報告書が公開されるとそれも下火になってきた。非常に確率は低いが、起きてもおかしくない現象だったからだ。現にそれを元にした補正式は衛星軌道の修正に十分役立ち、十年程度でこの現象は収まるというNASAの発表を信じた者は多かった。


 だが茜は信じなかった。彼らの主張する現象のソースが、全てNASA以外には取得不能な物ばかりだったからだ。久しぶりに陰謀論者の血が騒ぎ、セレネの言葉も後押しになる。


「セレネ、あの件だけど。絶対嘘だよ。あんたなら何か聞いてるでしょ」


 思いあまって連絡したが、彼女もまた頭を振るだけだった。


『えぇ。嘘だと思う。何かの隠蔽工作が各国政府で合意されたみたい。具体的な事は何もわからないけど――』


「まじか。やっぱり。例の月の調査。セレネの言った通り、何かあるとしか思えない。でも公開されている報告書には当たり障りのないことしか出てない。何とかして本来の報告書を手に入れられない?」


『私に? 無理よ。私は広報宣伝が専門よ? ESAとのコネもないし。茜の方が近いでしょう』


「私もただの、現場のエンジニアだからねぇ。でもこれ、相当にヤバい事だって気がする。隠蔽工作が行われるくらいだ、ひょっとしたら世界の破滅に繋がるのかも」


『まさか、そこまでは』


 セレネは笑ったが、茜は大真面目だった。


「いい? このまま月の重力が増え続けたら、どうなると思う? 無茶苦茶月が近づいてくる。衛星は全部制御不能になって、天気予報も衛星通信もGPSも、全部不能になる。それだけじゃない。潮汐力の影響で地球環境は破滅するかもしれない。大噴火、大洪水、何だってあり得る。それに最悪、月が近づきすぎれば、粉々に割れて地球に落ちてくる。そうなったら最後、人類文明は、終わりだよ」


 茜の本気度を、セレネはまだ測りかねているらしい。神妙な表情ではあったが、どこか半信半疑だ。


『そうは言われても、何をどうしたらいいのか――』


 茜は指を弾いた。


「〈娘たち〉に集合をかけよう。全員だ。これはそれだけの価値がある出来事だよ」

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