4.9. 変身
施設の前にロケット発射台が現れていた。事態を察したパークスが、急遽打ち上げ態勢を整えているのだ。バギー型のピピは袁山に向けて斜めに立てられ、底面に二本のミサイルが結合される。驚いてアカネは、未だにパソコンでプログラムと格闘しているトキコを捕まえた。使うのは一本きりだと思い込んでいたのだ。二本では制御が相当に困難だし、故障率も燃料不良に当たる可能性も倍になる。
「ごめん、話してる暇がなかったけど、一本じゃどう足掻いても月には届かないわ。そういう結論。今、急いで制御プログラムを書き直してる」
「えー。このミサイルの射程って一万キロあるんじゃなかったっけ?」
「それは弾道飛行の場合よ。重力に対して行き帰りで一万キロ。私たちは?」
「重力に逆らって、最低六千キロ」
「加えて核弾頭なら五百キロくらいだけど、今回はピピと私たちで一トン弱。一本じゃ危険すぎる。やっぱり二本必要だわ」
そういうことか、と思いつつ、十三メートルの双発エンジンに載っているピピを見上げる。相当に危うい計画になってきた。いや、元々インフラも宇宙機関も失われた世界で、二百年前の遺物を使って月まで行こうというのが無茶で無謀なのかもしれない。
アカネは数人の手を借りて作業場からレールガイドを引っ張ってくると、パークスが用意してくれていた治具に固定する。これでなんとか格好がついた。あとはトキコが制御プログラムを更新しマーティンが粘菌スライダーを持ってくるのを待つだけだ。
事態が自分の手を離れると、さすがに不眠不休過ぎて頭が朦朧としてきた。それは空が暗くなってきたからもあるだろう。月は次第に輝きを増していて、直視出来ないほどになりつつある。
外の様子はどうだろう。セレネに尋ねようと無線機を手に取ると、不意に月よりも目映い球体が視界の隅を掠めた。
何だ? 目のゴミか?
一瞬無視しかけたが、そうではないのがすぐにわかった。〈アーカイバ〉の数人が悲鳴を上げ、それに釣られた一同が空を見上げたとき、既に光球は崩れかかった倉庫に激突していた。
呆気にとられている間に、無線機からセレネの叫び声が響いてきた。
『ロッドのプラズマ砲! いきなりそれで来るなんて!』
やがて城壁の方向から、レールガンがけたたましく稼働する音が響いてきた。しかしそれは崩れ落ちてくる金属とコンクリートの音にかき消され、周囲は粉塵に覆われて何も見えなくなる。
怒声と悲鳴で氾濫し、全く状況がわからない。アカネは我に返るとヘルメットを展開させ、赤外線カメラを起動し辺りを見渡す。
発射台は無事らしい。トキコやパークスの姿も見える。しかし瓦礫に何人か下敷きになったようで、数人が救出に当たっていた。
「マーティン」唐突に思い出して、アカネは大声を上げた。「誰か手伝って! 地下に一人いる!」
次第に粉塵は風に流されていく。半壊した倉庫に駆け込んで地下に向かうと、あちらこちらで天井が崩壊し電灯も切れていた。今にも崩れそうな梁に怯えつつ奥に進むと、目的の扉は半開きになり、中からエメラルドグリーンに光る液体が流れ出てきていた。
「不味い」
ついてきた数人を下がらせ、中に入る。するとマーティンは壁を背に座り込んでいて、頭から粘菌を浴びていた。瞳は虚ろで、こちらを認識している様子はない。
息をのむ音に振り向くと、トキコが顔を真っ青にして呟いていた。
「どうしよう。そうだ塩」
用心に積んでいた塩の袋に取り付こうとした彼女を慌てて遮る。
「こいつ、半粘菌人間だよ? 塩をかけたら逆に死んじゃうかも」
「そ、そうね。じゃあどうしましょう」
スライダーは作り上げていたらしい。アカネは鞄に入った完成品を背負うと、マーティンを粘菌溜りから引っ張り出す。そして全員を待避させてから地上に運び上げた時、エスパルガロが駆けつけてきた。
全身が緑の蛍光を発しているマーティンを見て、何とも言えないうなり声を上げる。
「参ったな。どうすりゃいいんだ、これ」考え込んだが、すぐに指を弾く。「おい、誰か電熱器を持ってこい! ドライヤーとかでも構わん!」
それで思い出した。アカネは彼を遮り、〈ホワイトスーツ〉のパネルを操作する。すぐに右腕のモジュールが構成され、熱風を吹き出しはじめた。トキコもそれに倣ってマーティンを乾燥させると、粘菌は次第に干からびていき、赤黒い滓となってポロポロと剥がれていく。次いでスーツに付いた粘菌も同様に乾かしていた時、マーティンは全身を痙攣させて飛び起きた。
「わお! 何だ! どうなってる!」
想像以上に異常はなく、トキコと顔を見合わせて苦笑いする。しかしマーティンは二人を怪訝そうに見上げると、立ち上がって粘菌の滓を払いつつ言った。
「冗談じゃない、何をやってるんだ! 連中が攻めてきたら、ここを一番に狙ってくるのが当然だろう! セレネは何をやってるんだ! いや、そんなことはどうでもいい、ミサイルは無事なのか!」
あまりにもまともな台詞すぎて、一瞬何を言われているのか理解できなかった。
「え。いや、今のところ大丈夫そうだけど――」
辛うじて答えたアカネとトキコを両腕で抱え、ミサイルの方向に押していく。
「じゃあ何をぼさっとしてる! さっさと発射するんだ!」
「ちょと待て、おまえ大丈夫なのか?」
見かねたエスパルガロに遮られたが、マーティンは憮然とした表情で答える。
「大丈夫に決まってる。俺の体内には特殊な細胞界面ナノ薄膜が作られるらしい。それは組織への粘菌の浸透を防ぎ、ある意味で〈浮かせた〉状態にするんだ。連中の流動体はタンパク質ベースではあるが明らかに特異な代物だからな。俺の遺伝子的な特性もあるが、加えてあの〈魔女〉の女も何かしたに違いない。クソッ、平気で人を人体実験するなんて、なんてやつだ」ぽかんと口を開いて見つめる三人に、彼は舌打ちして続けた。「どうした! 月に行くんじゃないのか!」
辛うじてエスパルガロが反応した。
「いや、やっぱおまえ、おかしい。少し横になってろ」
「そんな暇はないだろう!」焦れったそうに叫び、再びトキコとアカネを抱えて押した。「それで状況は。アカネ、おまえはスライダーは完成したんだから、とっとと付けてMMWのシステムチェックを開始しろ。トキコの制御プログラムは?」
「え? えっと、実はまだ問題があって――」
「具体的には?」
「えっと、その、袁山上空の気圧と流速が読めなくて――それで空気抵抗をどう扱えばいいのかなっていう――」
「二百年も〈月下〉にいて、そんなことで悩んでるのか! ミサイルの出力はわかるんだから、それと相対速度からレイノルズ数を割り出してフィードバック制御を噛ませればいいだけだ。それで乱流に対応出来れば問題ない。だいたいアカネは月の重力加速度を知ってたろ? そこから大気の流出速度は――わかった、ちょっと待て、後でやってやる。それでセレネは? 核は?」
「核?」
問い返したアカネに、マーティンは両腕を振り上げて地団駄を踏んだ。
「〈魔女〉ってのは、どんだけ馬鹿ばっかなんだ! どうして予め核を配置しておかなかった! そうすれば一網打尽だったのに! もういい、セレネを呼び出して状況を聞け!」
迫られ、アカネは訳がわからないまま屈した。無線機を取り出して尋ねる。
『何とか防いでるけど、エネルギーコンテナの容量はもう半分もない。切れたらレールガンは終わり。あと二十分かそこら』
応じたセレネに、マーティンは無線機を奪い取りまくし立てた。
「切れたら、ドーフ・ワゴンの音量を最大にして撤退するんだ。音波パターンはα」
「待って、αって化け物が発狂する――」
遮ったアカネの手首を掴み、彼は言った。
「発狂させればいい。そうすれば連中はロッドも襲う。するとやつは、ここを狙う余裕なんてなくなる」
なるほど、とアカネは納得し、彼から手渡された無線を口に当てた。
『ちょっと、今の誰なの?』
尋ねるセレネに、とにかく言われたようにするよう指示する。その頃マーティンは、トキコを急かして制御プログラム投入用のパソコンに向かっていた。すっかり彼女は当惑し、言われるがままになっている。
「どうなってんだ? 頭を打って、急に配線が繋がったのか」
呟くエスパルガロに、そういえば、と思い出した。知的ゴリラ熊のプーさんは、他の熊は話せないのかと尋ねたアカネに、こんなことを言っていた。
『他の熊、小さい、駄目。寝る、起きる、暴れる、それだけ』
それは単に頭が悪いという意味だと捉えていたが、実はそのままの意味だったのかもしれない。
「粘菌に生まれ得る知性って、時間だけじゃなく容量にも影響されるのかも――」首を傾げるエスパルガロに続けた。「つまりマーティンの頭の中にあった粘菌の容量が少なかったから、頭の回転がイマイチだったって可能性は? それがさっきので補給されたもんだから――」
「けど、粘菌はほっといても増殖するだろ。普通はそれで死ぬ」
「だからマーティンは粘菌が増殖できない体質なんだよ。共存できるんだ。それで――」
エスパルガロは観念したように両手を掲げた。
「かもな。だが、だとして今のあいつは何者だ? 人間? それとも粘菌?」
「深遠な問いだね」
しかしその彼は、二人を月へと行かせたがっている。あるいはこれは、何らかの良い兆候なのかもしれない。
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