4.4. 2037
本来の月面探査報告書を前に、〈娘たち〉は無言だった。それはそうだ、あまりにもスケールが大きすぎて、あまりにも想定外すぎて、口を開く気にもなれない。
だがそれでもセレネが気力を振り絞り、彼女たちに言った。
「何かしなきゃならない」
『馬鹿げてるよこんなの!』すぐにクーが噛みついた。『粘菌エイリアンが月に住み着いて、月を魔改造して地球に迫ってる? 何だよそれ! んなもん、核で吹き飛ばしちまえばいいじゃん!』
『無理ね』冷静にメニリイが応じた。『宇宙軍の演習はそれを考えてのものだろうけど、地球にある全部の核を放り込んでも月は破壊できない』
茜も同じ事を考えてはみたが、やはり愚策だという結論だ。
「むしろ、粘菌が雨あられと地球に降ってくる事になる。どうも粘菌には生物を操る力もあるらしいから、そうなったら最後、本当に地球は終わりだよ」
『おかしいよ! 粘菌って、所詮は生物だろ? このリストに載ってる連中は有名なだけの馬鹿ばっかだよ。あたしに分析させてみな? すぐに毒を作って死滅させてやる』
今更粘菌を死滅させたところで意味はない。既に月の重力は増大し、軌道が変わってしまっているのだ。人類の総力を結集したところで月を元の軌道に戻す方法はない。単純に重すぎて、大きすぎるのだ。
「でもこのままじゃ、殆どの人は訳がわからないまま死んでしまうだけよ」セレネは言う。「今でさえ大国は必死に隠蔽工作をしてるのよ? とても世界中が手を取り合って危機に対処するなんて事は期待出来ない。何か私たちに出来ることがないか、探ってみるべきじゃない?」
それには茜も同感だった。
早速粘菌の在処を探る。時子のログからアメリカ疾病予防センターで研究されている事は確かだったが、あそこは生物兵器や危険な病原体など多数保管されている施設だ。そう簡単に忍び込めるはずがない。
これ以上は一線を越える必要がある。だが予行演習に慣れていた〈娘たち〉は躊躇しなかった。ターゲットの職員を選択し、親類縁者のコネを使って懐柔し、弱みを握って脅迫し、内部情報を手に入れる。それでセンター内の何処に保管されているかは探り出せたが、やはり人類の存亡に関わる代物だ、警備は想像以上に厳重で、全員を買収なり脅迫なりするのは現実的ではない。
どうしたものかと頭を悩ましていたところで、グレティが朗報をもたらした。
『ロッドを見つけた』
彼女の力が必要だと思い始めていたところだ。しかしグレティから送られてきた記録を見た途端、茜もセレネも眉間に皺を寄せていた。最後の所在確認地がレバノンだったからだ。
『どうも東側西側双方の諜報機関と繋がってる気配がある。彼女は多重スパイだよ』
グレティはロッドの端末の位置を完璧に追えていたので、見つけるのには苦労しなかった。彼女は戦禍の残る街のホテルに潜んでいて、訪れた茜とセレネを見ても顔色一つ変えなかった。
「よう」
ぶっきらぼうに言って、部屋の中に戻っていく。相変わらず戦災孤児のような出で立ちではあったが、部屋の中は綺麗に片付いていた。片付いているというより、必要最低限の物以外に何もない。セレネは昔からロッドのことを苦手にしていた。それでも五年で手に入れた寛容さと我慢強さで、事の次第を説明する。ずっとロッドはベッドの上で胡座をかいて、薄らぼんやりと窓の外を眺めていた。セレネが話し終えても何の反応も示さなかったので、さすがに茜は心配になって尋ねた。
「この六年、一体何処で何をしてたのさ」
彼女は渋面を浮かべ、もじゃもじゃの髪を掻いた。
「色々。親にやれって言われてね。他にすることもなかったし」
「それで? 楽しい?」
「結局、あたしにゃ適性があるらしい。潜入とか、殺しとか、そういうの」
言いながらベッドに倒れ込む様子を見ても、彼女の恐ろしい力があくどい連中に利用されているのは間違いないらしい。茜は我慢ならなくなり、ロッドを見下ろしながら言った。
「家の事なんて関係ないって言ったじゃん。呪われた家系? んなもん無視しなよ。ロッドはロッドのやりたいことをやればいい」
「やりたいこと? 今のあたしゃ気楽なんだ。誰かに何かをやれって言われて、その通りにすれば声が消える。静かでいい気分だよ」
「じゃあ私の言うことも聞く? 私らには、あんたの力が必要なんだ。助けてくれる?」
ロッドはのそりと起き上がり、茜を見つめた。
「あんたが〈声〉になるってこと?」
彼女の言う〈声〉とは、強迫観念の塊のような物だと思っていた。彼女自身はただ、その〈声〉に急かされるような気分を覚え続けているらしい。だが〈声〉は確かな事は何一つ言ってくれず、それを誰かからの指示に置き換えることで、彼女は安寧を覚える。
「そうだね。私があんたの〈声〉になる」
ツクヨミ、とセレネが咎めたが、もう心を決めていた。茜の悪役美学には反していたが、他に何の手も思い浮かばない。今は切実に、彼女の力が必要だった。
しばらくロッドは、茜の目の奥を覗き込んでいた。そしてそこに何の淀みもないと見切ると、くたびれたデイパックに荷物を詰めながら言った。
「金がかかるよ。最低五十万ドル。傭兵を雇わなきゃならない。それに武器、弾薬。チャーターを用意して。それに詳細な地図と警備の配置――」
矢継ぎ早に飛んでくる指示を、セレネは慌てて書き留め始めた。
強襲計画というのを〈娘たち〉は危ぶんだが、代案は何も出てこなかった。結局ロッドはCDCを襲撃し、たった十分で粘菌サンプルの一つを奪い、見事に逃げ切ってみせた。
その頃になると、〈娘たち〉の活動は拠点なしでは不可能になっていた。ロックフェラーの一族であるロナがニューヨークのビルを一つ確保し、そこにクーが粘菌を分析するための機材と人員を集める。とはいえあくまで事実を知るのは〈娘たち〉だけだ。手足として使う連中には必要最低限の情報しか与えず、用済みとなって解放した場合でも監視は怠らない。状況によってはロッドが始末するケースもあり得た。
粘菌の特性は時子のリポートからもある程度わかっていたが、実際に調べてみると異常さが次々と明らかになってくる。クーはその無限大に近い増殖性と生物への毒性をどうにか出来ないかという点に注力していたが、茜が気になっていたのは、『それがあるか否かは議論の余地があるが』と時子が記していた粘菌の知能についてだった。
「こいつは手も足も神経もない。けれど生物の神経と似たような構造を持っている」と、クーは説明した。「網の目状に走っている超微細な導管。こいつは流動体が沢山流れれば太くなって、更に沢山流れれば枝分かれする。流れなければ細くなる。そんな特性を持ってる。凄い単純だけれど、こいつは生物の神経回路網と殆ど同じ仕組みなんだ」
「つまりこれは、意識を持ってる?」
恐る恐る尋ねたセレネに、クーは口を歪めながら答えた。
「さぁね。そもそも意識って何? って話もあるし。でも何かしらのネットワークを作れる生物だというのは確か。自律分散型ってね。加えてこいつ、月にゃ何十万、何百万リットルとある。何らかの高度な目的意識があるとしても不思議じゃないよ」
そんな話題が次第に重みを帯びてきたのは、月の軌道変化が単に重力だけの影響を受けているわけではなさそうだ、というのが明らかになってからだった。
次第に月が大きくなっている。その事実はもはや、世界各国の隠蔽工作をもってしても隠しきれなくなっていた。既に元々の月より二割も大きく見えるようになっている。軌道も変化し続け、徐々に混乱と被害が生まれつつあった。高潮がポリネシアの国々を沈め、洪水がバングラデシュを襲い、GPSが次々と不調になる。難民は戦闘員となり紛争が散発し始めていた。
単に月の重力が変わっただけならば、異常は十分に計算出来るはずだ。時間と金はかかるが、予測と対処が可能となる。しかし月の動きは軌道力学を無視していた。月が地球に近づけば、角速度は増加しなければならない。角運動量保存の法則だ。だが月の角速度は逆に遅くなっていき、世界中の学者たちを混乱させる。
月には何か、今までに知られていない物理の法則が作用している。
そう考えるより他になかったが、〈娘たち〉、あるいは時子たち真相を知る者にとっては、別の推理も可能だった。
粘菌が、何らかの作用を起こしている。
例えばジャイロ効果、例えば推進剤の存在、ひょっとしたらマッハ効果なのかもしれない。いずれにせよ粘菌の微細導管網が膨大な体積の流動体に何らかの意志を及ぼしているのであれば、そうした力を持っていても不思議ではない。
茜は考えあぐねて、大学時代の恩師、ドクター・ベンディスを招聘した。
彼女はいかにもな天才型の変人で、茜のすることなすことを全く気にせず、ある意味後押しもしてくれた。茜が目指していたマッドサイエンティストに、本人がそれと気づかずになってしまっていたタイプだ。量子コンピュータの可能性を探る事に関しては妥協を許さず、引退した今でも最新の学説には目を光らせているらしい。
その彼女に粘菌を見せたところ、茜と全く同じ結論に達した。
「導管の挙動が量子性を持っている――しかも相当に安定した。まさかオーチ・オア・セオリー? これ、とてつもない量子計算プラットフォームになるんじゃ」
やっぱりか、と茜は思ったが、どうにも釈然としない何かが引っかかっていた。
「こいつを適切に制御できれば、私の〈OTHER〉が動く。しかもフルスケールで。でもそれでどうしようっての?」
「決まってるじゃない。この世界は救えなくても、別の世界を救える。何か問題?」
ドクター・ベンディスは眼鏡の位置を直して、小首を傾げた。
それを言われると反論できない。しかしこの時ばかりは、言わざるを得ない。
「でもそれって、粘菌の知性を――それがあればだけれど――潰すことになる」
「それが何? 相手は人類を滅ぼそうとしてるのよ? 何を気にするの」
確かにそうだ。
けれどこんなの、英雄が決めることだ。私はただの小悪党のチンピラで、そんな世界の行く末の事なんて判断できるはずがない。
茜は決めかねて、グレティが日々更新する世界情勢リポートを眺めた。誰かが世界を救ってくれる、そんな未来を探したのだ。
しかし、何処にもなかった。大国は指導者層の安寧のみを考え、科学者たちはその考えなしに見える動きに翻弄されている。
「救いがたいわね」メリニイは呆れた様子で米軍の情報を披露する。「この後に及んで、粘菌の力を兵器に使えないかって必死に研究してる。今更新型の強化外骨格なんて作って、どうしようってんだろ」
リポートには時子の行動もあった。彼女はまさに英雄的に、正面から月と粘菌の問題に取り組もうとしていた。再び月に向かい粘菌コロニーに何らかの影響を及ぼせないか調べたいと、各所に懇願して回っている。しかしそれが許可されないだろうことは目に見えていた。誰も世界を破滅させる最後のトリガーは引きたくないのだ。自分がそれをするくらいなら、ババは百億の細切れにして全員に与えた方がマシだというのだ。
茜も同じ考えだった。しかし今は、自分の考え一つで何かを為し得てしまう状況に陥っている。
どうしたらいいのか。
結局茜はその可能性について、〈娘たち〉に計った。しかし彼女たちは茜の思いなど知る由もない。
「いいんじゃん?」クーは言った。
「それ、楽しそう」グレティは言った。
「そうね。世界の事は世界に任せましょ」チャンウーは言った。
そしてセレネは黙って頷き、ロッドは眠そうに机に伏していた。
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