3.2. 月

 頭が痛い。


 最初に感じたのは、それだった。次に感じたのは眩しさだった。瞼をきつく閉じても、白い輝きが網膜を通して脳に突き刺さってくる。毛布を被ろうと手探りしたが、手が知覚した感触は全く未知の物だった。


 妙にすべすべしていて、冷たい。


 驚いて身を起こした瞬間、周囲の状況も、そして自分のことも、まるで理解できないことに気づいた。


 ここは何処だ? 近未来的な診察室か何かのように見える。横たわっていたのは治療台のようで、六畳ほどの部屋の壁は真っ白で、天井は全体が光っている。一方は半分がガラスで覆われていたが、外は薄暗く、よく見えない。


 自分は何をしている? 白い手術着のようなものを着させられていた。だがそれ以外のことは、さっぱりわからない。


 最後の記憶は――そう頭の中を探り、愕然とした。全然、何も覚えていない。何かを思い出そうとしても、何のとっかかりもないのだ。


 四方を見回しても、手掛かりになりそうなものは何一つない。混乱しつつもベッドから床に足を下ろす。酷く冷たく、背筋まで寒気が走った。それでも我慢して両足をついたその時、通路から何かが入ってきた。四つの車輪が付いたサイドテーブルのような物で、目の前で停まると、パタンと上蓋を開く。ディスプレイらしい。少しちらついたかと思うと、一人の女性を映し出された。


 白衣のような物を身に纏い、茶色い髪を頭上で結っている。妙に肌が青白い。知っている相手だろうか。そう考えていると、彼女は頬を緩ませ、冷たい声を発した。


『その様子だと、記憶を失ってしまっているようね。でも仕方がないの。技術的な限界があって。待って、色々と聞きたいことがあるだろうけれど、これを見て貰った方が早いわ』


 すぐに画面は切り替わり、今度は確実に見覚えのある顔が現れた。厚い髪は撫でつけようがなく、勝手にあちこちで跳ね上がっている。しっかりとした眉の下には大きな目があって、顔の向きによって恐ろしそうにも馬鹿そうにも見える。唇は薄いが口は大きく、彼女はそれを更に横に引き延ばすと、苦々しい笑みを浮かべながら言った。


『よう、私』


 そうだ、これは私だ。


 自分の顔に指を這わせている間に、彼女は続ける。


『悪いね。コールドスリープは、どうしても記憶障害が起きる。でも、こうするしかなかったんだ。わかってくれる? わかるよね。私なら、やっちまったことをくよくよ考えたりしない。さっさと諦めて受け入れて、次を考えるんだ』


 彼女の言葉は、簡単に自分の中に入ってくる。彼女は本当のことを言っている。そう確信を抱き無意識に頷くと、まるで見えているかのように彼女は笑った。


『オッケー。前置きはここまで。さっさと説明するよ? ここは何処だと思う? なんと月だ。覚えてるかな。地球の上に浮かんでて、金色に輝くまん丸な衛星――残念だけど地球は滅茶苦茶になっちゃって、私たちはここに逃げてくるしかなかったんだ。今、月には人類の全てが記憶されている。それを守るのが私の――あんたの役目だ。あんたの名前はツクヨミ』


「ツクヨミ」


 声に出したが、何かがしっくりこなかった。どうにもそれは、何かが違うような気がしてならない。


『それで要点は資源だ。月面には資源が少ない。食い物とか、空気とか、生物を生かすには凄い資源がいる。だから私たちはコールドスリープに入って、交代で目を覚まして月を守ることにした。これまで六番目までのチームが任務を果たし、これからはあんたら、七番目のチームが働く時間。今頃、あんたの〈姉妹たち〉が同じ説明を受けてる頃だと思う。全部で十二人。セレネとか、ロッドとか、チャンウーにクーに――変な奴ばっかだけど、まぁ上手くやっとくれ。えっと、他に話しておくことは――』彼女は収まりの悪い髪を掻き、最後に指をパチンと鳴らした。『そうだ。〈母さん〉は私たちを導いてくれる。間違いのない方向に、確実にね。だから〈母さん〉の言うことには逆らわないで。逆らえばどうなるかって? 私が馬鹿を見るだけ。わかる? わかるよね。それじゃあ、月と人類をよろしく頼むよ。』


 理解できず呆然としている間に画面は切り替わり、冒頭の女性が現れた。


『と、いうことで。色々と受け入れがたい事もあると思うけれど、これからあなたは状況説明と訓練を受け、この施設の保守と防衛にあたることになります。まぁ、はいそうですかと従う気にはならないわよね。だから色々と納得するまでは、ここで寛いでもらっていいわ。私はドクター・ベンディス。正確に言えば、ドクター・ベンディスのライフログから生成された人工知能よ。この施設でインタラクティブな対話が可能なのは私しか存在しない。やだ、これも正確じゃなかった。正しくは、私と〈母さん〉だけ。でも〈母さん〉はお忙しいから、私が貴方たちの面倒を見るわ。ま、これも資源の関係でね。何か質問があったら呼んでちょうだい』


 それからドクター・ベンディスは、部屋の設備を説明した。壁は全て収納になっていて、服や洗面台やら机やらが操作に従って迫り出してくる。ツクヨミは――どうにもその名前は受け入れがたかったが――寒気に追われて全身を包む白いスーツに着替えると、自分からのものだというメッセージを繰り返し眺めた。


 ここは月だという。どうにも記憶がはっきりしないが、月の重力は酷く小さかったはずだ。それを思い出して軽くジャンプしてみると、簡単に天井に手が付く。これも根拠が定かではなかったが、重力を操る事なんて人類には――ツクヨミの知る人類には不可能だという確信があった。だからやっぱり、ここは地球外なのだろう。


 次のポイントは、地球は滅茶苦茶になってしまったという点だ。それについて尋ねると、ドクター・ベンディスは淡々と答えた。


『月の軌道がそれて、地球に接近してしまったの。それで地球では天変地異が相次いで、とても住める環境ではなくなってしまったわ』


「待って。月が近づいて、地球が滅茶苦茶――それって月の方だって安全じゃないでしょ。なのに月に逃げるって?」


『月の地殻は冷えていて、プレートテクニクスがないわ。その分、安定しているの。海がないから津波もないし、大気がないから竜巻や暴風も起きない』


 確かに、それは正しそうだ。


「じゃあ、『人類の全てが記憶されている』――それって何? 私は何を守らなきゃならないの?」


『説明するより、見て貰った方が早いわ。ついてきて』


 ドクター・ベンディスは部屋を出て通路に向かう。こちらは部屋とは正反対に、全面が黒く塗りつぶされていた。照明もなく、すぐに前も後ろも怪しくなってくる。テールランプをチカチカと瞬かせるドクター・ベンディスについてエレベータに乗り込み、随分長い時間をかけて下降する。


 そして扉が開いた先にあったのは、相当に広大な空間のようだった。よう、というのは、ここにも照明がなく先が全然見通せないのだ。だがドクター・ベンディスが響かせる車輪の音、そして自分が金属製のタラップを歩く音が遙か遠くに逃げていく。空気も広範囲に淀んでいる様子で、不意に緩く冷たい風が首筋を撫でる。上も下もどれだけ深く高いかわからぬままタラップを相当歩かされ、ようやくドクター・ベンディスのヘッドライトが何かに遮られた。それも黒い壁だ。行き当たりかと思ったが、違うらしい。壁には上下左右に伸びる足場が組まれていて、遙か下の方にまで階段が続いている。


「これは、何?」


 尋ねたツクヨミに、ドクター・ベンディスは振り向いて答えた。


『これが全人類の歴史と文化を保存しているデータバンク――〈キューブ〉よ』


 キューブという限りには立方体なのだろう。しかし一辺がどれだけあるのか見当もつかない。それを察したように、ドクター・ベンディスは含み笑いする。


『暗いから大きく感じるだけ。一辺は百メートルで、内部は数テラキュービットの記憶容量を持つ巨大な量子系が組まれている。基本的にはメンテナンスフリーだけれど、電力系や冷却系はそうもいかないわ。そのメンテナンスも、あなたの重要な任務の一つ』


 よく思い出せないが、以前に数キュービットの量子演算系に触れた覚えがある。それも一つで業務用冷蔵庫三つ分くらいの大きさがあった。それからすると数テラキュービットという信じられない複雑系が一辺百メートルのキューブに収まっているのは、相当な技術革新があったとしか思えない。


 一体、どういう仕組みなのだろう。どんな方法で量子の散逸を防いでいるのだろう。


 興味に導かれキューブの黒々とした筐体に手を触れた、その時だ。四方から朗々とした声が響き、慌てて手を引っ込める。


『ツクヨミ。良く来たね。わが娘よ』


『〈母さん〉よ。礼儀正しくね』


 画面の中でドクター・ベンディスは頭を低くし、緊張した面持ちで言う。ツクヨミは辺りを見渡し声の源を探ろうとしたが、その深い声はまさに四方から響いてくるようだった。


『まだ色々と理解できていないようね。あなたたちは重大な任務に自ら志願し、大変な犠牲を払って遙か未来の世界で目覚めることになった。そしてこれからも、私はあなたに大変な犠牲を強いなければならない。本当にごめんなさい。けれど他に方法がないことは、あなた自身が理解していた。だからあなたは、こうして、ここに存在する。とても崇高な意志でなければ出来ない事よ。ありがとうツクヨミ。本当に良く目覚めてくれた。私は、そして人類の全ては、あなたの払った大変な犠牲を忘れはしない。月と人類を守るため、これからもよろしく頼みますよ』


 当惑するしかなかった。相変わらず自分が何なのかよくわからない。そんな状況で急に英雄扱いされ、ツクヨミはただ、流れに応じるしかなかった。


「うん、わかった」

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