4.6. 最初で最後でもあるアーカイブ

 アカネは、水沢茜がジークリッドに行った事が信じられなかった。ロッドの強迫観念の元は明らかになった。先祖代々、人でなしと罵られた事が遺伝子に刻み込まれてしまったのだろう。彼女は本質的に救いを求めている。水沢茜はそれを利用することを選び、様々な作戦行動の指揮を命じた。盗み、脅迫、殺人。現実社会の矢面に立つ必要がある場合は全てロッドを利用し、彼女は徐々にすり減っていった。記録に残る最後の映像は機密情報を握り逃走した科学者を追って難民キャンプに潜入していた際の物だが、まさに亡霊のように虚ろな姿になってしまっていた。


 水沢茜は次第に消耗していくジークリッドを見て、何も感じなかったのだろうか。


 こんなの、私じゃない。


 次第にアカネは、この状況を生んだ〈娘たち〉そのものが憎くなってきた。


 怪物たちに襲撃された亥の街は、ほんの数日の間に様変わりしてしまっていた。水際は緑の粘菌に覆われていて、街の中は蛍光色に輝く草木に覆われつつあった。乾いた地面は死滅して硬化した物質で埋め尽くされようとしている。アカネは最初その生態を理解できなかったが、きっとこれは水を最重要資源とする粘菌の性質と一致しているのだろう。乾燥する表面を死骸で覆い、少しでも蒸発を防ごうとする。最後にはこの一帯は赤黒い殻に覆い尽くされ、粘菌は地面の下で自由に流動するのだ。同じ事が、きっと月でも起きている。


 粘菌が生物に寄生する理由も同じなのだろう。辺りを緑の目をしたネズミが走り回り、飼育されていたヤギがうろついている。日が出ているからいいものの、夜は相当危険だろう。アカネとセレネはヘルメットを外さず、粘菌が繁殖している周辺を避けて南東へ向かった。


 ツクヨミ4は、探っていた施設で発見した記録も共有してくれていた。アカネはピピに運転を任せてその分析を行っていたが、やがて件の施設は2040年代に作られた粘菌対策本部であることがわかってきた。


 うっすらとした歴史の流れは見えていたが、やはり世界は月の接近という危機でも一丸にはなれなかったらしい。難民の大量発生と、発展途上国を踏みつけて生き延びようとする大国。結果として絶え間ないテロと暴動が吹き荒れ、スケープゴートとしての国家間戦争が起き、やがて誰が何をしようとしているのかわからなくなった。通信網が寸断されては、誰かが何かを主張しても人々に伝わるのは何週間も何ヶ月もかかる。あっという間に世界秩序は崩壊し、何十億という人々の記録が消えた。


 やがて利害関係を考える必要もない程度に人類の数が減ると、ようやく世界政府のような代物が生まれた。とはいえ出来ることは情報の共有くらいなもので、そこでやっと、皆は思い出した。この混乱は全て月の接近によってもたらされたことを。


 その月は今、どうなっているのか?


 矢田時子が歴史の表舞台に現れたのは、このときだった。彼女は賛同する科学者たちによる組織を作り上げ、混乱を生き延び、月の観測を続けていたのだ。そして時子の短波無線での報告に、世界政府は思考停止した。


 月はカリマンタン島直上で静止し、地球に向けて〈足〉を伸ばしはじめている。


「重力場が変わった事による影響は続くでしょうが、月が静止したことでこれからは安定に向かっていくはず。それよりも今の問題は、月面の粘菌が地球に降りてこようとしている事です」


 世界政府とはいえ、その面々は辛うじて生き延びた地域のリーダー程度の人々だ。粘菌のことなど知る由もない。もはや人類は死滅しかかっている。更なる危機に対し、主導できる人物は時子以外にいなかった。どうすればいいかという問いに対し、彼女は長年考え続けていた計画を口にする。


「粘菌の求めているものは水です。しかし彼らは塩に弱い。今となって出来ることはただ一つ。カリマンタン島を海に沈めるんです」


 時子は計画を事細かに説明した。混乱に乗じ、自分たちは十発の核弾頭を確保した。そのうちの五発の核を適切に配置し、起爆させる。計算上ではカリマンタン島の八割が水没するはず。


「しかし、それだけの核を使って――放射性物質による汚染は。それに寒冷化が加速する恐れも――」


「当然。ですが粘菌に支配される結果は免れられる。当面は」躊躇する一同に、時子は冷静に付け加えた。「誰もやらなくとも、私たちは計画を進めます。しかし時間がない。今のまま進むと、〈足〉は一年で地表に到達します。その先の粘菌の動きは読めない。やるなら今しかない」


 記録はそこで途切れている。何があったのか、現在の状況からすると彼らの作戦は実施されなかったように思える。〈アーカイバ〉の伝説によれば、このとき〈娘たち〉との戦争があったという。それがどういった物だったのかは判然としない。しかし作戦を主導した時子の想いを考えると、自然と涙が出てくる。感動すると同時に、悔しくもあった。


 時子は世界が破滅した混乱を辛うじて乗り越え、更に人類を守るための巨大計画を主導しようとしていたというのに。私は一体、何処で何をしていた? やっぱり彼女たちを襲い、計画を頓挫させたのか? 誰も月に近づけさせないようにするために?


 どうしてそんな酷いことを。


 やっぱり、水沢茜はクソ野郎だ。


「参ったわね」互いにツクヨミ4の記録を読み尽くすと、セレネが放心した様子で言う。「何がどうなってるのか、全然わからなくなった。どうしてだと思う? 結局〈母さん〉が何者なのか、何処にも書いてないからよ。私たち――二百年前の私たちは、最初から何者かに操られてたのかな。それが〈母さん〉を造った? それにキューブ――私たちはあれが人類の英知の塊だと聞かされてきたけど、どうもそれも嘘みたい。一体〈娘たち〉は何がしたかったの?」


「私に聞かれてもね」


 正直に応じたアカネに、セレネは口を尖らせた。


「それで、どうするの、これから」


「どうしたもんだか――私もさっぱりわからなくなった」


 だろうな、というように、セレネは大きなため息を吐いた。


 蜃気楼の向こうに浮かんできた丑寅の街は、何の変化もないように見えた。しかし近づくにつれて難民の数が増えていき、ジャンクの城壁の外にまでキャンプが作られていた。街の人々は出来る限りのことはしているようだが、そもそもそれほど裕福な街でもない。亥の街からの食糧供給が絶たれた今、遠からず干上がるのは目に見えている。〈連合〉や辰巳へ向かうよう誘導する事しか出来ていない様子だった。


 ここにきて〈アーカイバ〉たちは、身を隠していても意味がないという結論に達したらしい。難民キャンプの中央にある大きめのテントに向かってみると、そこではエスパルガロたちが秘蔵していた医療器具や薬品をおおっぴらに広げ、傷ついた人々の治療にあたっていた。周囲には残ったレールガン三門が配置され、化け物の襲撃を警戒している。


 マーティンはすっかり、〈連合〉の司令官としての権威を失ってしまっていた。兵士たちの半分が逃げ去り、半分はトキコに説得されその指揮下に入ることを選んだらしい。忙しなくキャンプの設営や〈アーカイバ〉の手伝いをしていて、マーティン自身はエスパルガロにこき使われていた。


「なんでこんなことになってるんだ。全然意味がわからない」


 愚痴りながら洗い物をするマーティンの背中を蹴りつけ、エスパルガロは言った。


「こいつには、身体が理解するまで働いて貰わないとな。それで、何か収穫はあったのか」何処まで話していいか迷っていると、彼は苦い顔で付け加えた。「全部聞いてる。おれがそこまで阿呆に見えるか。事情は理解してる。どっちの味方かは明らかだ。おまえは戻ってきた。だろ?」


「そう。ありがと」言って、周囲を見渡した。「トキコは? まずは彼女と話したい」


「パークスの爺さんと施設にいる」


 礼を言って北に向かいかけたアカネを、エスパルガロは引き留めた。知らせていなかった別の施設が、丑寅回廊側にあるという。


 セレネと共に尖った山に向かい崩壊した大きな倉庫の中に足を踏み入れると、真新しい足跡が点々と奥に続いていた。瓦礫の隙間を抜け階段を下ると、地下は意外と元の姿を保っているのがわかる。天井の高い通路を突き当たりまで行き、鋼鉄の扉を引いた。


 そして目の前に広がった光景に、二人は息を詰めた。


 体育館ほどの高さのある天井が崩れ、僅かに日が差し込んでいる。その下に鎮座しているのは、五本の円筒と円錐が組み合わされた物体――ロケットだった。


 しかしアカネの知るロケットとは、どうにも形状が違った。長さは十メートルほどしかないわりに、直径が二メートルほどもある。ずんぐりとした姿はとても十分なペイロードがあるとは思えない。それでも外装は綺麗で、煌びやかに輝いていた。ちゃんとしたキャリア車両も隣にある。トキコとパークスはその前に立って、厳しい表情で見上げていた。


「まさか、SLBM?」


 呟いたのはセレネだった。それでアカネも悟る。この形状はSLBMに違いない。潜水艦発射弾道ミサイル、トライデントだ。


 声を受けてトキコとパークスは振り向き、再びミサイルに目を戻した。


「そう。私たちは何度も〈娘たち〉の襲撃を受けて、その度に沢山の物を失ってきた。技術も記憶も、何もかも。でもこれだけは守り抜いた。ここは最初で最後でもある保管庫(アーカイブ)」


 それで彼女は以前、〈アーカイバ〉たちよりも丑寅の無事を心配していたのか。


 そう納得していたアカネに対し、セレネは再び〈娘たち〉が信じ込まされていた原理原則を口にした。


「やっぱり〈魔女〉は月を狙い続けてたのね。その力も十分に持っていた。〈母さん〉は正しかった! やっぱりこいつらは――」


 トキコは苦笑いして遮った。


「そんな事ないわ。私たちは月を攻撃するだなんてこと、想像したこともない。考えてもみて。これは月面のクレーターを幾つか増やすくらいの威力しかない。そもそも弾頭が正常に機能するかも怪しいし――」


「じゃあどうして、こんな代物を後生大事に抱えてたの」


「どうしていいのかわからなかったの。これが強力すぎる殺戮兵器だというのは知ってる。下手に手放して誰かに――〈連合〉みたいなのに――悪用されたらたまらないわ。でも破棄するのも私たちのポリシーに反する。いずれ何かに使えるかもしれないという考えもあったし――」


「そして君たちは、〈娘たち〉の拠点が何処にあるか知っている」


 言ったのはパークスだ。アカネは真意を測りかねて、率直に尋ねた。


「本気なの?」


 彼のことはよく知らない。しかし元々はエスパルガロと共に、若いトキコを支える立場にあったらしい。硬い表情で整然と物事を口にする。


「私たちは幾つかの問題を抱えている。一つ、砂漠を乗り越え亥の街に伝播した粘菌をどうするか。一つ、かつてないほどに無防備となっている〈アーカイバ〉の状況をどうするか。一つ、君たちという不確定要素をどう扱えばいいのか」


「一発逆転の方法を考え、結果として核に行き着いた」


 皮肉に言ったアカネに、パークスは苦々しく応じた。


「頼りたくもなるさ、こんな状況では。少なくともこれを使えば、一つの問題は片付く」


「確かに。これで亥の街を吹き飛ばせば、粘菌の拡散は防げる」


「どうかしら」セレネが口を挟んだ。「既に相当量が、あの川で下流に向かったはずよ。手遅れのように思えるけど。それに粘菌の耐性次第では、爆発の影響で世界中に散らばる恐れもある」


「その通りだわ。今の状況では危険すぎる」


 トキコは最初から反対だったのだろう。あまりにも簡単に結論づけ、パークスは渋い顔で応じる。


「ならばこの核を〈娘たち〉に向ける手もある。そして粘菌制御法を得る。彼女たちが協力してくれるなら可能だろう」


「どうかな。色々と疑問」そしてアカネは、自分の分身から得た話を口にした。「つまり〈娘たち〉――というか〈母さん〉の目的が何なのか、まだ良くわからないんだ。そりゃあ施設の場所を教えろってんなら教えるよ。でもトキコ言ってたよね? 『誰かがわざわざ施してくれていた封印を、知らずに一つ一つ壊してしまっていたのかもしれない』って。今の状況はまさにそれだよ。色々と妙なんだ。矢田時子はこの島を核で吹き飛ばし、粘菌が地球にたどり着けないようにするつもりだった。でもそれは行われず、核はこうしてここにある。どうして? それでも粘菌の拡散は防がれた状態にある。これってどういうこと? まだまだあるよ。〈娘たち〉設立メンバーの記録に〈母さん〉なんて単語は一つも出てこなかった。どうして? 彼女は何者? 彼女が守っているのは何? 私らは何度も彼女に背いているらしいけど、それでも同じ事を繰り返させているのはどうして? まるで理解不能だよ。やることなすこと杜撰すぎて、何らかの意図があるとしか思えない。答えがわかるまで、強引な手は打たない方がいいと私は思う」


「それで、何か手があるんだろう?」


 見通した風なパークスの台詞に、アカネは向き合った。


「私が月に帰る。そして〈母さん〉の真意を確かめる」


 一同は目を見張り、アカネを凝視した。それに一歩踏み出して、続ける。


「このミサイルを見た瞬間、思いついた。でもそれが一番だと思う。彼女が何を考えているのか確かめなきゃ、話は何も進まないよ」


「でもツクヨミ、施設にはグレティたちがいる」と、セレネ。「彼女は〈母さん〉を一番信じてる。とても黙って通してくれるはずがないじゃない」


「セレネが通信を入れればいい。全員降下しろって。いずれそうなる予定だったんだ、誰も疑わない」


 次に疑問を口にしたのはパークスだ。


「しかしこれはミサイルだ。人を運ぶようには出来てない」


「あんたら、人類最後の科学者集団でしょ。それくらいの改造、出来ないはずがない」そしてアカネはトキコに向き合った。「降下したら月には戻れない。散々そう言われてきた。〈母さん〉が心配していたのは、人類全体が力を取り戻し、計画立てて月を侵攻してくる事態。逆に言うと、施設が強襲されるなんて事は考えてないんだよ。〈娘たち〉がいなくなれば、障害はドクター・ベンディスだけ。何てことはない。やれるよ。私はあいつの化けの皮を剥がして、事態を掌握して、最善の手を打つ。どう?」


 トキコはしばらくアカネを見つめ、呆れたように首を傾げ、言った。


「トライデントのペイロードは数百kg、射程距離は一万キロよ。最悪月と地球の重力の中間点まで行ければ、あとは降下するだけ。どうして一人で行くことが前提なの? 二人くらい、行けるんじゃ?」


 アカネは笑みを浮かべ、応えた。


「それは計算次第かな」

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