3. あまりにも巨大な月

 硬い足が岩を砕く音。フゥフゥという息づかい。クンクンと鼻を鳴らす音。


 正面だ。何かが近づいてくる。


 アカネはそちらに意識を集中させたまま左右を探り、歪んだ鉄の棒を手に取る。息を詰め緊張している間に、霧の奥から低い背の獣の影が浮かび上がってきた。


 犬だ。いや、ひょっとしたら狼の類いかもしれない。姿を現した四足動物はアカネの倍くらいのサイズがあり、目が吊り上がり、牙をむき、うなり声を上げ、見るからに凶暴そうだ。最初の一頭は黒々とした毛並みに覆われていたが、やがて灰色の物、焦げ茶色の物と、数を増やしていく。やがて四頭の犬に囲まれ、狙いを定められ、身動きできなくなっていた。奇妙なのは彼らの目が黒ではなく、濁ったエメラルドグリーンのような輝きを持っている点だった。


 これはただの獣じゃない。突然変異とか何か、そんな化け物の類いだ。


「これは全然面白くない!」


 小さく吐き捨てた時、黒い野犬が飛びかかってきた。


 怖いだの相手の都合だの考えてる場合じゃない。アカネは握りしめていた鉄棒を、真っ直ぐに突き出す。飛びかかってきた犬はそれを目にして一瞬身を捩ったが、慣性の法則には逆らえない。鉄棒に自ら突っ込む形になり、文字通り口から串刺しになり、途端に死んだ。


 だがそれで武器を失う格好にもなった。思いがけない犬の重みで鉄棒を取り落とすと、身構える間もなく残りの犬が一斉に飛びかかってきた。


 闇雲に振った拳が、またまた一頭の顔を捉えた。だが残る二頭は左腕と右足に牙を突き立てる。


 やられた、と思ったが、思った以上に痛みがこない。見てみるとスーツは犬の牙を寄せ付けず、やや潰されているだけだった。


 それでも圧迫されているのには変わりない。アカネは容赦なく左腕に食いついている犬の目を殴り、右足の犬を蹴りつける。それで自由にはなったが、三頭の犬は逃げていく様子はなかった。悲鳴を上げて飛び退いた後も、すぐに身を起こしてこちらを睨み、うなり声を上げる。


 その隙に別の棒を見つけ、そろそろと取り上げる。だが状況は更に悪くなりつつあった。二頭、三頭と、犬の数が増えていた。その全てが蛍光の目を光らせ、アカネの一挙手一投足を見逃すまいとしている。


「相当お腹空いてんのね。私なんかが美味そうに見えるだなんて」


 うん、どこかで聞き覚えはあるが、今のはなかなかいい感じの台詞だ。


 荒い息を吐きながら悦に入っていたが、すぐに現実に引き戻される。取り巻いていた六頭の犬が矢継ぎ早に吠え、次々と飛びかかってきたのだ。


 最初の失敗から学び、今度は鉄棒を横殴りに振るう。一頭、二頭と殴りつけたが、瞬く間に両足を塞がれ、左腕にも噛みつかれ、振りほどくことも出来ない。そしてバランスを崩し尻餅をついたところで、ひときわ大きな一頭が顔面めがけて飛びかかってきた。


「助けが来るなら、今でしょ!」


 今のは馬鹿な台詞だ。そうすぐに後悔していた。こんなのが最後の言葉だなんて、稀代のマッドサイエンティスト失格だ。堅く目を瞑り、ただ衝撃を待ち受ける。


 だが思っていた衝撃が来ず、怪訝に思い、薄く目を開く。


 黒々とした何かに、目の前を遮られていた。それは大きな手の形をしていて、背後から伸びている。


 一体何が。


 振り向いて、驚いた。壊れているとばかり思い込んでいた件のロボットが、アカネを包むように両腕を伸ばしていたのだ。


 犬は堅い金属にぶち当たり、悲鳴を上げて後ずさる。するとロボットの腕は柔軟に動いた。アカネの足と腕を引きちぎろうとしている犬にデコピンを食らわせると、自由になってぽかんと見上げるアカネに、ピピッ、と電子音を上げた。


『わぁ、よくわかりませんが大変そうですねぇ。何かお手伝いしましょうか? でも残念ながら緊急通報出来るチャンネルは存在していないんですよねぇ。そうだ音楽でもかけます? ワルキューレの騎行でも聞いたら、気合いが入るかもしれませんよ?』


 途端にアカネは顔を顰めた。明らかにこいつは、ポンコツロボットだ。


 それでも今は他に頼れる物がない。起き上がりつつ、彼に命じてみる。


「なんでもいいから、こいつら全部追い払って!」


『ははぁ、追い払う。追い、払う。そうは言われましても、意外と難しいですよそういうのは。なにせ今はエネルギー残量が五百メガジュールしかありませんから、サツガイせずに追い払うだけの稼働時間が取れるかどうか――』


「え? サツガイせずにって、どういうこと?」


『だってお望みは、追い払う、なんですよね? サツガイされてしまったら逃げることは出来ないわけですから――』


「あぁ、わかったわかった!」想像以上のポンコツだ。「目的はこうだ。一、私を守る。二、こいつらを私に危害を加えられない状態にする。二、にはサツガイすることや逃亡させることも含む。これでどう?」


 ロボットは、ピピッ、と音を鳴らし、次いで首を傾げた。


『うーん、一はわかりましたけど、続きはなんだか難しくてよくわかりませんねぇ。ワタクシにはついていけません。あっ、イライラしていらっしゃる? なら音楽でも聴きません? じゃなきゃエクササイズプログラムでも起動しましょうか。運動すればストレスも発散できるかと――』


「ポンコツロボット相手に漫才してる場合じゃないっての!」


 叫びながら、飛びかかってくる犬に棒を振るおうとする。しかしその腕はロボットの手に、がっちりと捕まれた。


 助けじゃない、こいつも敵か?


 一瞬思ったが、次いで起きた出来事に目を見張った。


 外殻が一斉に開くと、全身がロボットの中にするすると吸い込まれていく。両腕、両脚と関節が治具に固定され蓋が閉じると、真っ暗になった目の前に外部モニター映像が浮かんできた。


「うおぉ、すげぇ!」


 思わず感嘆の声を上げると、ロボットは得意げな声を発した。


『どうです格好いいでしょう? ワタクシもこれは気に入ってるんです。何なら何か合体音でも付けましょうか?』シャキーン、ガキーン、と、合体風なSEが流れる。『うーん、どれもイマイチですね。何なら他の音楽でも――』


「音楽はもういいっての!」


 腕を振るうと、ロボットの腕も同期して動き飛びかかってきた一匹を吹っ飛ばした。犬たちは巨大な敵に動揺しているようだったが、勇気を奮い起こして一斉に襲いかかってくる。


 しかし金属の殻をまとったアカネの敵ではなかった。数匹を殴り、蹴り上げると、すぐに割に合わないと思い直したらしい。一斉に退散を始め、気配はなくなる。


 ほっと息を吐くと、再び外殻が一斉に開いて拘束が外れた。外に飛び降りて振り向くと、ロボットは片膝をつき頭部のレンズでアカネを見つめる。


『とりあえずこれで良かったですかねぇ? ご満足いただけました?』


「まぁ改善の余地はあるけど、とりあえず十分。よくやった」


『お褒めいただき光栄です、ご主人様』


 ご主人様?


「ちょっと待って。どういうこと? あんたには他のご主人様がいたんじゃないの?」


 ロボットは、ピピッ、と音を立て、悩ましげに首を傾げた。


『はて、どうだったでしょう。ご主人様はご主人様ですが。長いこと休眠状態にあったので、色々妙なんですよね。まぁ細かいことはいいじゃないですか。それより何処かで充電できないもんですかねぇ。むむっ、あっちの方から電気の匂いがします! 行ってみましょう!』


「ちょ、ちょっと待て。勝手に話を進めるな。電気の匂い? それって何?」


『あぁ、それはニンゲン風に言葉をカイゼンしているだけで、正確には電磁波ですね。知ってます電磁波? 電場と磁場の変化によって生じる波で――わかります? まぁニンゲンにはわからないかもしれませんが、とにかく行きましょうご主人様!』


 一方的に言ったかと思うとロボットは立ち上がり、瞬時に形態を変えた。あまりに高速で目にも止まらなかったが、どこからか三つの車輪が現れ、跨がって乗れるバギーのような姿になっている。


 呆気にとられているアカネに、ロボットはチカチカとヘッドライトを点滅させた。


『さ、乗ってください! 今ならお互いにバッテリーが切れる前にたどり着けますよ!』


 逆らったところで、他に手があるわけでもない。仕方がなくロボットに跨がり、右手のスロットルを開けてみる。車輪は火山岩を踏み潰しながら回り、斜面を下り始めた。前面にカーブしている透明なキャノピーにはレーダー画面のようなものが開いていて、光点が瞬いている。何かは知らないが、北東方向、距離にして五百キロほどはあるらしい。


 しばらく霧の中から急に現れる岩のおかげで運転に集中していたが、やがて霧は薄れ、斜面も緩やかになってきた。火山岩は褐色の砂に代わり、次第に速度を出せるようになる。


 岩場を抜け目の前に広がっていたのは、夜の砂漠だった。見渡す限り何もなく、巨大な砂丘が襞を作っている。


 風が吹き付けてくる。砂漠に似合わない、湿った風だ。


 どうにも、何もかもが妙だ。


 そこでアカネは思い出した。真上にあった巨大な光の正体が何なのか、疑問に思っていたことを。


 今でも頭上から、光は降り注ぎつつあった。満月の夜よりも、なお明るい。スロットルを緩めロボットを止めてから、恐る恐る、空を見上げる。


 途端に息が詰まった。自分の目を疑った。


 だが疑いようもなく、それは、そこにあった。


「月が、でかい」


 無意識に呟いていた。


 確かにあれは月だ。ウサギが餅をついているように暗褐色の海が広がり、特徴的なコペルニクス・クレーターもそのままだ。


 しかし、巨大だった。夜空を見上げるアカネの視界の、五分の一くらいを占めている。加えて記憶にない形態もしていた。降ってきた山は大半が雲に覆われていたが、その雲は山の頂上付近から月に向かって一直線の筋をつくっていた。やがてそれは途中で途切れ、何か細い線のような物が、月と地球とを繋いでいる。


 軌道エレベーターか? 月と繋がってるのか? 月は静止しているのか? それにあの雲の流れは何だ? 月が近すぎて、大気が流出しているのか? この山は月の異常接近の結果か? というか、ここは何処なんだ? 一体地球に、何があったんだ?


『なんだいツクヨミ。ビビってんのかい?』


 老婆のような声が蘇ってきた。これは誰の声だったろう。ツクヨミって誰だったろう。思い出せない。酷い頭痛が蘇ってきて、両手に頭を埋める。


 どれだけそうしていただろう。不意にコンソールがピピッと音を立て、ロボットが相変わらずの軽快な調子で話しかけてきた。


『何をしているんですご主人様? お疲れですか? そうだ、何か音楽でも――』


「うっさい」だがそれで、少し気が晴れた。スロットルを開けバギーを砂漠に突入させつつ、尋ねた。「そういやあんた、何か名前ってあんの?」


『名前ですか? さぁ、よくわかりませんねぇ。あ、デンキとかどうです? ワタクシ、デンキが大好きなものですから』


 ピピッ、と電子音を鳴らして会話を終了させるロボットに、アカネは閃いた。


「じゃあ、ピピにしよう。あんたはこれからピピだ。いいか?」


『何を言ってるんですご主人様。私の名前はピピですよ。お忘れですか?』


「――何処に行くにせよ、まずこのポンコツを修理しないとな。きっと頭の傷が原因だろうけど」


 呟いて、レーダーに浮かぶ光点を見つめた。少なくとも電磁波が出ている以上、人類は滅亡してはいないだろう。だがこの有様じゃあ、ロボットを修理できるほどの文明が残っているのだろうか。


 アカネはあえて現実的な事を考え、頭上の巨大な存在を忘れようとした。その月はあまりにも大きく、あまりにも異常で、まともに考えると頭がおかしくなりそうだった。

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