第6話 桜茶
「は、はい」
返事をしながら、真っ赤な顔をなんとかもとに戻さねば、と、
その際、目の端が壁際に立てかけられたちゃぶ台を捕らえた。
(あ。これか……)
よいしょ、と両腕でつかみ、迷った末に部屋の真ん中に置く。ちゃぶ台の側には、
「だからぁ! あの女に、目にものみせてやるんだっ」、「あの女はどこだっ」
物騒な声が不意に聞こえて、ぎょっとしたが、ふたつとも、やけに幼く、舌足らずだ。
「女、なんて言うんじゃない。〝小夏さん〟って呼びなさい」
「こなつ」「こなつかっ」「こなつっ」「こ・な・つー」
「ああ、もう、うるさいっ! 帰れっ」
「葉っぱみつけた?」
首を傾げて尋ねると、「うん!」と元気な声が返ってくる。
二頭とも、伊織の足にまとわりつき、ぴょんぴょんと跳ねていた。
「なんのにおいー?」「おれらも、おれらも」
鼻を宙に突き立てて、せわしなく動かしている。
嗅ごうとしているのは、伊織が持っている湯呑のようだ。
盆の上に載っていて、よっつある、ということは、「帰れ」といいつつも、彼らの分も入れたのだろう。
「塩抜きをしていたら、どこから入り込んだのか、もう……」
ため息をつき、伊織が部屋にあがってきた。ちょろり、と素早く二頭も上がりこむと、小夏の右にカワウソ。左に子狸が、正座する。
よほど楽しみなのか、ぶふー、ぷふー、と鼻息が荒い。
「お待たせしました」
伊織は小夏の向かいに座ると、そっと、湯呑を差し出す。
続いて、待ちきれず、左右に細かく揺れているカワウソと子狸の前にも順に置いた。
「……さくら……?」
両手で包み込み、湯呑を近づけると、白い器の中で、さくらのつぼみが、ゆっくりと花びらを開いているところだった。
「桜餅みたいなにおいするー」「ほんとだー」
カワウソと子狸は、器を持つのではなく、上から覗き込んでいた。湯気があたるのか、二頭とも、ひげが、ほよほよと揺れ動いている。
「桜の花びらを塩漬けにしたものなんですよ」
穏やかな声に目を向けると、伊織が目元を緩ませていた。
「桜茶です。飲むときは、ちょっと塩抜きして……。加減を見ながらですから、もし、味が物足りなかったら、もう少し濃くしますよ」
言われて、おずおずと頷きながらも、小夏は「でも」と首を傾げた。
「どうして、こんなものを
作って、持たせてくれたにしろ、なぜだろう、と湯呑を眺める。
「結納の席で、出されるお茶なんですよ」
伊織の声に、目をまたたかせた。ずずー、っと音がする、と思ったら、両脇でカワウソと子狸が一気に
「塩味―」「薄めた桜餅―」
なんだか二頭とも、物足りない顔をしている。
「「お茶がよかったー」」
「めでたい席に、お茶は嫌われるんです」
諭すように、伊織が二頭に告げる。
「お茶を濁す、とか。あまりいい印象がありませんから」
視線を感じたのか、伊織は小夏に微笑んで見せた。
「桜茶は、お湯の中で花が開くように揺れますから。
「……ご、ごめんなさい……」
絞り出すように喉から漏れたのは、謝罪の言葉だった。
驚いたように目を見開く伊織に、小夏は湯呑を机に置いて、がばりと頭を下げる。
「すみません。なんのもてなしどころか……」
畳に手をつき、額を押し付けたまま、小夏は呻く。「どうしたの」「こなつ、どうした」。ゆさゆさと左右に揺れるのは、カワウソと子狸が押しているのだ。彼らさえ戸惑っているが、小夏は情けなくて、申し訳なくて、合わせる顔がない。
桜茶どころか。
接待の食事さえ用意せず。
いただいた結納は、ごっそりそのまま実家に奪われた。
祝言はあげない、といったが。
ようするに、金が惜しいのだ。
このぶんでは、伊織に支払う結納の礼もないだろう。
無一文のまま、目もよく見えず、あやかしばかりと話をする、奇妙な娘を体よく押し付けられ、なんと詫びたらいいのかわからない。
「いや、あの。ぼくとしては」
するりと、畳を絹が滑る音がして、ついでに、「ちょっとカワウソ、どいて」とすぐそばで声がする。
「小夏さんがここに来るのが、今日か、半年後か、の違いだけなので。あの」
背中を大きな手が撫でる気配がする。
その気配に。
ふう、と小夏はようやく息を吐いた。
同時に、どっと涙があふれ、畳に落ちる。
「予想より早いですが、あなたが
優しく背中を撫でられ、嗚咽が止まらない。拳を握りしめ、うつぶせのまま、涙があふれる。
「こなつー」「こなつ」と、子狸もカワウソも不安そうだ。
「このような桜茶まで、持たせてもらって。きっと、仕事場の皆に、愛されていたでしょうに……」
気づかわしげな声は、だがすぐに喜色にあふれた言葉に変わる。
「ぼくは、本当に良いお嬢さんをいただけたとおもっています」
そっと両肩を抱かれ、顔を起こされた。涙でぐずぐずの顔を見られたくなくて、顔を背けるが、両頬を大きな手で包まれる。
「どうぞ、末永くよろしくお願いします」
優美に微笑まれ、涙が止まらない。
「こ、こちらこそ」
鼻詰まりの声で、そう返せたのは。
カワウソが、「こなつー」を三十回繰り返したころだった。
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