第16話 母の愛
「じゃあ、これも家紋だったんでしょうか。私、てっきり模様だとおもってて……」
「これ、
掌に載せると、伊織は驚く。思わず、「たかいですか!?」と聞いて、苦笑いされた。
がっつきすぎたかもしれない、と顔を赤くして反省する。
「ちょっと、すいません」
断りを入れて、伊織は
濃い黄色のそれは、円形をしている。
彫られているのは、表と裏で別物だ。
表に彫られているのは、自分の尾を噛もうとするように、牙を剥いた、丸く、ふくふくとした犬。
そして、裏は両翼を広げたように描かれた植物だ。
「そう、ですね。こちらの、植物は蘭でしょうし、この
目元を緩め、伊織は微笑む。
「きっと、〝守り犬〟ですよ。こちらも、子どものお守りに使われるものです」
伊織が手を伸ばし、小夏の掌にそれを握らせた。
「大事な、大事な。あなたを今まで守って来たものです。そう簡単に売ってはいけません」
穏やかに。
だけど、芯のある声にそう言われ、小夏はもう一度、着物と、掌の根付を見た。
それは張り巡らされた、母の愛情だった。
この子を守ってくれるように。
守り犬にそれを託し、麻の葉文様で隠し、扇で魔を仰ぎ飛ばし。
着物を奪おうとする〝悪意〟には、自分の出自でもって、
この子が、無事育ちますように。
母は、それをずっと、願ってくれていたのだろう。
命が消え、肉体が滅び、魂だけとなっても。
それでも、我が子が無事、成人し、幸せに暮らせるように、と。
これらは、連綿と願い続けられた、母の愛だったのだ、と気づいて。
ほろり、と頬を涙が伝った。
「……ごめんなさい。ありがとうございました」
隠すようにして涙を拭うと、ぐすり、と鼻を鳴らして笑う小夏に、ふと、伊織は尋ねた。
「でも、どうしました。なにか欲しいものでもあるのですか?」
そこでようやく、前合わせが大分崩れていることに気づいたらしい。手早く直している。
「いえ……。あの……。少しでも、
「去年よりだいぶん柏餅も売れましたし……。このところ、水茶屋のこともあって、売り上げがいいので、大丈夫ですよ。祝言のための、なにを買いましょうか?」
促されて、「とんでもない」と飛び上がりそうになる。
「では、どうして」
別段口調はきつくないのだが。
まっすぐに目を見つめ、はっきりとそう言われたら、なんとなく逃げられない気になる。
「小夏さん?」
名前を呼ばれ、返事を待たれた。
正座した膝の上で、根付を何度ももてあそんでいたが、伊織は「また、いつでも言ってくださいね」とは言わない。
代わりに、「いつまでも待ちますよ」という圧をかけてくる。
「あの……」
ぎゅ、と根付を握る。鼈甲の表面が、身体の熱を吸ってくれたように、余分な迷いがふっきれた。
「せっかく……。伊織さん。結納金を用意してくださったんですけど……」
いつかは言わなければいけないことだ、と腹をくくる。「はい」。するり、と音を立てて、伊織も向かいで正座をし直した。
どこか
「
「は、あ……」
拍子抜けしたように、背を丸める伊織に、「だから!」と、力強く訴えた。
「ちょっとでも私財を売って、お返ししようと思ったんですが。……ちょっと、これは……、その、売れないので……。でも大丈夫です!! 私、一生懸命働いて、伊織さんに……っ」
膝立ちになり、前のめりになって訴えると、小さく、ぷ、と噴き出された。
「……え?」
「なんだ。よかった」
言うなり、伊織は笑いだし、布団に仰向けにごろりと転がってしまう。
「結納金を返すから、この結婚はなかったことにしてくれ、って言いだすのかと思いました」
首だけ小夏に向けて、くつくつと笑いながら伊織は言う。
今度。
ぽかん、と口を開いたのは小夏だ。
「今の勢いは、絶対そうだとおもいましたよ。もう、こんな菓子屋で働くのは嫌だぁ、とか」
口元を丸めた拳で隠しながら笑う伊織に、小夏は詰め寄る。
「そ、そんなこと言うわけないじゃないですかっ」
「結納金のことは、なんとなく、そうかなぁ、と思ったので、別にいいですよ」
「はああああああ!?」
信じられない、と仰向けの伊織を上から覗き込む。
「た、たたたたたたた、大金じゃないですかっ」
「大金ですよ」
けろり、と伊織が答えるから、絶句する。
「だけど、お金で貴女を嫁にもらえるのなら、安いものです。金など、また貯めればいいじゃありませんか」
自分を見上げ、優美に微笑む伊織は、まるであやかしのように、美しい。
小夏は膝立ちになり、見下ろしたまま動けない。
「ああ。でも、祝言のための、貴女の着物や装飾品がありませんね。それはまた、揃えなくては」
いえ、そんなものはいりません、と言いたいのに、喉の奥がカラカラで、声が出てこない。
伊織は寝ころんだまま、するりと腕を伸ばす。
細くて、しなやかではあるけれど、確かにしっかりと筋肉の張った男性らしい腕だ。その腕が伸び、右肩に束ねて垂らした髪をすくいとって、離れる。
「この髪によく似合う、かんざしとか」
大きくて、それなのに、器用に菓子を作り上げる指が、そっと小夏の唇を撫でた。
「ここに塗る、紅とか」
ゆっくりと伊織が上半身を起こすのに。
小夏は動けない。
じっと。
膝立ちのまま、止まっているから。
伊織の端正な顔が距離を詰めてきても、逃げられない。
まつげが触れ合いそうな距離で、見つめられた。
こんなに間近で。
誰かを見るのは初めてだ。
そう思うのに。
微動だにできない。
息さえ止まった。
「貴女に似合う、白無垢とか」
彼の掌が、小夏の首の後ろに回されて、そっと引き寄せられる。
呼気が。
ふわりと。
唇を撫でて。
重なりそうだ。
「小夏……」
小さく名前を呼ばれ、それが薄い膜のように自分を取り巻く。
そっと、目を閉じた。
途端。
「あのさー! こなつぅ!! 麦茶、ちょうだーい」
「ねぇねぇ! 見て! カエルみつけたー!」
突如、裏戸が開き、カワウソと子狸が飛び込んでくる。
「うあああああ!」「ひゃああああ!」
咄嗟に、伊織は右に。小夏は左に、悲鳴を上げて飛びすさった。
「麦茶、麦茶」というカワウソに、小夏は、真っ赤な顔で、「はいはい、麦茶ね」と応じて厨房に向かったが。
その背後から、伊織の腹からの怒声が鳴り響いた。
「お前ら、帰れ!! そして今すぐ、カエルを捨てろ!!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます