第15話 花抱き蘭

◇◇◇◇


(……ほんっと、売れそうなものって、なにもないなぁ……)

 部屋の隅で風呂敷を広げ、思わず乾いた笑い声が口から洩れる。


 薄く、もうほころびかけた紺色の風呂敷の上にあるのは、腰巻が二枚と、襦袢じゅばんが一枚。夏用にと置いている麻の、単衣ひとえの着物が一着。


 本当はあと三着ほど風呂敷の中に詰め込まれていたのだが、先日、あねさんたちに返したのだ。姐さんたちだって、余裕があるわけではない。気持ちだけ受け取りました、といって、平太を通じて渡している。


(……これは、どうだろう……)

 ごそごそと、風呂敷の一番下から引っ張り出したのは、一つ身の着物と、根付ねつけだ。


本裁ほんだちならまだしも、一つ身はもう、どうしようもないもんなあ)


 こどもしか着られない。

 手早く残りを風呂敷に包みなおし、一つ身の着物と根付を、自分の布団の方に広げた。


 洗えば、そして手入れをすれば、きれいなのかもしれない。手触りもよく、柄も赤地に、麻の葉模様。裾のあたりには、扇が配されている。


(……これは、売れるのでは……?)

 改めて見ると、この着物、良いのではないだろうか。


(でも、こっちはなぁ……。これ、売っちゃうと……)

 ちらり、と根付を見る。


 一番年かさのあねさんから、『人の目についたらられちまう。大事に隠しておくんだよ』と、口やかましく言われていたものだ。


 価値は知らないが、それでも、これがなくなると、自分は無一文だ、という自覚はある。


「戻りました」

 きぃ、と裏口の戸が開き、寝間着姿の伊織いおりが姿を現す。


「あ。どうでした?」

 中庭にある風呂から戻ってきた伊織に声をかけた。 

 小夏こなつは、先に使わせてもらっていたので、湯加減が気になる。


「ぬるくなかったですか?」

 手拭てぬぐいで、わしわしと頭をふきあげながら部屋に上がる伊織に尋ねると、「いえ、いいお湯でした」と笑顔で返された。


 小夏はいつも伊織の後でいい、というのに、それじゃあぼくが気を遣う、と、結局交代で一番湯を使うことにしたのだ。


 節句が終了し、戦場のようなあの一日がようやく終わったのだから、今日は順番などかまわず、伊織に一番に入ってほしかったのだが、「疲れたのはいっしょ」と、彼は彼でがんとして譲らず、結局小夏が折れる形で、さっき、風呂を済ませたのだ。


「子ども用の、着物ですか?」

 隣に敷いた布団に胡坐あぐらをかき、伊織は不思議そうに首を傾げた。


「ええ。ちょっと、出してみたんです」


 手に取って広げ、裏返してみる。

 光源が行燈あんどんしかないのでよくわからないが、虫食いなどはないように見える。


「いや……。まだ、ちょっとその。子ども用の着物とか、早いんじゃないですかね!?」

 素っ頓狂な伊織の声に、驚いて顔を上げる。


 向かいでは、風呂のせいなのか、真っ赤になった伊織が、立ったり、座ったりと、ひとり狼狽ろうばいしていた。


「まだ、そういうこともしてませんし」とか、「いけません。そういうことは、まだいけませんっ」「物事には順序というものがっ」「祝言しゅうげんがとにかく終わらねばっ」と、ひとりで焦っている。


「そうなんです。その祝言の足しに、どうかな、と。売れますかね、これ」

 なんのことかわからず、小夏が声をかけると、「売、る」と、一語事に区切り、奇妙な動きを自動停止させた。


「私が五十鈴屋いすずやに連れてこられたとき、着ていたものだそうです。これ、まだ状態がいいとおもうんですよ」

 ふむう、と小夏は息を吐き、もう一度眺める。


 年嵩の姐さんが言うには、他にも小夏はいくつも着物を持って五十鈴屋に来たのだそうだ。


 だが、ほとんどを佳代かよに奪われ、残ったのは、身に着けていたこの着物だけだったらしい。


 しばらくは着ていたそうだが、「奪われる前に」と、姐さんたちが、自分たちの着物を潰して小夏用に仕立て上げ、この着物と根付だけ、隠してくれたのだそうだ。


「あ……。そ、う、で、す、か」

 すとん、と布団に腰を下ろし、「あつい」と、襟をつかんで、ばおばお空気を送っている。


「今夜はなんだか暑いですねぇ」

 小夏は立ち上がり、障子戸を薄く開ける。

 ふわり、と夜気を孕んだ風が室内に吹き込み、良い風だと目を細めた。


「小夏さんが着ていたんですか?」

 自分の布団に戻ると、伊織が四つん這いになるようにして、着物を覗き込んでいた。


「ええ。覚えてませんが」

 苦笑いして、その傍に座る。


 障子から吹き込む風が、室内の空気を揺らせた。舞い上がるのは、伊織の身体がまとう石鹸の香りだ。


 惹かれるように見ると、さっき、あわせをつかんで風を送っていたせいか、だいぶ乱れ、鎖骨から胸までが見えてしまっている。


 行燈の明かりが、彼の肌を滑り、なんともいえない淡い影を作っていた。


(ち、ちゃんと、着てほしい……)


 なんとなく、目のやり場がなく、小夏は真っ赤になって、顔をそらす。自分は大丈夫だろうか、と寝間着の襟を合わせ、下して、右肩に垂らした髪を、意味もなく整えてみる。


「小夏さんは、お母さんに大切にされていたんですね」

 だが、伊織は小夏の動揺など気にもせず、着物を持ち上げてにっこり微笑んでいた。


「え……?」

 首を傾げると、伊織は胡坐をかき、もう一度丁寧に着物を布団の上に広げる。


「赤い着物も、麻の葉文様も、魔除けなんですよ」

 伊織の、長くしなやかな指が着物を指す。


「こどもによく使われる意匠いしょうです。それにほら。この、扇。これも縁起ものです」


「扇が?」

「扇は広げて使いますから。根元から先端に向かって広がるこの形は、末広がりに通じるといって、こどもの未来を願うものですよ」

 するりと、彼は手を伸ばし、丁寧に畳み始めた。


「小夏さんのお母さんが、小夏さんの健康や幸せを願って作られた着物です。売っちゃいけません」


「いや、でも……」

 下唇を噛んで、言いよどむ。


 それでも。

 自分は、彼から貰った結納金を、全部奪われてしまったのだ。祝言を挙げる金もない。


「それに、これは売れないんじゃないかなぁ」


「え!? ダメですか!?」

 衝撃を受けて尋ねると、「いや、わからないんですが」と、前置きをし、綺麗に畳みなおした着物の後ろ襟を指さす。


「紋が、入ってますし。これ、後ろ袖にもさっきみたら入っていたので、格は高いと思うんですが、〝花抱はなだき蘭〟って、珍しい紋ですからねぇ。誰にでも使えるってわけじゃないでしょう」


 言われて、目を近づける。


 そうだ。

 今まで、姐さん方から『盗まれるから出すな』と言われ続けていたから、じっくりみたことがなかったが、確かに紋が入っている。


「これ、小夏さんの御実家の?」

 言われても、わからない。首を横に振り、その家紋を眺める。


「多分、この紋が入っていたから、五十鈴屋いすずやさんには取られなかったんでしょう」


 そっと。

 気遣うように、そっと。

 伊織は言う。


 なるほど、と妙に落ち着いた気持ちでそれを聞いた。


 姐さんたちは守ってくれていたに違いないが。

 この着物は、奪ったとしても八重やえに着せるわけにはいかない。


 なぜなら、めかけの女の家紋だからだ。


(そういう意味では、お母さんは守ってくれたのかも)


 ほかの着物は取られるものだ、と実母も分かっていたのかもしれない。


 だけど、自分と、そしてその血を受け継ぐ子の家紋だけは、守り切ったのだろう。

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