和菓子屋千寿堂繁盛記 恋は甘い菓子のように
武州青嵐(さくら青嵐)
四月
ー卯月ー
第1話 結納の日
「……まだ、戻ってこないのかね」
潜めた声が聞こえ、
膝の上に乗せた拳をぎゅっと握りしめ、ひたすら
「
たしなめる様な声が聞こえ、小夏は、そっと視線を上げた。
その様子はまるで、川面から鼻先をのぞかせる亀のようで。
きっと、異母妹の
目が合うと、その青年は、おだやかに微笑んで見せた。
「今日は、本当に良い天気ですね」
柔らかで、おだやかな声が小夏の頬や髪を撫でて、過ぎた。
(いい声……)
ぼやり、とそんなことを思い、改めて目の前の青年を見る。
菓子屋の
羽織は
年は小夏と同じ十八歳だというが、落ち着いた色合いの着物のせいか、幾分彼の方が上に見える。
(不思議。このひと、はっきりと見える)
小夏は、まばたきを繰り返した。
初対面の人間は、ほとんど輪郭を伴わず、ぼんやりと見えて、いつも声や仕草で相手を判別していた。慣れてくると、顔かたちが分かってくる小夏にとって、〝声〟や〝匂い〟というのは重要だ。
だから今回も、耳を澄ませていたというのに。
不意に視界に入ってきた彼の容姿は、びっくりするぐらい、鮮明に映る。なんだろう。急に目が良くなったのだろうか。試しに、葉田を見てみる。
(……やっぱり、そうよね……)
彼の首から上は、まったくぼやけてよく見えない。
そろり、と再び、視線を伊織に戻す。
短く切りそろえた濡れ羽色の髪。夜の闇を切り取ったような切れ長の瞳。鼻筋はすっと通っていて、唇は薄いが、冷酷には見えない。それは、彼の表情によるものが大きい。
あたたかく、そして、凪いでいた。
「良い、お天気ですね……?」
伊織は、口角に苦笑をにじませ、語尾を上げて見せた。同じ言葉を繰り返され、小夏はきょとんと、目をしばたかせる。
「……返事が、できぬのか?」
訝し気に葉田という仲人に尋ねられ、小夏はようやく、さっきから伊織が話しかけているのが、自分だと気づいた。
「は……っ。い……っ。う……っ。そ、……。そう、ですね」
もはや返事とも呼べない呼吸音は、葉田をあきれさせたが、伊織は穏やかに頷いてくれた。
「本当に。良い日和でなによりです」
伊織はいいながら、着物の衿合わせに指を這わせる。暑いのだろうか。濡れ縁につながる障子を開けた方がいいのだろうか、と腰を浮かせかけた小夏だったが。
彼の羽織に着いた、藤蝶の家紋に、再び凍り付く。
彼が着ているのは、色紋付だ。
結納、という今日の日に合わせ、それなりの服装で臨んできてくれている。
ぎこちなく視線だけ移動させ、葉田を伺う。
彼も、
(……どうしよう……)
再び小夏は額から汗をにじませながら、俯く。
対して、自分はどうだ。
結納と聞いていたので、なんとかまともな着物を探し出してみたが、しょせん木綿のそれだ。
帯だって、結び目で隠しているが、実は端が擦り切れている。
白足袋すら持っていない。立ち上がったら、ばれてしまう。
ぎゅっと、裾を引っ張って、素足を隠そうとしたが、すでに気づかれているだろう。
こうやって、俯いているだけでは、向こうに観察されるのではないか。
本当にこの娘は、料理屋
疑われてはどうしよう。
いや、すでに葉田など、勘ぐっているのではないだろうか。
(……なにか、話したほうがいいのかな)
不意にそんな考えが浮かんだ。
とにかく、何か話しかけ、そして気を逸らさなければ。そうだ、それがいい。
意を決して顔を上げると。
伊織と目が合い、にっこりと微笑まれた。
途端に、かっと頬に血が上る。
(そうだ……。化粧、してないんだ……)
だから、顔を上げずにやり過ごそうと思っていたのに、なにやっているんだ、と慌ててまた俯く。
動きが明らかに不審だ。葉田の湿気たため息に、胃が痛む。
いたたまれなくなって、何か口実を探して、部屋を出ようかと腰を浮かせた。
(……お茶……)
はた、と気づく。
自分と、それから客人である伊織や葉田にはお茶が出ていない。
(そうだ。お茶を出してくる、って言おう)
ぱっと顔を上げ、上気したまま「あの」と声をかける。「はい」と、伊織がにこやかに返事をするものだから、また耳まで赤くなってうつむき、すとん、と腰を下ろした。
いや、いかんいかん。こんなことでどうするんだ、と、改めて自分を奮い立たせたとき。
「おまたせいたしました」
廊下を歩く足音がした後、しゅ、と小気味良い音を立てて背後の障子が開いた。
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