第2話 祝言など必要ありません
「結納目録、拝見させていただきました」
するすると入ってきて、
小夏の実母は重太郎の
その実母が死に、五十鈴屋に引き取られたのは四歳のときだ。
以降下働きの女たちとともに寝起きし、朝から晩まで働いている。
「葉田様におかれましては、大変なお勤め、誠にありがとうございます」
畳に手をつき、深々と重太郎が頭を下げるので、小夏も慌ててそれに倣う。
「では。わたしはこれで」
もう勘弁願いたい、とばかりに葉田は深い息を吐いて立ち上がった。小夏はさらに身を固くした。明らかに葉田は不機嫌だった。通り過ぎざま、蹴りつけられたらどうしよう。義兄の
「玄関まで、お送りいたします」
だが、当然そんなことはなく。
重太郎に付き添われ、葉田は室内をそのまま出る気配があった。小夏は平伏に近い姿勢のまま、ほう、と息を漏らす。
「
空気が動き、佳代が身体を起こしたのが分かった。自分はどうしたものかと、おどおどしながら上目遣いに周囲を見やる。
「もう結納をお納めいただいたのですから、どうぞ
斜め向かいに端座する伊織は、凛とした声で応じていた。
小夏など、佳代が隣にいるというだけで動悸が止まらないのに、彼は背筋を伸ばし、立派だ。そのたたずまいに、ほれぼれとする。
「では、伊織さん。ふつつかな娘ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
佳代が頭を下げるので、伊織も応じて深く頭を下げたのだが。
「小夏」
彼が頭を上げるのも待たず、佳代は声を発した。「はい」。反射的に返事をすると、視界の隅に不審げな伊織の表情が映る。
佳代が頭を下げるなど、どうせ形ばかりなのだ。
小夏にはそのことが分かっているが、伊織は姑の態度を訝っているらしい。これが、嫁に出す娘にする態度なのか、と。
「さっさと支度をしな。婿殿を待たせるんじゃないよ」
短く言い捨てられ、伊織だけではなく、小夏も目を見開く。
「どこかに……。行くのでしょうか」
そわそわと視線を
そういえば、まだお茶を出していない。
結納というものがどのように行われるのかわからないが、場所を移して、お茶や食事などをするのだろうか。
「なにいってんだい」
ふ、と鼻から空気を抜いて、佳代は
「婿殿のお宅に行くんだろう。荷物を持ってきな」
「ああ。見に……いらっしゃいますか?」
伊織が言葉を差し挟む。おどおどと腰を浮かせたり、畳に手を這わせたりしていた小夏は彼に顔を向けた。
「舅さまや姑さまにはお願いしていたのです。結婚したら店を手伝っていただかなくてはならないので、見学に来てください、と」
なるほど、と小夏は彼の目を見てうなずいた。
店を手伝うことにはなんら問題はないが、嫁いですぐ、戦力になるために、今から仕事を覚えてくれ、ということなのだろう。
「そ、それでは……」
口にしたものの、はた、と小夏は動きを止める。
見学に行くための、荷物とは何だろう。
手土産とかだろうか。
それとも結納には返礼があるのだろうか。それを今から持参ということなのだろうか。
「ああ、そのことですがね、伊織さん」
しゅ、と畳をこすって佳代が膝を進めた。
「主人と話したんですが……。もう、このまま小夏をそちらに引き取ってくださいませんかね」
「……は?」
さすがの伊織も数秒硬直した後、首を傾げた。それでも必死に笑みを浮かべて佳代に尋ねる。
「あ……。あの、では、
言葉をいまだ失ったままの小夏の前で、伊織は額に手を当てる。なんとか状況を把握しようと、取り繕った表情のまま佳代に頭を下げて見せた。
「ご存じかと思いますが、当方には両親がすでにおりません。このようなことを相談すべき相手がおらず、ご無礼があったのなら……」
「無礼などありませんよ。このまま、小夏をそちらの嫁にしてください、と申し上げてるんです」
佳代はぞんざいに言い放つ。
「いやしかし……。祝言は……」
「祝言など必要ありません。もともと、
小馬鹿にしたように、「ねぇ?」と促す姑に、伊織は今度こそ口を閉じた。
「持って帰ってください、この子を」
ふふふ、と佳代は笑い、するりと首を小夏に向けた。「ほら」。口を尖らせ、目をすがめる。
行け、ということなのだろう。
「小夏さん」
聞きなれない声に名前を呼ばれ、小夏は肩を震わせて、彼を見た。
そして。
身震いをする。
目が。
鋭い。
さっきまでの柔和な表情は消え失せ、能面のような無表情を貫いている。
肩口辺りに怒気をまとわせるその姿に、小夏はあっけなく絶望した。
ああ、捨てられた。
簡単にそう思った。
『こんな話は聞いたことがない』、『縁談はなかったことに』、『帰らせてもらう』。
次に彼の唇が紡ぐ言葉を想像し、小夏は打ちひしがれた。
せっかく、五十鈴屋から出られると思ったが。
やはりそんなことは甘い夢だったのだ。
自分は一生ここにいるか。
死ぬか。
そのどちらかなのだ。
「準備に時間はかかりますか?」
「……………は?」
空気が口から洩れる。
咄嗟に死ぬための準備のことだろうか、とおもった。
だったらすぐだ。
ここから大橋までは走ってすぐ。六十も数えれば、つく。そのあと、川に飛び込めばいいのだから。
「ろ、六十も数えれば……」
まじめに答えると、伊織は深くうなずいた。
「では、玄関にて、待たせていただきます」
「……は、あ……」
一緒に大橋まで走るんだろうか。ふと、首を傾げたら、伊織は綺麗な仕草で立ち上がった。
「それでは、小夏さんを嫁にいただいてまいります」
「………は………?」
いま、ちょっと理解がおいつかなかった。
小夏は首を伸ばし、「え? は?」と問いかける。その戸惑いが伝わっているのか何なのか、伊織は大きくうなずくと、小夏の手を取って立たせた。
「千寿堂に参りましょう。小さな店ですが、なに。ふたりで暮らす分にはなんの問題もありません」
「……千寿堂、ですか……。大橋、ではなく」
「大橋?」
首を傾げ、伊織は不思議そうに言う。
「まぁ。大橋を通って、
千寿堂。
繰り返し呟いたとき、強烈な痛みが腰に伝わり、小夏は呻いて顔をしかめる。
「五十鈴屋さんっ」
荒い声を上げて叱責した伊織の声は、「ぐずぐずすんじゃないよっ」という佳代の怒声が潰す。
「すみません。おかみさん」
腰を殴られたのだと気づき、小夏は伊織の手を振り払って床に額をこすりつけた。
今日は、おかあさんと呼べ、と言われていたが、そんなことはついぞ忘れた。多分佳代も忘れているだろう。
「さっさと支度しなっ。婿殿が玄関でお待ちなさるそうだよっ」
「はい」
ぱっ、と立ち上がり、室内の様子など伺う余裕もなく、廊下に走りでる。
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