番外編 一月

ー睦月ー

第36話 正月1

 そっと格子戸こうしどを開け、中の様子をうかがう。


(よかった。まだ、眠ってる)


 伊織いおりは、布団の中で微動だにしない小夏こなつを見て、小さく息を吐いた。


 少しの物音でも起きてしまいそうで、できるだけ静かに下駄を脱ぎ、居間に上がる。


 手に持っている鉄瓶を火鉢の五徳ごとくに乗せると、しゅん、と大きな音が立ち、反射的に小夏を見た。


(……よし)

 眠っているのを確認し、それから、そろそろと布団の隣に座る。


 初日の出は、もう上ったらしい。

 室内は明るく、火鉢のお陰で寒いこともない。ずっと鉄瓶で湯を沸かし続けていたから、適度な湿気もある。


(……熱、下がったかな……)


 眠っている小夏の様子を伺いながら、伊織は手を伸ばして、額にふれようかどうしようか迷っていた。 


 見た感じ、大みそかの夜ほど、頬も首も真っ赤ではない。


 掛け布団も定期的に上下し、小さく開いた口からは、すうすうと気持ちよさそうな寝息が聞こえてきていた。


(こうやって寝顔をじっくり見るの、初めてかも)


 不謹慎にもなんだか嬉しくなって、伊織は胡坐あぐらをかいたまま、布団にいざる。


 伏せたまつげは長く、鼻もすっきりと伸びている。千寿堂せんじゅどうに来た時は、少しこけてさえいた頬は、今では柔らかい曲線を描いていた。


 眠っているから、今は下ろして束ねた髪はつやつやで、伊織は彼女の髪に触れるのが実は大好きだった。まるで、黒絹のようだ、とおもっているのだが、これも、千寿堂に来てから、髪質が変わった気がする。来た当初は、ぱさぱさとしていて、毛も細かった。


 どこからどう見ても。

 かわいい、と思う。

 うちの妻は。


 少なくとも伊織は、彼女の外見に対してそう思う。


 本人にも告げるのだが、『伊織さんは、お上手ですね』と苦笑いされてしまって、どうにも信じてもらえていない。


(こうやって、ずっと寝顔を観てるのもいいな)


 頬を緩ませ、くうすう、と彼女が立てる寝息を聞く。なんだか、至福のひと時だ。


 基本的に、伊織は小夏にゆっくりしてほしい、と思っている。

 だから、餡作りや大量注文が入って早く起きなければならないときは、できるだけ、物音を立てずに起きるのだが。


 あっさりと小夏は目を覚ましてしまう。


 それは、同じ布団で一緒に寝ているときも、別々に寝ているときでも、だ。


 『もう少し寝てていいんですよ』と声をかけるのに、『いいえ、大丈夫です』とにっこり笑って着替えを始める。


 日中もそうだ。

 水茶屋がひと段落したり、すこし手が空いたりすると、すぐに居間の掃除をしたり、食事の準備をしたりする。


 『ご飯なんて、買えばいいんですよ』というのに、『伊織さんが好きそうな食材を売っていたので』と、はにかんで調理を始めてしまう。


 伊織は、八歳の時から千寿堂で菓子作りを習い、そして見習いとして働いている。


 小夏はよく、『伊織さんは働きすぎです』というが、同時に、手の抜き方も知っている。


 忙しい時と、手を抜くときと、休む時と。

 それらをうまく使い分けているが、小夏はそうじゃない。

 まだ慣れていないからなのか、なにごとにおいても全力で取り組んでいる。


『あんた、働かせすぎなんだよ』

 数刻前にかんざし屋の奥さんに言われた言葉が不意によみがえり、口元に浮かんでいた笑みが消えた。


 大みそかの晩のことだ。


 十日ほど前から、千寿堂では、小餅と飾り餅を大量に販売していた。


 朝早くからもち米をふかし、大天狗と狐女、カワウソや子狸まで総動員して餅をつき、丸めてできたそばから、店頭販売だ。


 合わせて、年末のあいさつに使う手土産用の菓子も販売するなど、猛烈な忙しさが続いた。


 特に今年は、水茶屋をしたせいで、常連が増え、餅も菓子も、飛ぶように売れた。


 その合間に。

 『しなくていい』というのに、小夏は時間を見つけてはおせちの準備までしていたのも、伊織は知っていた。


『おせちなんて、初めて作るので……。お口に合うかどうか』

 照れながら、重箱に料理を詰める小夏を、可愛いとさえ思った。


 あのときの、己を殴ってやりたい。


 結果的に。

 除夜の鐘を聞きながら、そばを食べていた時。


 小夏が、首を傾げたのだ。

『すいません。味が変でしたね』と。


『そんなことありませんよ。美味しいですよ』

 伊織が応じ、向かいに座る彼女を見た途端、異変に気付いた。


 頬が、なんだか真っ赤なのだ。

 行燈あんどんの灯を受けているにしても、妙に赤い。


 餅を売り切り、菓子もすべてはけ、それから互いにのんびり風呂に入ったのは、一刻ほど前の話だ。

 のぼせ、というのは考えられない。


『小夏さん?』

 大丈夫ですか、と問う前に彼女はいきなり立ち上がり、口を押えて木戸に走る。どうやらかわやにむかったのだと気づいたものの。


 追うべきかどうか、迷う。

 たぶん、吐くのを見られたくないだろうし、自分としてもどうしたらいいか分からない。


 咄嗟に、隣のかんざし職人の家を訪問すると、のんびり、『あけましておめでとう』とあいさつされたが、事情を口早に説明する。


『やだっ。ちょっと、つわりじゃないの!?』

『はあ!? 違うと思いますっ』


『まったく、これだから男は野暮だよう。絶対、そうだって! 身に覚え、あんだろ?』

『いや、そりゃありますが。あれは違いますっ。とにかく、厠に行ってくださいっ』


 絶対つわりだ、いや違う、とかんざし職人の奥さんと押し問答をしながら、それでも千寿堂に引っ張り込み、様子を見てもらうと。


『ちょっと、あんた! 裏庭で倒れてる! うちの人、呼んできてっ!』


 怒鳴られて、男ふたりがかりで、小夏を居間に引っ張り込んだのだ。

 着替えや清拭は、かんざし職人の奥さんに任せ、伊織はご主人に、『新年早々、深夜にすいません』と平謝りに謝った。


『あんた、働かせすぎなんだよ』

 すべてを整え、千寿堂を出る時、奥さんにはそうお叱りを受け、ご主人には『そんなん、わかんねぇよな。伊織ばっかり、責めんなよ』と慰められた。


(小夏さん……)


 さっきまで、眼福だと思っていたのに、起きる気配のない小夏が、だんだん心配になってきた。


 胡坐を解き、両膝立ちになって、そっと上から覗き込む。


 起こさないように、という気持ちと、どうして目覚めないのだろう、という不安が交錯して、徐々に顔を近づける。


 呼吸は、安定している。顔の赤みもひいた。表情は穏やかで、苦しそうでもなんでもない。


 念のため、額の熱を測ろうと手を伸ばした途端。


熨斗のしをまだ巻いてないっ!」

「うわああああっ」


 大声を張り上げて小夏がいきなり、起きるものだから、心底驚いてしりもちをついた。


「………伊織さん………」

 茫然と見ているそばから、小夏の顔が一気に青ざめていく。呟く声は震えていて、伊織は慌てた。


「今度は貧血ですか? いきなり起きるからですよ」


 布団の上にかぶせていた上着をひっつかみ、寝間着姿の小夏の方に羽織らせてやる。

 そういえば、結局年越しそばも、彼女は一口ほどしか食べていない。お腹がすいて、立ちくらみでも起こしたのだろうか。


「そうだ。おかゆかなにかを……」

 作ろうと、伊織は立ち上がろうとしたが、その腰に抱き着かれ、「ぐわっ」と変な声を漏らして畳にうつぶせに転倒する。


「ご、ごごごごごごご、ごめんなさいっ」

 したたかに顎を打ち、顔を顰めていたが、自分の腰に取りすがって謝る小夏に、伊織は訝し気に尋ねる。


「なにが、どうして、なんでぼくに謝ってるんですか?」


「もう、年が明けちゃったじゃないですかっ! 初詣はつもうで! 年始参り! 熨斗のしの準備に……。ああ! おせち! お雑煮!」

 次々と言葉を羅列し、それから、勢いよく伊織から離れる。


「す、すぐしたくしますっ。ごめんなさい。なんだか、眠りこけていたみたいで……っ」

 掛け布団を跳ね上げ、立ち上がろうとするから、伊織は慌てて身体を起こす。


「寝てたんじゃなくて、小夏さんは倒れたんですよ。覚えてませんか? 気持ち悪くなって、厠に行って……」


 両肩を押さえつけ、なんとか彼女が立つのを防ぐ。

 途端に、小夏は自分の身なりに視線を落とした。

 寝間着姿で、髪を下ろし、ゆるく一つに束ねた姿だ。


「……こ、これ……。伊織さんが……?」


 小夏が、耳まで真っ赤になって、なんとなく小さく身体をすくめるから、伊織は彼女から手を放し、反射的に首を横に振る。


「お隣の奥さんに頼んだんですっ。ぼくじゃないですよっ」

 言いながらも、いや、もう、何度も彼女の裸は見たことがあるんだし、夫なんだから、見てもいいはずじゃないか、言い訳するのも変だな、と内心いぶかしんだ。



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