第8話 水茶屋

 小夏こなつは、そっと鳩羽はとばに盆を差し出す。


「お。すまねぇな」

 鳩羽は、八重歯を見せるように笑うと、湯飲みを盆に置く。


 小さく頭を下げて厨房に戻り、手早く洗って戻ってくると、伊織いおりが熱心に話し込んでいるところだった。


「いいんじゃねぇか? 嬢ちゃんだって、料理屋の娘だろ? 接客したことぐらい、あんだろ」

 腕を組んで鳩羽が頷いている。なんだろう、と小夏は首を傾げ、前かけで濡れた手を拭いた。


「今までは、和菓子を販売だけしていたんですが、希望者には、店で食べられるようにしようと思っていましてね」

 目が合った伊織に声をかけられ、「はぁ」と小夏は返事をする。


 ちらり、と商品棚を見ると、昨日は伏せてあった長方形の漆器鉢に、三色団子と草餅、道明寺粉をつかった桜餅が並んでいた。


 今日は雨戸が開かれ、明かり取りも全開にされているからだろう。


 三色団子は、光を受けてつやつやに輝き、草餅は、つるりとした光沢を孕んでいる。桜餅は、目の悪い小夏でも粒がひとつずつ、見て取れた。


 いずれも美味しそうで、そして、美しい。


(……そういえば、私。昨日から、目が良くなったような……)

 くるりと振り返り、鳩羽を見る。


 ぎょろりとした目。こめかみに浮いた静脈。太く、人情味ある唇。

 それが、にやり、と上がった。


「おいおい。嬢ちゃん。新婚早々ワシに惚れたのかい?」

 はっきり見えるなぁ、と眺めていたら、そんなことを言われて、ぎょっとする。


 途端にぐい、と右腕を引かれ、小夏は蹈鞴たたらを踏んで、ぼすり、と右頬を何かにぶつけた。ふわり、と鼻先を香のは、伊織のそれだ。


「ぼくの妻を、変な目で見ないでください。けがれます」


 気づけば、抱きしめられている。

 呆気にとられて見上げる伊織は、半眼になって鳩羽を睨んでいた。


「坊主に対して、穢れるとはなんだ、穢れるとは」

「正直に申し上げたまでです。まったくもう。油断も隙も無い。小夏さん」

 ぎゅと、腕に捉えられたまま、名を呼ばれ、「はひ」と、妙な息を吐いた。


「このひとを見たり、近づいたりしてはいけません」

「見てもだめなのかよ、おい」


「声を聞いてもダメです。なにを吹き込まれるやら。危険すぎる」

「声までとはな」

 大げさに背をらせた後、にやにやと鳩羽は笑う。


「まぁ、でも。現在、嬢ちゃんをゆでだこにして殺しかけてるのは、お前だけどな」

「え」

 視線を下げ、腕の中の小夏を見た伊織は、「わぁ」と、飛びすさる。


「し、失礼しました」

 ぺこりと頭を下げられ、小夏は「はぁ」とか、「まぁ」とか言いながら、額に浮かぶ汗を袖でしきりに拭った。


「それで。えっと。菓子を、店先で食べられるようにするんでしたっけ……?」

 早口で尋ねると、「ええそうですええそうですはいはいはいはい」と、息継ぎ無しで返事が来た。


「水茶屋、みてぇにかい?」

 するり、と鳩羽が敷居をまたいで外に出る。


「そうなんですよ。そこにほら。床几台しょうぎだいを出してみたんですよね」

 着いて伊織も出るので、小夏も続く。


「お菓子をここでお客さんに召し上がって頂いたら、それだけで商品の宣伝になるかな、と」

「ふうむ」


「うち、どうしても店が奥まっているので……。知らない人は、知らないまんまなんですよね」

 伊織と鳩羽の話を聞きながら、小夏は店先を眺める。


 昨日初めてここに来たから知らなかったが、三人ほどが並んで座れる床几台は、普段置かれていないものらしい。なるほど、そう思ってみると、日にも焼けておらず、白木の色が目にも眩しい。


 ふと顔を通りに転じる。

 まだ、十時の鐘が鳴ってはいないが、そこそこの人手だ。ほとんどが商人たちで、自分たちの用事ごとに足早に出先に向かっているように見える。


(何時頃が忙しいのかな)


 そんなことを思った。

 五十鈴屋の時は、当然だが料理屋のため、昼と夜が繁盛時期だ。


 昼の鐘が聞こえるやいなや、いろんな客層が集まり、夜ともなると、接待を兼ねて商人や役人たちが集まる。


(お菓子だから……。十時とか、三時、とか)

 首を傾げて通りを眺めていたら、鳩羽の「まぁ」という声が聞こえた。


「やってみたら、いいんじゃねぇのか?」

「ええ。なので、茶道のご婦人方に、鳩羽さんから宣伝をお願いしたいんですよ。茶屋を始めたから、是非一度、足を運んでやって欲しい、って」


「なんだ。ワシを呼んだのはそれか」

 ぴん、と太い眉を跳ね上げて大仰に驚く。


(ああ。お寺で、茶道を教えておられるのか)

 あのごつい指で袱紗ふくさ茶筅ちゃせんを扱う様子は想像がつかないが、なぜ、鳩羽と伊織が知り合いなのかはわかった。


主菓子おもがしだ)

 大々的な茶席や、稽古の時の菓子を頼んでいるのだろう。


「それ以外に、なんで鳩羽さんを呼ぶんですか」

「可愛い細君を見せびらかしたかったのかなぁ、と」


「できれば、貴方には隠したかったですよ」

 吐き捨てられても、けけけ、と全く意に介していない。


「では、お給仕の方がこれからいらっしゃるのでしょうか?」

 話しの切れ間に、小夏は尋ねた。「え」と口ごもる伊織に、目を瞬かせて見せた。


「私は中で銘々皿めいめいざらや、お湯呑を洗えばよろしいのでしょう?」


 水茶屋の給仕といえば、若くて美人というのが定番だ。


 中には、絵師に描かれるほどの娘も居るという。五十鈴屋では、従業員は住み込みがほとんどだったが、通いの雇い人がいるのだろうか。

 そう考えて尋ねたのだが。


「すいません」

 ぺこりと、伊織に頭を下げられて、仰天する。


「え。何がでしょう」

「小夏さんにお願いしようとおもっています」

 上目遣いに見られ、さらに目を見開いた。


「わ、わた……。私ですか!?」

 とうとう素っ頓狂な声まで出る。


「五十鈴屋のお嬢さんですし、〝奥様〟でいていただきたいとはおもうのですが、まだ、そこまでの稼ぎはなく、一緒に働いて頂かなくてはいけません」


 苦渋の表情で語る伊織に、ぶんぶんと首を横に振ってみせる。


 奥様でなどいようとは思っていない。


 そもそも、今までずっと働き通しだったのだから、千寿堂せんじゅどうでも当然店を回すと考えていたし、なにより、伊織が支度してくれた結納金ぐらいは、この手で稼がなくては、申し訳が立たない。


「私が申し上げているのは、そういうことではなく……。え、っと、あの。私、ですよ?」

 自分を指さして見せたが、今度は伊織と鳩羽がきょとんとしてみせる。


八重やえさんとお間違えでは? 小町娘と評判なのは、八重さんで……。私はその……。妾腹しょうふくで……。あの家では、ずっと下働きとして」


 急いでいろんなことを話して見せたのに、男二人は顔を見合わせ、「八重って?」「ああ。小夏さんの妹さんですよ」「可愛いの?」「さぁ」と首を傾げている。


(……こ、これはだめだ……)

 日差しのせいではないが、目眩めまいが起きそうだ。


「まぁ。とりあえず、頑張ってみましょう」

 伊織はニッコリと微笑み、ぎゅっと小夏の手を握った。





(……だよね……。そうなるよね……)

 ほう、と息を吐き、小夏はうつむく。


 ちょうど、手土産目当ての客を、八人ほど捌いた後だ。

 十時の鐘が鳴り、大通りには商人姿の男達の姿が消えた。みな、一度休憩に入っているのだろう。


 水茶屋に客が来るとしたら、今かも、とドキドキしながら店先に出てみたが、物珍しそうに床几台を見るだけで、誰も足を止めようとはしない。


 声をかけてくれたのは、隣のかんざし職人の奥さんだ。


 お布団のお礼を、と頭を下げると、「え。あれ、使ったの」と言われて、驚いた。

 使ってはならなかったろうか、と狼狽うろたえると、「違う違う」と慌てて首を横に振られた。


「まったく。伊織は腰抜けだねぇ」と溜息つかれ、何がどうなっているのだろう、と思ったが、最終的に「これからも、お隣さん同士宜しく」と微笑んでくれた。


「すぐにお借りしたものをお返しします」と頭を下げると、「いつでもいいよ」と気前よく笑ってくれて、ほっとした。


(……まぁ……客は、来ないよね……。お給仕が、私、だしなぁ)


 急に恥ずかしくなる。

 自分なりの一張羅いっちょうらだが、他人が見たら普段着に変わりない。


 小夏自身、水茶屋を見たことは無いが、そこで働く小町娘というのは、もっと綺麗な身なりや、装飾品をつけているのではないだろうか。髪の毛だって、ただ、ひっつめて束ねただけではないような気がする。


 せめて、結納金の一部でもあれば、よい着物を買うのだが、その元手すらない。


 まずは、借りっぱなしの布団を返すため、伊織が先に損料屋から調達してくれているので、また肩身が狭い。なんとか、役に立ちたいのはやまやまだが。


(伊織さんには申し訳ないけど……)

 この方面では自分は役に立てない。


 皿洗いとか、商品説明とか。

 そういったことなら、いける気がする。現に、さっきも、手土産の客からは大層喜ばれ、わざわざ奥にいた伊織を呼び出してまで、「良い人がはいったね」と褒めてくれたほどだ。


 もう、水茶屋の客は来ないだろう、と店に入りかけたとき。


 大通りの端で、踞る高齢の男性が目にとまった。

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