第32話 ひるむな
◇◇◇◇
「あ。お手伝いしますよ」
厨房の暖簾をくぐって、
「大丈夫ですよ。こちらは、これで
厨房や店内からの光の方が眩しいからだろう、少し目を細めてこちらをみやる。
だが。不意に近づき、小夏の頭に鼻を寄せ、嬉しそうに笑った。
「良い匂いがしています。今日の夕飯はなんですか?」
「振り売りの兄さんから、いいサンマを買ったんです。それをさっき、庭で七輪を使って焼いていたので……」
思わず自分の肩口に鼻をつけた。そんなに匂いがついただろうか、と恥ずかしい。
「無理しないでくださいよ。買ってきて、並べればいいのに、小夏さんはすぐ頑張って、何かしようとするから……」
腰に手を当て、じっとりと睨まれ、小夏は小さくなる。
なんとなく家事の手を抜くと罪悪感があるのだ。伊織は、「そんなのはどちらかがすればいい」というが、主に働いているのは伊織だ。
菓子屋というのは、商品は小さく、軽いが、材料はことのほか重い。粉、豆、砂糖。どれもが袋に詰められ、中には小夏一人では持ち上がらないものもある。
それを伊織は軽々と扱い、夏は蒸気が上がり、息さえ苦しくなりそうな厨房で頑張って仕込みをしているのだ。
これ以上彼に何かをさせてはいけない、と、時間をみつけては、安く仕入れた材料でご飯を作ったり、
「お風呂、先につかわれますか? それともご飯、用意しましょうか」
もっと、ゆっくりしたらいい、水茶屋を回しているのは小夏さんなんだから。空いた時間はのんびりして、と小言が続くのを断ち切るように、尋ねる。
「……そうですねぇ。どちらの方が、貴女の手間をかけさせないんでしょう」
苦笑いで応じた時、「もし」と、一枚だけしめていない入り口から声がかかった。
「相済みません。もう、閉店なのですが……」
客だと思った伊織が、丁寧にそう告げたのだが。
「あ……。三田さん……」
ふと、声を漏らして動きを止める。
「夜分だとは思いましたが、この時間の方がお手間をとらせないか、と」
「どうぞどうぞ」
伊織が招き入れたのは、材木問屋三田の若旦那である
「
きっちりと腰を曲げる尚三郎に、伊織は慌てた。
「そんな……。いや、あの、それは小夏さんでして、ぼくではなく……」
ちらちらとこちらを見やる伊織に、小夏もぶんぶんと首を横に振る。
自分のおかげではない。あの場で小夏が踏ん張れたのは、伊織がぎりぎりのところで、持ちこたえてくれたからだ。
「いや、どうぞ。あの、頭をお上げください。あ。むさくるしいところですが、どうぞ、お茶でも飲んでいってください」
いつまでたっても顔を起こそうとしない尚三郎を促し、伊織は厨房に向かう。そこを抜け、住居部分に連れていくつもりらしい。
伊織に続く尚三郎について行こうと、八重も足を向けたが、「お前はここにいなさい」と、ぴしゃりと言いつけられた。
八重に向けられた言葉だけでなく、その目に、小夏までもが
随分と、このまえの
「……私のこと、
尚三郎と伊織が暖簾の向こうに消えた途端、吐き捨てるように八重が言いだして、小夏は目を見開いた。
「そんな……」
ゆるゆると首を横に振る。八重に嗤われることはあっても、嗤うことなどない。
「嘘ばっかり。馬鹿にしてるんでしょう、私のこと」
急に、どん、と肩口を突かれて、思わずよろけた。「馬鹿になんて……」。繰り返すのに、また、肩を押される。
「嗤ってるくせに。
よろけたところを、今度は、ぐいと襟をつかんですごい力で引き寄せられた。たたらを踏みながら、それでも必死に踏ん張る。
「ねぇ、私のこと、見下してるつもりなの?」
間近に顔を寄せられ、凄まれる。
呼気がかかるほど近くにあるのに。
目鼻は全くわからない。
ただ。
真っ黒な塊が、顔があるであろうところで渦を巻いていた。
「八重さんが……」
小夏はその、渦に向かって声を発した。
「そう思うのは、いつも八重さんが、他人をそう思っているからではないですか?」
「はぁ!?」
ぐい、と襟をさらに強く握られ、息が苦しい。必死にもがくが、爪を立てて引き離すわけにもいかず、堪えながらそれでも、言い続けた。
「嗤う、とか。馬鹿にした、とか。いつも八重さんは、他人をそう見ているんでしょう。誰かを嗤ったり、馬鹿にしたりして過ごしておられるんでしょう。だから」
勢いをつけて後ろに足を引くと、なんとか襟から八重の指が離れる。荒い息を繰り返し、距離を取りながら、小夏は言う。
「なにかあったとき、自分も同じように嗤われるんじゃないか、馬鹿にされるんじゃないか。そう思っておられるようですが……」
こぶしを握り締め、ぎゅと膝裏に力を入れる。
「誰も、八重さんのことなんて気にもしてません。みんな、それほど他人に興味なんてありはしないんですよ。貴女、自意識過剰なんです」
冷淡に言い放つと、「誰に対して言ってんのよ」と怒鳴りつけられるが、ひるむな、と自分を鼓舞した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます