第33話 絶対にもう、負けるもんか

「私がはなだ様にお願いしたのは、貴女のためをおもってじゃありません。そこで働く、従業員のみんなが心配だったからです」


「はぁ!? ふざけるんじゃないわよ! あんた、いつから私と対等に口がきけるようになったの!」

 どん、と一歩踏み出されて、怖気そうになったが、ぐいと顎を上げて、背を伸ばす。


「む、昔は違いましたが……。今の私は千寿堂せんじゅどうの……。伊織いおりさんの妻です。そして、八重やえさんは三田さんの奥さんで……。立場は同じです」


 震えて、かちかちなりそうな顎を引き締める。目をそらさず、真っ黒な渦の塊を見つめた。


「三田さんは、こことは違って、従業員さんがたくさんいらっしゃるんです。その人たちのことも、ぜひ、考えて……」


 途端に、頬に痛みが走った。


 すぐに平手で殴られたのだと気づいて、茫然としたのだが、そこを、どんとまた肩を突かれ、よろけたところを、蹴りつけられた。


 手を伸ばした先に指が掴んだのは、洗って伏せられていた店頭の漆器だ。もろともに土間に仰向あおむけに転がり、甲高い音が店内に響いた。


(しまった)


 そう思う先に、がつりと腹の上を踏まれ、空気が漏れる。


「あんた、私に説教するなんて、良い身分になったもんね。たかだか菓子屋の分際で」


 逃れ出ようと思うのに、想像以上の力で上から踏みつけられ、這いだせない。

 ぐう、と小さく呻いて目に涙が浮かびそうになるが、必死にこらえる。泣くもんか、絶対もう、負けるもんか。


「説教されるようなこと、しなければいいじゃないですか」

 呼気の合間に言い返した途端、舌打ちされる。ぐい、と更に足に体重を載せられて顔をゆがめたが。


「なにをしてるんです!」

 伊織の声が聞こえた途端、視界から八重の姿が消える。腹に乗り続けていた重みに解放され、急に空気が肺に入り込み、小夏は激しくせき込んだ。


「大丈夫ですか!?」

 伊織に上半身を抱え上げられ、ようやく、彼が八重を突き飛ばしてくれたのだと気づいた。


「へ、平気です……」

 げほげほと息を吐き出す合間に、涙ぐみながら答えた声の語尾は、ぱん、と破裂音に似た乾いた音に消えた。


「どれだけ恥をかかせれば、気が済むんだ!」

 怒声に、反射的に伊織にしがみつく。すいません、と言いかけて、その言葉の矛先は、自分ではないことに気づいた。


「……すみません」

 打たれた頬を押さえ、絞り出すように呟いたのは、八重だ。


 その態度が気に入らないのか、尚三郎しょうさぶろうはまた手を振り上げたが、「三田さん」と伊織が制した。


「まことに申し訳ありません。お礼を申し上げに来たのに、このようなこと」

 八重に背を向け、尚三郎が腰を折る。


「いえ。もう、本当に、うちは……」

 土間に膝をつき、腕に小夏を抱えたまま、伊織は愛想笑いを浮かべた。語尾の「もう、関わりたくありませんから」は、あえて消したが、それでも伝わったようだ。


「それでは、失礼いたしました」

 尚三郎は八重の方を一顧だにせず、伊織と小夏に会釈をすると、店を出ていく。


「……あんたなんかに……」

 黒い渦巻の合間に、八重の顔がちらちらと覗く。打たれた頬が痛むのか、抑えたまま小夏を見下ろして睨みつけていた。


「馬鹿にされてたまるもんですか。今にみてなさい」


「八重さんこそ」

 ぐ、と眉根に力を籠め、精一杯睨みつけて見せた。


「もう、私に迷惑をかけないでください」

 吐き捨てるように言ってみたものの、八重は鼻で嗤って店を出て行った。


「わ、私ね、伊織さん」


 腕の中で、彼の胸にしがみつくと、今になってがくがくと全身が震えて来た。

 だが、顎を上げ、伊織にむかって誇らしげに告げる。


「い、言い返してやりましたよ」


「ええ。聞きましたよ。立派でした。さすが、千寿堂の若女将です」

 くつくつと笑い、一度だけ力を込めて抱きしめられた。その後、「立てますか」と尋ねられたので、頷いて伊織を支えに立ち上がる。


「しかし、まぁ……」

 伊織は、ふたりが立ち去った入り口を眺める。一枚だけはめられていない雨戸の向こうは、すでに夜闇に沈んでいた。


「三田さん。すごい嫁をもらったなぁ」

 ため息交じりに吐いた伊織の言葉に、小夏は吹き出して笑った。

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