第29話 ここに、いなさい

「……五十鈴屋いすずやでの君の待遇は、わたしも耳にした。それでも、金を貸せ、と?」


「あの……。それでも、育ててもらった恩がありますし……」

 口早にそういうと、口角をゆがめて肩を竦められた。


「どんな風に育てられたか、胸倉掴んで問いただしたいところではあるが。行方も分からず、放置していたこちらとしては、言い返せないしな」


「いえ、その……。はなださんに、そんな、あの……。すいません。なんか、違うんです……っ」

 決して責めたわけではないのだ、と首を横に振ると、くすり、と可笑しそうにゆうに微笑まれた。


「まぁ、君が金を貸してくれ、というのであれば、出してもいい。あれぐらいの金、如何様いかようにでもなる。持ち帰るのなら、今日、用意しよう」


 勇の言葉に、小夏こなつはおもわず隣の伊織いおりを見る。

 彼も呆気にとられたように薄く口を開いていたが、それでも目を合わせて、うれし気に頷いてくれた。


「ただ、ひとつ、条件がある」

 す、と投げ出された勇の言葉は、だが、小夏と伊織の間に滑り込んだ。


「わたしは、せっかく見つけた君を手放す気はない。苦労を掛けた姉の、忘れ形見なのだから」

 足をほどき、膝に肘をついて、前かがみになった勇は、視線を伊織に向けた。


祝言しゅうげんは? まだ、挙げていないのかね」


「……ええ。日取りは決まりましたが」


 話の筋が読めないとばかりに、伊織は柳眉を寄せつつも、丁寧に答える。「十一月の、三日です」。勇は鷹揚にうなずいた。


「こんなことを聞くのは、憚られるが……。まだ、小夏とは、夫婦の契りはかわしていないね?」

 ぎょっとしたように伊織は背をそらせたが、それでもはっきりと、「はい」とうなずいた。


「で、あるならば、この話はなかったことにしてもらえないだろうか」

 あっさりと勇が言い切り、伊織どころか、小夏も声を失う。


「もちろん、君が払ったであろう結納金は、わたしが支払おう。手間や迷惑をかけたぶん、いくらでも上乗せさせてもらう。好きなだけ、言って……」


「待ってください!」

 思わず立ち上がり、伊織が怒鳴る。


「ぼくは小夏さんとの結婚を取りやめるつもりはありません!」


「わたしはね、千寿堂せんじゅどうさん」

 いきりたつ伊織に怯みもせず、淡々と勇は言葉をつづけた。


「小夏にこれ以上苦労をかけさせたくないんだ。生まれてから今まで……。はなだの家にいたのであれば、味わわなくてもいい辛苦をこの子は舐めた。だからね」

 勇は、わずかに首を右に傾けて、伊織を見上げる。


「小夏を、働かせたくない。この子に必要なのは、仕事ではなく、休養と、それができる環境だ」

 勇の言葉に、伊織が息を呑むのを小夏は見た。


『小夏を、働かせたくない』、『休養と、それができる環境』


 何気なく言い放ったが、暗にそれは、「千寿堂では無理だろう」と突き放していた。


「千寿堂さんの経営状態は非常に健康だと思う。わたしも調べたが、評判もいいし、機動力もある。帝都の方にまで君の作る主菓子は噂されていることにも、感心した。きっと、この先、店を大きくして、分店を作ることも可能だろう」

 無言のまま立ち尽くす伊織に、「だがね」と勇は続ける。


「それは、〝今〟じゃない。この先、ずっと〝あと〟の話だ。その間、小夏はどうだ。ずっと、働き続けることになる」


 それは、勇に言われずとも、伊織からも言われていたことだ。「奥様にしてあげたいのは、やまやまなのだが」と。

 そのことに、小夏は不満がない。彼とともに働きたい。そう思っていた。


「………小夏さんに、苦労はかけさせません……」

 振り絞るように、伊織が声を発した。


「お金のことであれば……。ぼくの……実家に頼ることも」

呉須ごすの家のことかな」


 あっさり名が出たことに、伊織は目を見開き、小夏もせわしなく視線を走らせた。

 伊織が寺に預けられ、その後、千寿堂に養子に入ったとは聞いていたが、呉須、というのが実家の名なのだろうか。


「帝都の名家だ。うち程度じゃ、まだ当家の御尊顔ごそんがんを拝せぬが……。だが、君は縁を切られ、もう跡継ぎの座も弟さんに譲ったと聞いた。いわばもう、他人だろう。金の無心や、ましてやしばらくの間、嫁をよろしく、などとできるのかね」


 淡々とした言葉ではあったが、確実に伊織を切り刻み、「できぬことを言うな」とはねつけた。


「小夏。どうだろう。縹の家に身を寄せては」

 勇は無言のまま立ち尽くす伊織から視線を小夏に転じた。


「ここでしばらくゆっくりして……。それから、また、嫁ぎ先をわたしが見つけよう。裕福で、家名もあり、誰も君をかろんじない家を」

 口端が弓なりに動き、目に笑みを宿して勇が言う。


「もう、なにもしなくていいんだ。ここにいなさい」

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