第30話 迎えにいくから

 声は室内に流れ、余韻を漂わせたまま、ただ、しばらくの沈黙を落とした。


 椅子に座り、返事を待っているゆう。立ち尽くし、せわしなく瞳を揺らせている伊織いおり


 小夏こなつはふたりの様子を交互に眺め、それから、「あの」と口を開いた。


「私が、はなだの家に来たら、五十鈴屋にお金を貸してもらえますか?」

 そう切り出すと、ぎょっとしたように伊織が目を剥き、勇は深くうなずく。


「伊織さんにも、結納金を?」

「もちろん。さっき言ったように、言い値で返そう」

 ごくり、と小夏はひとつ息を呑みこみ、「では」と口を開いた。


「私は、縹の家に行こうと思います」

 ちらり、と勇は青柳あおやぎに視線を送る。


「青柳、金の準備を」

 その言葉に、被せるように小夏は、「でも」と声を発した。


「でも、どこにも嫁ぎません。ずっと、縹の家にいます。ここにいます」

 必死な形相の小夏に、勇は戸惑うような表情を見せた。


「それは……。構わないが、だが、女性というのは、年頃になれば……」


「私は、お母さんと違って、綺麗じゃないですし、教養も、知識もありません。そろばんも、字を書くことも、伊織さんや、千寿堂のみんなに教えてもらいました。だから、縹さんが用意してくださるような、すごいお家に嫁いだとしても、きっと……、その、煙たがられることでしょう」


「そんなものは、覚えれば済むことだ。縹の家にいるときに、ゆっくり学べばいい。稽古ごとの先生も必要なだけつけてやろう」

 なだめるように言う勇に、小夏は意地になって首を横に振る。


「縹の、家にいます」

「……ならば、それでもいい。この家に部屋を用意させるから、ゆっくりしなさい」

 微笑まれ、小夏は視線を隣に向けた。


「伊織さん」

 名を呼ぶと、ゆるゆるとうつろな目を向けてくる。


「縹さんが、さきほどおっしゃっていました。千寿堂せんじゅどうは、きっと大きくなります。有名になります。伊織さんが作るお菓子は、立派です」


 熱を込めて言うが、聞いているのか聞いていないのか、伊織は返事もしない。

 小夏はそんな彼の手を、ぎゅ、と握った。


「だから、立派になって……。私を買いに、やって来てください」


「な……っ!」

 今度、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がったのは、勇だった。だが、小夏は顔も向けず、ただただ、伊織を必死に見つめて手を握る。


「私はこの縹の家で、ずっと待ってます。伊織さんが来るのをずっと待ってます。だから……」


「待ちなさい、小夏! そんなことは許さないっ」

 勇が怒鳴りつけてきて、小夏は目を閉じ、首を竦めて肩を震わせる。


 だが、その肩ごと。

 身体ことぎゅっと抱きしめられて、ゆっくりと目を開いた。


 視界に入るのは、藍色の上着。ふわり、と鼻先をかすめるのは、伊織の香りだった。


「絶対。絶対、絶対、待っててくださいね」

 耳元でそうささやかれ、力強くうなずいた。


 それを合図のように、がばりと伊織は身体を離すと、勇に向き直る。


「縹さん。お時間をください。絶対、有名になって、金を持って」

 ぐ、と伊織は胸を張る。


「小夏さんに相応しい男になって、もう一度、この家の敷居をまたがせてもらいます」


 低く、唸るような言葉を、勇ははねつける。

 眉根に深い皺を寄せて、睨みつけていたが。


「旦那様。もう、おやめになられてはどうでしょうか」

 思いがけない方向から言葉がかけられ、三人はそろって、声の主を見た。


「これでは、楓子かえでこ様を失ったときと同じでございます。今度は、旦那様が五十鈴屋重太郎いすずやじゅうたろうの役回りを演じるおつもりですか」

 青柳は言うなり、きっちりと腰を折る。


「どうぞ、賢明なるご判断を」

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