第三十五話 お腹がすきました
キルファがリーデンヘルを眺めていたら、不意にマーロックが声を落とした。
「……腹が減った」
「もうすぐ夕食なんで、我慢するっす」
『腹が減った』は、マーロックの口癖である。彼は、その見た目とは裏腹に大食漢であった。国食らいのマーロックという異名がついているが、あながち間違っていない。その食欲たるや、まさに国を食らわんばかりである。
――マーロック・ジェルミノワは、魔王から50000もの兵を与えられた希代の大将軍であった。
六将戦争が始まった時は、数に物をいわせて領地を広げるものと誰もが思った。だが、現在は10000程度の兵で、放浪軍に近い生活を送っている。
なぜ、10000の兵しか残らなかったかというと、マーロックが選定したからだ。魔王が死んだ後、マーロックは50000の兵の前で言った。
『――魔王様のためではなく、自分のためでもなく、このマーロック・ジェルミノワのために死ねるという者だけ残れ』と。
そうして残ったのが10000の同志だ。マーロックが、この馬鹿げた選定をしたのは有名で、他の六惨将や、人間のもとに噂となって流れている。
――ただ、噂の『あと』は知らない。
「飴ならありますけど、舐めるっすか?」
「良い。良い……。嗚呼……痛みがあれば、空腹など忘れられるのにな……」
消えた40000の兵は、野性に還るなり、他の将のもとで従事するなり、各々の暮らしを手に入れた――と、誰もが思っている。
――だが、現実は違う。40000の兵は、マーロックが『食った』のである。
その時のことを思い出すと、キルファは震えが止まらない。六賢魔とまで言われた彼女をもってしても、あれは想像もつかなかった。
言葉を受け入れ、40000の魔物が去ろうとしたあの時――マーロックの身体から数多の触手が飛び出た。触手の先には竜の頭があった。触手から触手が生えた。幾千のそれらが一斉に魔物を食らい始める。一匹として逃げ切れる者はいなかった。中にはデモンブレッドもいた。けれども、マーロックの前では為す術もなかった。
もし、マーロックがその気ならば、シュルーナはおろかリーデンヘルも、すべての人間も生きてはいられないだろう。いや、他の六惨将とて、勝てると思えない。いや、そもそも魔王ですら、彼に勝つことができたのだろうか。そう思いたくなるほど、マーロックの力は偉大だった。
あの時、マーロックに従事すると誓って、キルファは心底良かったと思っている。叛意はなかったが、打算的に他の六惨将に付いた方がいいかもしれないと、ほのかに思っていた。タイミングを見て、離散した魔物たちを束ね、己の軍勢をつくるのもありかと思っていたぐらいであった。だが、いまのキルファにその意思はない。
――この
忠誠を誓うというのはこういうことだろう。知略を上回る武がある。憧れ、従いたくなる強さがある。
「……キルファ。この戦、どうなる」
「数日のうちに、リーデンヘルが動くっす。もちろん狙いはシュルーナ姫様。積年の恨みがあるっすからね。両軍が喧嘩している間に、うちらが漁夫の利を狙うっす。――ただ、気になるのがフロラインと一緒にいる、犬耳のデモンブレッドっす」
先程から、城壁の上で何やら会話をしている。それを、キルファは見逃さない。
――なにゆえ、あの場にいる?
「……おそらく、姫様のとこの新人。シャーマンウルフっぽいっすね。
「なぜ、あそこにいる」
「普通に考えると使者。ってことは、やっぱそこそこ頭も使えるみたいっすね」
――このタイミングで使者なら、降伏勧告だろう。大胆に同盟か? ここまで衰弱させて、同盟で手打ちはあまりに損だが……状況を考えればありえる? しかし、人間と魔物が組むか? シュルーナが仇を許すか?
キルファは、シュルーナ本陣も観察する。姫様を始め、リオンやチャコも気になっているようだ。ふたりが城壁に現れたのち、テントから出てきて一挙一動を眺めている。
――すると、その時だった。フロラインが、犬耳少年の腹部を殴りつける。そして、怯んだところを――袈裟斬りにした。
「おおっ?」
フロラインは犬耳少年の髪を掴んで持ち上げる。床から霜柱が伸びていき、やがて少年を巨大な氷の棺へと閉じ込めてしまう。
瞬間、シュルーナ軍がいきりたった。反応が最も強かったのはリオンだ。
何やら喚いて、城へと向かわんばかりの勢いだった。だが、それを必死になってシュルーナが止めている。
「……あはっはー。どうやら、交渉は失敗みたいっすねぇ。姫様の命運も尽きたみたいっすよ。マーロック様。――こりゃ、もしかしたら先に動くのは姫様の方かもしれないっすよ。そうなったらあとはもう、血みどろの乱戦になるだけっす」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます