第37話 認知のゆがみ

 もうかれこれ10年以上、1日たりとも欠かさずに「死にたい」って思い続けているんですが、これは「認知のゆがみ」が根本的な部分にあると思います。

「自分はゴミクズのカスで、ただ立っているだけでも周囲の人間に迷惑と害悪を無限にまき散らし、死ねばロシアのウクライナ侵攻も物価高も解決する」

 っていうのがすらすらと言えるメンヘラって「ぶっ飛んでるほど」に自己認知が歪んでると思います。


 理屈でどうこうできるものではない。っていうのも分かります。

「なぜ死にたいのか?」って聞かれても「ありとあらゆることが死にたいの原因」になりすぎるんです。

 メンヘラは全力で、ありとあらゆる労力を総動員してでも、死にたくなるように無意識のうちに自分を仕向けるので。




 それこそ「死にたいから逃げるための時間稼ぎをしている自分」を見ても「死にたくなる」し、大谷翔平選手の活躍を見ても「彼は輝いてるのにボクは全くダメだ」って思って「死にたくなる」し、

 行きたかった美術品の展示会に行っても「電車賃、入館料、途中のドリンク代に加えて何時間もの時間を無駄にしている」ってふと思って「死にたくなる」し、

 脈絡も無しに突然、昔の工場で働いていた時を思い出して「死にたくなる」し、何だったら「今日は雲一つない快晴。でもぼくはダメダメのダメだ。死にたい」のであって、

 何をしても死にたくなる、ってのは分かります。分かるんですが、それは認知のゆがみです。




「何もかもが『死にたい』に直結する人」に励ますつもりで「神様は乗り越えられる試練しか与えない」と言っても

「こんな残酷すぎる試練を、乗り越えられる実感やイメージが全然わかない。死にたいけど乗り越えられずに自殺したら、それこそ人間として失格なのだろうか?」と考えちゃって「生きることはもちろん、死ぬことすら出来ない、許されない」とさらに追い込まれるのも「認知のゆがみ」が原因です。

 メンヘラを励ますのは「普通の人間」からしたら逆効果になる典型例がこれです。何もかもが死にたくなる要因になるので本当にめんどくさいですよメンヘラって。メンヘラ本人が言うから間違いない。




『電卓を使っていくら計算しても計算式に全く関係なく計算結果が全て「死にたい」になる』と書けば分かるでしょうか? まぁ、分からない人には一切分からないと思うんですが。

 さっきも言いましたけど『電卓を使っていくら計算しても計算式に全く関係なく計算結果が全て「死にたい」になる』のであってこの辺はメンヘラ本人ですら、どうしようもないです。

 メンヘラは「自分は死なないと周りに無限大に迷惑をかけ続けてしまう」っていうのが物凄く確固たるイメージが出来るんだけど、それは「認知のゆがみ」であって本当の事ではないよ。




 その昔、芥川龍之介先生が「唯ぼんやりした不安」を理由に自殺したんですが、あの芥川先生という文豪ですら

「唯ぼんやりした不安」程度にしか言語化できない程ありとあらゆるものが死にたいの理由になるんですよ。




「何をしても死ぬしかない、ありとあらゆることが『死にたい』に覆い尽くされている人」っていうのはいると思うんですよ。

 そこに光を当てないと救える命も救えないと思います。彼らは何をしても「死にたくなる」から理由らしい理由を遺さずに死にます。

 日常の、それこそ数ミリメートル程度のちょっとした段差に絶望して死を選ぶんですよ。

 だからなぜ死んだのか誰にも分からないですし、たとえ分かっても「そんな豆粒みたいな動機で!?」って余計に分からなくなるでしょう。




 メンヘラになるきっかけというのは「ささいな事」が多く、それが雪だるま式に膨らんでメンヘラという身体に現れるほどの心の異常にまでなってしまうことが多いと思います。

 なので他人から見たら「そんなくだらないことを悩んでいるのか!?」と言われるような悩み、みんな持ってますよと言っておきます。




 特に自分自身というのはあなたにとって誰よりも一番近い場所にいるから、誰よりも悪いところが見えてしまうものです。

 よく「恋人同士」の時はうまくいってたのに、いざ結婚したら嫌なところが見えてきて……というのは

 結婚して「恋人」から「夫婦」という、お互いに距離が近くなって悪いところも見えるようになったからが原因だと思われます。


 逆に距離が遠いと悪い所は見えにくくなります。欧米で日本の忍者や侍がウケるのも彼らの生活から距離が離れているからですし、日本で悪役令嬢みたいな貴族が主人公の物語がウケるのも、日本人にとって貴族は縁遠いものだからです。


 それと同じで、野生のクマがいない熊本県におけるクマのイメージは「くまモン」である一方、

 野生のクマ(それもヒグマという最強クラスのクマ)が住んでいる北海道におけるクマのイメージは「メロン熊」になるのです。




 じゃあ普通の人と言うのはその「ささいな悩み」を一体どうやってその問題を解決しているのか? というと「何も考えていない」んです。

 それだけです。特に「自分自身の悩み、あるいは自分自身への絶望」とかは一切考えてませんし、一切悩みません。


「ホモサピエンス狂ってんの!?」とお思いかもしれませんが、これが真実らしいです。自分の事について「何も考えてない」らしいのです。「今日は昨日と同じ日、明日は今日と同じ日」が死ぬまで続く、と割と本気で思っているらしいです。

 無意識なのか意図的なのかはわかりませんがそういう悩みの回路を元から遮断しているような感じなんですね。


 メンヘラとしては「死にたくて死にたくて仕方ないけど何とか踏みとどまって消去法で生きることを選択し、毎日をどうにかやっとの思いでやり過ごすように生きている」のでしょうが、

 恐るべきことに普通の人というのはそうじゃないらしいのです。




 ただ、そうはいってもどうしても考えてしまう、考えなくては落ち着かない、丸ごと捨て去るにはあまりにも大きすぎる。というのが「ささいな悩み」でしょう。

 そんな方々には哲学の観点から「ささいな悩み」に対する処方せんをお出しします。役に立てれば幸いです。


中島義道の人生相談道場”悩ましき哉、人生!”

~私の人生は完全に失敗だった!~

https://toyokeizai.net/articles/-/19088

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