最終話

 ところが松本さんは、あっさりと「いいえ」と言い切ったのだ。

「今日のあの振る舞いは許されません。けれどそれが彼のすべてだとも思いません。それに」

 松本さんはそこで言葉を切り、私を見つめた。

「実際、良いところもあったんでしょう?──和泉さんが惹かれるような」

 優しい声だった。その瞬間、私の頬を音もなく涙が伝う。

 嫌いな理由は、誰もが肯定してくれた。けれど私が彼を好きだということを否定しないでいてくれたのは、この人だけかもしれない。


「でも──」

 私が顔を上げるのを待って、松本さんは続けた。

「少し警戒心というものが足りないんじゃないですか」

 耳に届いた思わぬ言葉に、私は呆気に取られて松本さんを見つめた。

「和泉さんは、僕がなぜあの場にいたか、疑問に思いませんか」

 そんなこと考えもしなかった──それどころじゃなかったせいもあるけれど。言われてみれば、待ち合わせより三十分以上も早くにあの場所で鉢合わせるのは、不自然といえば不自然だった。

「でも、そうじゃなかったら私怪我してたでしょうし……」

 私が弱々しく言ったが、松本さんは首を振る。

「和泉さん、それは結果論というものです」

 返す言葉がなく、私は口をつぐんだ。

「知り合ってそう長くない人間と思わぬタイミングで居合わせたことも、そして今その相手の家にいることも、もう少し重く受け止めた方がいいです。たとえば──」

 そう言って松本さんは、飲みかけのマグカップを指した。

「たとえばその紅茶に、睡眠薬なんかが入れられているかもしれない」

 私は驚いて松本さんを見つめた。けれどその表情は真剣そのものだった。

「あの店には、お二人を追って入っていますよ」

 松本さんは静かにそう言った。

「……じゃあ、あんな早くにあそこにいたのは、私が本当のことを言ってるか確かめるためですか──あの近くで働いてるとか、そういう」

 私が言うと、松本さんは少し表情をやわらげた。

「それでいいんです──当たらずとも遠からず、といったところでしょうか」

 どこかいたずらっぽく言う。

 私はそれを見届けると、意識して居住まいを正した──言わなければならないことがある。

「松本さんは私に警戒心が足りないとおっしゃいますが。……元彼についていったことに関しては、その通りだと思います。けど」

 私は松本さんをまっすぐに見つめる。

「──私が今ここにいるのは、正しい選択だったと思っています」

 松本さんが、おや、という表情をした。あの窮地を助けてくれたこと、その後のふるまい、そしてこれまでの会話──…。

 私が返事を待っていると、松本さんはすっと表情を引き締めた。

「あの時、勝手にあんなくぎの刺し方をしましたが」

 松本さんの言葉に、私はうなずいた。

「選んでくださるなら、その選択を後悔はさせません」

 そこで息をつき、松本さんは続けた。

「正式に──『彼女』になってくれませんか」

 一瞬言葉に詰まったけれど、私はゆっくりと、でも確かにうなずいた。

「よろしく……お願いします……」

 そっと差し出された手を取る。と、その手から私の身体がぐっと引き寄せられた。

(私は──私の選んだ道を信じよう)

 温かな腕の中に優しく包み込まれながら、私は思った。

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