最終話

 その時、それまで黙っていた松本さんが口を開いた。

「……平田さん。色々と思うところはあると思いますが」

 悠一の目がその声の主をとらえる。

「お互いのためにも、あそこにお世話になるようなことはやめておきましょうね。もちろん、お互いの大切な人のためにも」

 そう言った松本さんの視線の先には交番があった。悠一も振り返って確認している。しばらく睨みつけた後、悠一はこちらに向き直った。

(あっ……!)

 私は思わず自分の目を疑った──悠一がこぶしをほどくのが見えたのだ。

 松本さんの陰に隠れたまま動揺している私をよそに、二人は静かに見つめあっている。そのどちらの視界にも私は入っていない。

 今この瞬間は私も香織も完全に背景と化していて、なんだか少し不思議な気分になった。その疎外感のせいか、この二人、背の高さ同じくらいなんだ、なんて場違いなことを考える。

「……!」

 先に目を逸らしたのは悠一の方だった。

 ふっと目を伏せたかと思うと、なんといきなり深々と頭を下げたのだ。

「……由佳のこと、幸せにしてやってください」

 それだけ言って上体を起こすと、悠一はそのままこちらに背を向けた。

「由佳。いろいろ……ごめん。悪かった」

 ドクンと大きく心臓が揺れた。これがきっと、私が聴く悠一の、本当に最後の声だろう。

 悠一はそのまま歩き出した。私の方を振り返るつもりはないらしい。

「悠一! ちょっと待ってよ!」

 香織があわてて後を追う。どんどん遠ざかる悠一の背中を追いながらも、彼女はこちらに会釈してくれた。


「……これで、終わるといいんですけどね」

 悠一が歩き去った方を見据えながら、松本さんが言った。

「大丈夫です」

 私にはわかった。彼は──悠一は、言ったことは守る奴だから。

 そう、だから悠一はもう大丈夫だ。大丈夫じゃないのは、いつだって私の方だった。

「っ……!」

 どうしてなんだろう。やっと終わらせられたのに。あのメッセージや着信からもやっと解放されたのに。なのにどうして、こんなに胸が痛いんだろう。どうして、涙が止まらないんだろう。

 松本さんはそっと私の肩を抱き、あの日のようにハンカチを差し出してくれた。

「大丈夫ですか?」

 落ち着いたその声に、私は涙声で答える。

 もう好きじゃなかったはずなのに。散々振り回されてうんざりしていたはずなのに。くだらない復讐を企てるくらい恨んでいたはずなのに。それなのに今日だけは、私が好きだった悠一を思い出してしまった。


 謝らないでほしかった。ずっと最後まで、一貫して、悪者でいてほしかった。


「……泣くことには浄化作用がありますからね。気が済むまで泣いて、全部浄化してしまってください」

 松本さんは優しくそう言って、私をいざなった。悠一と香織が歩き去ったのとは反対の方へと歩きだす。

「……今日だけは、あなたが他の男を想って流す涙も、見ないふりをしますから」

「えっ? なん、ですか?」

 松本さんが何か言ったはずだけれど、うまく聞き取れなかった。

「なんでもないです」

 私が見上げる先で、松本さんは微笑んで首を振った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る