まだ、今じゃない
蒼村 咲
まだ、今じゃない
第1話
「──え」
私は文字通り固まってしまった。恋人である悠一の口から、思わぬ言葉が飛び出したせいだ。
「いや、ほんとに頼む!」
テーブルをはさんで向かいに座る悠一は、なおも言い募る。それをきっかけに、真っ白になってしまっていた私の頭は徐々に動き始めた。同時に、心の声が炸裂する。
(はああああ????)
私の沈黙を怒りと受け取ったらしい悠一は、バンッとテーブルに両手をついて頭を下げた。
「いや、勝手なのはわかってんだ。けど香織にはずっと片想いしてて……もう後悔したくないんだよ!」
私は目の前に突き出されたつむじをどこか冷めた心地で眺めた。要するに、他の女に告白したいから別れてくれって話なのだ。
──いや、違う。これはそんななまぬるい話じゃない。
「香織」というのは、悠一が言うには幼なじみで、悠一は彼女に長い間想いを寄せていたらしい。でも気持ちを伝えられないまま、彼女は地元を出てしまったのだとか。
その香織が近々、男と別れていったん地元に帰ってくるらしいとの情報を、悠一はどこからか聞きつけたようだ。そしていてもたってもいられなくなり、現在の彼女こと私にこうして別れを切り出している。
が、話はここで終わらない。
「でも、もし香織にフラれたときは、また付き合ってほしい。やっぱり由佳以外には考えられないっていうか……」
うかがうように顔を上げながら、悠一が言った。
そう、他の女に告白したいから別れてほしい。フラれたらよりを戻してほしい。そういう話なのだ。
(──にしても)
私は呆れて──でもそれは悟られないように──悠一を見つめ返した。
堂々と私より香織を選んでおきながら、私以外には考えられないなんてよく言えたものだと思う。
「いや、その……。ほら、黙って告白だってやろうと思えばできたけどさ、でもさすがにそれは由佳に対して不誠実っていうか……。だからやっぱりとりあえず今は別れてほしい」
悠一はそう言って再び頭を下げた。私はまたしても目の前に現れたつむじをなすすべなく見つめる。
付き合ってかれこれ三年半。まあ、こういうこともあるかな、と私はあきらめの境地に達しはじめていた。もちろん、「他の女にフラれたときのために、わざわざ事情を話してまでキープしようとすること」は私に対して不誠実ではないのか、と思わないわけはないけれど。
私は悠一に聞こえないように小さく息をついた。
「……ごめん、急な話だったからちょっとびっくりして。ちょっとだけ、考える時間もらっていい?」
私は視線を落とし、絞り出すようにしてそう言った。
「ああ、うん。それはもちろん」
悠一は少し拍子抜けしたような様子でそう答えた。私が泣き出したり怒り出したりするのではないかと気をもんでいたのかもしれない。
私は断りを入れ、悠一を残して店を出た。
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