最終話

 そんなことをだらだらと考えているうちに、外は暗くなり始めていた。これくらい間を置けば、悠一に出くわす可能性もないだろう。

 私は自分のグラスと悠一が置いていったカップを一つのトレーにまとめ、返却口へ運んだ。私が片付ける義理なんてないと思わないでもなかったけれど、そんなことはお店の人にとってはもっと関係のないことだった。

「ありがとうございましたー」という声に見送られながら店を出る。

 辛いとか悲しいとか、悔しいとか許せないとか、そういう強い感情は全くわいてこなくて、なんだかどっと疲れた感じがだけがする。

(これでも、一応「失恋」ってことになるのかな……?)

 歩道を歩きながらそんなことを考えていると、ふと頭にあるフレーズが響いた。


“♪さよならと言った君の 気持ちはわからないけど……”


 槇原敬之の『もう恋なんてしない』──有名な失恋ソングだ。リアルタイムでは知らない曲なのに、たびたび耳にするせいでところどころ覚えてしまった。


“♪いつもよりながめがいい 左に少し とまどってるよ……”


 そういえば、隣に並んで歩くときは、いつも私が右で、悠一が左だった。歌詞をきっかけにそんなことを思い出し、私はなんとなく左を見る。

 当然、反対側の道の端まで見渡すことができた。視界を遮るものは何もない。きっとこういう情景を歌ったのだろう──今まで隣を歩く君の陰になって見えなかった景色が、君がいなくなった今はよく見えてしまう、と。それにまだ慣れなくて戸惑っている、と。

(──え)

「いつもよりながめがいい」──? 「とまどう」──?

 私は思わず立ち止まり、くるりとあたりを見渡した。いつもと何ら変わりない、よく見知った町の姿だった。けれど私は思う。「いつもよりながめがいい」──とはこういうことか、と。

 付き合っているときは、「君のいる世界」だからこそ意味があった。君がいてこそ、美しい世界だった。それが真実だった──たとえそれが、恋による盲目的な「真実」だったとしても。

 でもその「君」は、今はもう私の隣にはいない。視界にすらいない。私が見て、聴いて、触れる世界の中に、君はいないのだ。

 なのにその方が、世界が美しく見えてしまったとしたら?「君がいない世界」の方が、ながめがよかったとしたら?

 きっととまどうだろう。だからほら、あの歌でも「とまどってる」。

 もちろんこんなのは、私の勝手な──そしておそらくは誤った──解釈に過ぎない。

 でもしばらくは、この曲の子のフレーズが、私のテーマソングになりそうだった。

 夕闇の中を、すうっと涼やかな風が通り抜けていく。私は急に、気分が良くなるのを感じた。私はまたひとつ、新たな真実を手にしたのだ。

 隣に彼──悠一がいない方が、私の世界は素敵なものになる。だから今の私に見える世界は、前よりもずっとずっと──…。

「ながめが、いい──…」

 静かにつぶやいたその声は、夕闇を照らす街灯の光に溶けていった。

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