第4話

 私の声に反応して、どこか神経質そうな顔がこちらを向いた。あ、むちゃくちゃ警戒されてるな、と思う。私は勇気がしぼんでしまう前に再び口を開く。

「あの、これ使ってください!」

 さっき買ったビニール傘と、水色のミニタオルを差し出す。あの人は驚いた──いや、むしろ困惑した顔になった。当然だけれど。

「いや、でも──」

 初めて聞いたその声は、思っていたよりも低く落ち着きのあるものだった。「あ、断られる」ととっさに判断した私は急いで言葉を継いだ。

「──私、傘持ってるのに間違えて買っちゃったので! あの、私ビニール傘も嫌いですし!」

 言いながら絶望する。なんでこう、余計なことを言ってしまうのだろう。恥ずかしい。こんなんじゃ余計に引かれてしまう。

「あっ、じゃあ、あの! 私の荷物を減らす人助けだと思ってもらってください!」

 我ながら苦しい言い分だと思う。けれど私が半ば押し付けるような形で差し出していた傘を、彼は受け取ってくれた。押し問答を続けてもらちが明かないと思われたのかもしれない。

「……それじゃあ、ありがたく」

 その声にはじかれたように顔を上げた私は、困ったような微笑んだような、なんとも形容しがたい表情を見た。が、すぐに我に返る。

「濡れてるのでこれも!」

 そう言って私は、彼が傘を持つ手にミニタオルを載せた。そして軽く会釈し、足早にその場を後にした。顔が熱い。

 周囲に人がいたか、誰かに見られていたか、見ていた人にどう思われたか。そんなことを気にする余裕はなかった。


(ああ、なんかもう……)

 そのあといつものように地下鉄に乗り換えたけれど、落ち着いて考えてみたらとんでもないことをした気がする。穴があったら入りたいというかなんというか、文字通り頭を抱えてうずくまりたい気分だった。

(なんでこう、コミュ障全開みたいな対応しかできないんだろう……)

 せめて、目の前のお年寄りや妊婦さんに席を譲るくらいのスマートさで話しかけることができていたら、と思う。

 相手が若い男性だったから、あんなにも挙動不審になってしまったのだろうか。

(いや、違うよね……)

 悠一を相手にしたときは、もっと余裕ある対応ができていたのだから。

(……ん?)

 別れてからしばらく経ったけれど、そういえば私はあの日から悠一のことをほとんど考えなかった気がする。あんな別れ方だったけれど、悠一と離れてからの日々は驚くほどに平和だったのだ。


 私自身の希望として、本当はもっと徹底的な仕返しで別れを突きつけるつもりだった。けれど思い出すことすらないくらい心穏やかに過ごせるようになるのなら、さっさと別れてしまえばよかったな、と今では思ってしまう。

 心の奥底であんなにくすぶっていた不満も、それまでに受けた数々の仕打ちも、正直もうどうでもよくなっていた。「『好き』の反対は『無関心』」を身をもって理解したのだといえる。

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