16話 嘲笑うコイン
【ルール】
①どんなアバターでも戦えるよう、このゲームには『ギア』というシステムがある。
②支給されたスマートフォンで使えるアイテムで、基本的な仕組みはアプリと同じである。
空から降りそそいだ光の雨。
プレイヤーに向けて放たれた範囲攻撃は、その場にいた無関係のNPCたちにもランダムに命中していた。
30代の男性のNPCは、屍となった恋人らしきアバターを腕に抱えて、天を見上げて泣き叫んでいた。
救急車のサイレンは鳴り響いている。
しかし、テロから逃げようとする車で道が混雑しているのか、光っているパトライトはまだ見えてこない。
真っ黒な煙が周辺のいたるところで上っていた。
突然、視界がぶれ始める。
アバターの故障かと思ったが、異変は周りでも起きていた。
濡れた道路で縦に揺れる波紋が広がり、カラスの群れは一斉に空へ逃げていく。
葉擦れの音を立てた街路樹から、雨粒が花粉を撒き散らすように振るい落とされる。
揺れに気づいたNPCたちは咄嗟に頭を抱えたり、なぜか視線を上げて建物の様子を見回したりしている。
尋常ではない「地下からの振動」を、VANSのスニーカーの靴底に感じる。
震度5以上はある大地震。
赤色のスマートフォンには、緊急地震速報の通知は届いていない。
揺れは「人為的」に起こされたものらしい。
「『地上にレーザー光線の雨を降らした後、地下に逃げてきたプレイヤーを事前に仕掛けた爆弾で仕留める』、か」
俺は雨で冷たくなった手に息を吹きかける。
鈍くなった指の感覚を取り戻すために、握っては開くことを繰り返す。
地下鉄の入り口から、様々なNPCの悲鳴が聞こえてきた。
「……悪い予想が当たったみたいね。ともあれプレイヤーの位置情報の地図は消えたし、『一時休戦』は終わりにしよっか。今から二手に分かれて逃げよう、レキトくん。短い間だったけどありがとね」
「いいんですか、紫藤さん? ここで俺のコインを奪わなかったら、ゲームクリアできるチャンスを逃しますよ」
「いいよ、べつに。また新しい初心者を狙えばいいだけの話だし。それに、一緒にピンチを切り抜けたプレイヤーと、いまさら戦う気なんて起きないでしょう?」
紫藤はため息をついて、暗めのブルージュの髪をかき上げる。
切れ長の目は俺を見ていないが、濡れた髪に隠れていた耳はわずかに赤くなっていた。
俺は紫藤の横顔を見つめる。
偽物のチュートリアルとして出会ってから、ギアの設定や戦いの厳しさなど、彼女から多くのことを学んだことを思い出す。
「ありがとうございます、紫藤さん。こちらこそ大変お世話になりました。この世界で初めて会ったプレイヤーが、あなたで良かったです。
――ただ、俺からコインを奪わずに見逃す理由は、『道路に落ちてるゲームオーバーになったコインを、1人でこっそり回収するため』ですよね?」
俺は左右を素早く見て、全速力で車の往来のない道路へ走った。
中央の黄色い実線の上に、焦げたバンカーリング付きのスマートフォンが転がっていた。
アバターの体勢を低くして、地面すれすれまで伸ばした左手で拾い上げようとする。
人差し指がケースに付いたバンカーリングを通った。
だが、追いついた紫藤が回り込んで、俺の手ごとスマートフォンを蹴飛ばした。
鮮やかなターンの勢いを利用した鋭い蹴りだった。
俺の人差し指がリングから弾かれる。
水しぶきが上がるとともに、宙を舞ったスマートフォンは道路の外へ飛んでいく。
割れた画面の中から、「金色のコイン」の縁が一瞬だけ見えた。
――他プレイヤーのコインは、ゲームクリアするために必要なキーアイテム。
――賞金1億円のクリア報酬には興味はないが、ゲームクリアを成し遂げることによって、「強力なギア」や「ゲームマスターの手がかり」を入手できる可能性はゼロではない。
俺は体勢を立て直し、先に走りだした紫藤の後を追いかけた。
だが、振り返った紫藤は俺の手首をつかむと同時に、細長い脚で俺の足を引っかけた。
視界が前から真下へガクンと傾く。
眼前に迫る水たまりに自分の顔が映る。
映った顔が急速に拡大されて、虚像が崩れると同時に、転んだアバターの頭に痛みが走る。
揺れる水たまりの表面に、手帳型のスマートフォンらしき像が見える。
俺は歯を食いしばり、親指をスマホ画面からホームボタンへ滑らせた。
うつ伏せに倒れたアバターを反転させた。
赤色のスマートフォンを斜め上に振った。
視線と視線がぶつかり合う。
お互いのアバターの首元に、相手のスマートフォンのイヤホンジャックが当たっていた。
「ねえ、レキトくん、なんで私の演技に引っかからないの? 色々あった女の人がさ、別れ際で急に照れた仕草を見せたら、普通はギャップで騙されるよね?」
「あんな不測の事態が続いて、今も安全かわからないのに、いきなり二手に分かれる提案はおかしいからですよ。演技で赤くした耳をわざと見せたことも、コインがそこに落ちてることも知ってました。
……そんなことよりも紫藤さん、どうして《対プレイヤー用ナイフ》を起動しようとしてるんですか? 『一緒にピンチを切り抜けたプレイヤーと、いまさら戦う気なんて起きない』って、さっき言ってましたよね?」
「……いや、その、コインがかかってたからね。なんていうか、ほら、アバターが勝手に動いたっていうかさ。……たぶん全然信じてもらえないと思うけど、本当に君をゲームオーバーにする気はなかったよ」
俺たちは相手の顔を見つめる。
親指をホームボタンから離さなかった。
紫藤の瞳の中に、自分の顔が映っているのが見える。
映っている自分の目の中に、紫藤の顔が小さく映っているのが見える。
やがて背後に突きだしたままの左腕が疲れてくる。
紫藤が伸ばした腕もわずかに震えはじめている。
穏やかに雨が降る中、お互いの腕の震えがだんだん大きくなっていく。
俺たちは同時に噴き出して、それぞれの首に当てていたスマートフォンを離した。
「あ~あ、レキトくんと戦うと、いつも途中でグダグダになっちゃうね。なんか面倒くさくなってきたし、あのコインは壊しちゃおっか」
「……そうですね。ただ、さすがに壊すのはもったいないです。だから、これは紫藤さんが回収してください」
「え? 本当にいいの? 後から気が変わったとか言わない?」
「言いませんよ。その代わり、1つだけ条件があります。このゲームで絶対に知っておいたほうがいいことを、俺にもう1つだけ教えてくれませんか?」
「わかった。じゃあ、1つだけとっておきの情報を教えてあげる。まあ、話が盛り上がっちゃったら、ついつい2つ3つ教えちゃうかもしれないけど。……とりあえずコインを回収して、歩きながらゆっくり話そっか」
紫藤は屈んで、転んだ俺に手を差しだした。
半分呆れたような笑みを浮かべていた。
俺は紫藤の手をつかんで、ゆっくりと立ち上がる。
華奢な手から柑橘系の香水の匂いが微かにした。
俺たちはゲームオーバーになったプレイヤーのスマートフォンの元へ並んで歩く。
お互いのスマートフォンはそれぞれの服の中にしまっていた。
紫藤は焦げたスマートフォンを拾う。
俺を振り返って、切れ長の目を細める。
そして、割れた画面の中から「コイン」を手に取った。
――触った。触った。触った。……触ったな?
コインを手にした瞬間、表面に彫られた「地球のロゴ」に1本の線が引かれた。
1本の線は楕円の形に広がっていく。
楕円は白く塗り潰される。
円の中をジグザグ線が走り、ギザギザ歯の口の絵が描かれる。
そして、ギザギザ歯の口の動きに合わせて、知らない男の声がコインから聞こえてくる。
「……クリアはできない。クリアはできない。クリアはできない。……あなたは嫉妬の渦に引きずり込まれるから。……ゲームオーバーになったプレイヤーの道連れになるから」
喋るコインは弓なりに反って、紫藤の手の上でケタケタと笑い転がる。
ギザギザ歯の口から唾を撒き散らしていた。
金色のコインの縁から腐った黒色に染まり始めていく。
紫藤は俺を見て、血の気の引いた顔で首を横に振る。
――何かが起きているのに、何が起きているのかわからない。
――ただ、何もしなければ、何かまずいことになることだけはわかる。
「コインを捨てますよ、紫藤さん! そのアイテムは持ってたらダメです!」
俺は紫藤の手からコインを奪った。
そして、逆方向に引いたアバターの腕を前にしならせて、できるだけ遠くに向かって投げた。
だが、喋るコインは空中で高速回転して、俺の頭上で浮いたまま静止した。
ギザギザ歯の口をニヤリと歪める。
「触った。触った。触った。……お前も触ったな?」と不気味に口ずさむ。
俺はコインを地面に叩きつけようと手を伸ばすと、コインを触ったアバターの手が急に熱く感じる。
焼き印を押されたような激痛が走り、笑ったコインの印が手のひらに浮かび上がった。
「……《
紫藤は対プレイヤー用ナイフを起動して、喋るコインに背後から突きだした。
しかし、光る刃先がコインに当たる直前、見えないバリアに阻まれた。
喋るコインは高笑いする。
金色だった縁も面もすべて、腐った黒色に染まり切っていた。
手のひらのコインの印もつられて笑い始める。
アバターの手はコインの笑いに合わせて、勝手にガクガクと揺れ動いていた。
――倒せないなら、逃げるしかない!
俺はコインに背を向けようとした。
しかし、アバターがフリーズしたかのように一歩も動かすことができなかった。
真っ黒な渦が地面に生まれる。
紫藤とともに成す術もなく、底の見えない渦の中へ呑み込まれる。
目の前が真っ暗になった。
気がつくと、俺たちは知らない建物の中にいた。
ただの物体に戻ったコインが上から落ちてきて、地面に明るく弾む音が響いた。
心臓がドクドクと脈を打つ。
コンクリートが打ちっぱなしの廃ビルに転送させられたようだった。
窓から見えるビルの高さから、ここは5階くらいの高さらしい。
空から降っている雨粒は、さっきまで見ていた物とよく似ていた。
「……完全にやられた! あのプレイヤー、よりにもよって、こんな最悪なところに飛ばすなんて!」
「落ち着いてください、紫藤さん! 俺たちはまだゲームオーバーになってません。この状況はかなり悪くても、『最悪』じゃない。――絶体絶命のピンチになったなら、ここからノーミスで切り抜ければいいんです」
俺は地面に落ちたコインを拾って、親指で真上に高く弾いた。
肩にかけていたエナメルバッグを下ろし、回転しながら落ちてきたコインを片手でキャッチした。
紫藤はうなずき、アバターの胸に手を当てた。
5秒間かけて息を吐き、バイオレット色の光の刃を構える。
――《忘却を願う悪貨》は近くにいる強いプレイヤーのところへ飛ばすギアらしい。
50人のプレイヤーたちが俺たちの周りを囲んでいる。
茨の刺繍を袖に施した、純白の教団服を着用している。
頭にフードを深く被り、フルフェイス型のガスマスクを装着していた。
レーザー光線の雨を降らせたギルドの一味は、俺たちにスマートフォンを向けている。
スマホカメラのレンズは、剥きだした眼球によく似ている。
それぞれの眼は瞬きすることなく、俺たちを無言で見つめていた。
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