13話 アラート
――プレイヤー『紫藤ライ』、学習完了。
俺は目を見開き、自分の顔からスクエア型眼鏡を投げ捨てた。
そして、アバターの重心を前に移して、紫藤のナイフの間合いへ飛び込んだ。
視線と視線がぶつかり合う。
土砂降りの雨が地面を叩く音が響きわたる。
紫藤は半身に構えて、対プレイヤー用ナイフの切っ先を俺に向けた。
俺は片手をポケットに突っ込み、「ギンガムチェックのハンカチ」を取りだした。
「捨て身の攻撃に、私のあげたプレゼント? 気持ちは嬉しいけど、そんな物で私は動揺しないよ」
紫藤は俺が間合いに入った瞬間、対プレイヤー用ナイフを突きだした。
素早くナイフを引き、鋭い二撃目の突きを放つや否や、瞬時にナイフを手元へ引き戻した。
空気を裂く音とともに、三撃目、四撃目、五撃目が放たれる。
わずか1秒の間、半径1メートル以内の距離。
降りそそぐ雨のように、絶え間なく光の刃が襲いかかってくる。
だが、俺はナイフの軌道をすべて見切った。
バイオレット色の光の刃が当たる直前、数センチだけ動いて、紙一重の差で避けきった。
アバターの手の血管が浮き出てくる。
両目が充血していくのを感じる。
後頭部がズキズキと痛みはじめていた。
「ナイフが当たらない!? 君、いったい何をしたの!?」
「眼鏡を外したんですよ。目に映るすべてを鮮明に見すぎる脳疾患、『
土砂降りの雨は勢いが弱くなっていく。
俺は微笑み、「ギンガムチェックのハンカチ」を握りしめる。
絞った繊維から雨水を出し切って、固く丸めたハンカチを紫藤の顔にめがけて思いきり投げた。
至近距離からの投擲。
常人の反射神経では躱せない攻撃。
しかし、紫藤は対プレイヤー用ナイフを振り抜いた。
バイオレット色の光が一瞬で弧を描く。
ボール状のハンカチは縦に切り裂かれた。
「なんで勝った気になってるの? 攻撃が当たらないのはお互い様でしょ? 『Fake Earth』は対戦に時間切れがないゲーム。君が目を閉じるまで、じっくり楽しみましょう、レキトくん」
「いいえ、勝負は終わりです。あなたはハンカチをナイフで斬ってしまいましたからね。この攻撃は『フェイク』です。――先に目を閉じるのはあなたですよ、紫藤さん」
――バシャァァァ!!
斬られたハンカチから、「ライムミント味のフリスク」の粒が飛び散った。
ハンカチの中に包んだフリスクケースは、綺麗な断面で真っ二つになっていた。
解き放たれたフリスクの数粒が、紫藤の目へ飛びこんでいく。
紫藤は目を反射的に閉じて、その上にナイフを持ってない腕を覆いかぶせた。
1秒にも満たない時の狭間、わずかな瞬間、紫藤のナイフを振る手が止まる。
華奢な手の中にあるスマートフォンは、筐体が半分以上はみ出ている。
このゲームのスマートフォンは、プレイヤーと一心同体。
アバターにダメージが入れば、スマホ画面がひび割れ、逆にスマートフォンの電源を切られれば、アバターの心臓は止まるシステム。
――つまり、この世界において、「スマートフォンを奪われること」は「心臓を奪われること」を意味する。
俺は紫藤のスマートフォンに手を伸ばす。
切り傷だらけのアバターを無理やり動かしたせいか、伸ばした腕と肩の傷口からシアン色の血が溢れた。
後頭部の痛みはガンガンと響いている。
アバターの血管は火傷跡のように腫れ上がっている。
初めて凛子と出会ったとき、手を差し伸べられた記憶が脳裏をよぎる。
そして、人差し指が手帳型のスマホケースに引っかかった。
――ビウィ、ビウィ、ビゥィン!! ビウィ、ビウィ、ビゥィン!!
淡々と降りつづける雨の中、突然、大音量の警報音が鳴った。
発信源の俺と紫藤のスマートフォンは共鳴するように振動した。
「地震」や「台風」の注意喚起をするときとは異なる、現実世界では聞いたことのない音だった。
嫌な予感がした俺は後ろへ飛び退いた。
濡れた地面に着地したとき、後頭部にアイスピックをハンマーで打ちつけたような痛みが走った。
目の力のタイムリミットを超えてしまったらしい。
左目を手で覆い隠し、瞬きする右目で紫藤の顔を睨みつける。
紫藤はスマホ画面を見ると、《対プレイヤー用ナイフ》を解除した。
イヤホンジャックから光の刃が消えて、宙にバイオレット色の残滓が漂った。
彼女のスマホを持っていない側の手は高々と上がっている。
遠くからでも目立つように、細長い指先はぴんと伸びている。
黄色のタクシーが俺たちの近くに停まり、後部座席のドアが自動で開いた。
「一時休戦よ、レキトくん! 私とタクシーに乗って! 早く‼」
「……どういうことですか、紫藤さん? まずは理由を説明してください。これはいったい何の音ですか?」
「細かい説明は後でする! だから、急いで‼ あなたもゲームオーバーになりたくないでしょ!」
紫藤は俺の腕を引っ張り、タクシーの後部座席に突き飛ばした。
そして、俺のエナメルバッグとスクエア型眼鏡を素早く拾うと、救命ボートへ駆けこむように、彼女自身も後部座席へ飛び乗った。
俺はスクエア型眼鏡をかけ直し、警報音が鳴りつづけるスマートフォンの画面を見る。
真っ赤なスマートフォンのロック画面には、東京駅付近の地図を表示していた。
複数のコインのマークが東京駅付近の地図に点在していて、いずれも画面上で少しずつ動いていた。
たったいま俺と紫藤がいる地点には、金色のコインが2つ並んでいる。
左手の親指で2つのコインを触ってみると、コインはくるりと引っくり返る。
裏返ったコインには、「遊津暦斗」と「紫藤ライ」の名前が記されていた。
――ズゥゥゥゥゥゥ。
東京駅前からタクシーが発車したとき、謎のノイズがどこからか聞こえてくる。
運転中の暖房機器のファンの音によく似た音だった。
後ろから吹いた風がタクシーを追い越した瞬間、空調のついていない車内が2℃くらい暑くなる。
雨で空気は湿っているはずなのに、アバターの頬が乾燥するのを感じる。
違和感――大音量のスマホの警報音が鳴っている中、「別の音が聞こえる」異常性に気づく。
俺は後ろを振り返る。
目に入ってきたものに思わず息を呑む。
真っ赤な炎が数百メートル離れた高層ビルを燃やしていた。
壊れた壁らしき破片が宙を回転しており、割れた窓ガラスとともに地上に向かって落ちていた。
落下した衝撃がアスファルトから振動で伝わる。
そして、炎上中のフロアより下のフロアが光った直後、爆破音と同時に炎が膨れ上がった。
さっきよりも強い風が駆け抜けて、一方通行の標識は反対方向を指すように裏返る。
爆破されたフロアは、テトリスで横一直線に揃ったときのように、端から端まで消し飛ばされていた。
激しかった雨は止みつつあり、地面に落ちる雨粒も小さくなっている。
雨音が小さくなった分、手元のスマートフォンの警報音が耳についた。
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