12話 選ばれし挑戦者の力

 雨は激しくなっていく。

 地面に広がっては消える波紋の数は増えていく。

 雨粒が落ちるたび、首から飛び散った血は水たまりの中で薄まっていく。 

 紫藤はため息をついて、右足の踵の折れたハイヒールを見下ろした。


「はあ、踏み込みに耐えきれなかったか。可愛いデザインだったし、けっこう気に入ってたのに……」


 濡れた地面を後ろ向きに滑りながら、俺は紫藤から数メートル距離を取った。

 襟のホックが切断されて、首回りは楽になったはずなのに、なぜか息苦しく感じた。

 赤色のスマートフォンのインカメラを起動して、アバターの首の傷の状態を確認する。

 紫藤のハイヒールの踵が折れたおかげで、対プレイヤー用ナイフの切っ先がかすっただけで済んだらしい。

 数ミリの切り傷しかスマホ画面に映っていなかった。


「……『Fake Earth』での感覚は現実世界と変わらない。プレイ中に怪我をすれば、脳から痛みを感じさせる信号が送られてくる。【変わらない】ってことは、【まったく同じ】ってことか」


 俺は首の傷に触れて、自分の手を見る。

 親指に「シアン色の血」がついていた。

 現実世界とゲームの区別をつけるための措置として、アバターの血の色は「シアン色」に変更してあることを思い出す。

 淡い水色の血はくすんだ赤色の生々しさがなく、絵の具かインクにしか見えない。


 しかし、数ミリの首の傷は焼けるように痛かった。

 HPが1ポイント減ったくらいのダメージなのに、痛みはクリティカルヒットを食らったような体感だった。


――日常生活で意識できなかっただけで、人間の体は思ったよりも脆くできている。

――頭や首や心臓はもちろんのこと、全身を覆う皮膚ですら攻撃を受ければ致命傷になりうる。

――弱点を剥き出しにしているアバターで、ダメージを受けることを見くびってはいけない。


『Fake Earth』はRPG感覚でプレイしてはいけないゲームだ。


「なに休んでるの? そんなんで距離を取ったつもり?」


 紫藤は左足のハイヒールを地面に蹴りつけて、右足のハイヒールと同じように踵を折った。

 そして、左右の折れた踵をつま先に当てて、二連続で蹴り飛ばした。

 尖った踵は手裏剣のように回転しながら、俺の顔に勢いよく向かってくる。


――近距離攻撃のナイフではない、中距離攻撃の飛び道具!


 意表を突かれた俺は反応が遅れて、またも避けるモーションに移れない。

 咄嗟の判断で、盾の代わりにスマートフォンを構える。

 左側の踵はスマートフォンで防げたが、右側の踵が耳にヒットした。


 痛みがブワッと耳に広がった。

 耳の体温が上がった。

 周囲の音が聞こえにくくなった。


「……ッ!」


 俺は身の危険を感じて、慌てて上半身を反らせる。


――ブワッッッ!!


 瞬時に間合いを詰めた紫藤は、対プレイヤー用ナイフを振り抜いた。

 バイオレット色の光の刃が、1秒前まで俺の首があった場所を通過した。

 後ろに上半身を倒しすぎた俺はバランスを崩して、濡れた道路に背中をぶつける。

 雨水が学ランに染み込んで背筋を冷やす。


 

 俺は全速力で飛び起きて、紫藤が振り下ろしたナイフを回避する。


 戦いが始まって気づいたが、

 現実世界の体より筋肉がついているせいか、いつもより数センチほど動きすぎている。

「身体感覚」と「身体能力」が一致していない。

 格闘ゲームに例えるなら、使い慣れていないキャラクターで戦っている気分だ。


 そして、『Fake Earth』の戦いは「ターン制」ではない。

 相手が先に攻撃したからといって、次は自分が攻撃できるわけではない。


 頭の中で表示されたコマンドにヒビが入り、割れたガラスのように粉々に砕ける。

 紫藤は対プレイヤー用ナイフを振り回す。連続で、連続で、連続で斬りかかってくる。




 雨音がザーッと鳴っていた。

 プレイ中にバグが起きたゲーム機から聞こえてくる、ホワイトノイズを彷彿とさせる音だった。

 水中から浮かび上がったように、東京駅前は水浸しになっている。

 雨粒の描く波紋はシアン色に染まっている。

 淡い水色の波紋は少しずつ色濃くなっている。


 俺は息を切らせながら、左手の甲に手を当てた。

 血のざらついた感触が手のひらに伝わった。

 学ランは切り傷だらけになっていた。

 紫藤のナイフが当たった場所を覚えていないくらい、アバターは何度も斬られていた。

 額から流れる水滴は、冷や汗なのか、雨粒なのか、それとも血なのかがわからなかった。


「ねえ、レキトくん。もしよかったらスマートフォンごとコインを渡してくれない? そしたら、私はあなたをナイフで攻撃しないって約束する。どうせゲームオーバーになるなら、痛い思いはしないほうがいいでしょう?」


 紫藤は俺に手を差しだして、にっこりと笑みを浮かべる。

 反対の手は、対プレイヤー用ナイフをつかんだままだった。


 雨の中の赤レンガ駅舎前を行き来する人たちは、俺と紫藤のほうに視線を一瞬だけ送り、何も見なかったかのように通り過ぎていく。

 何人かは立ち止まったが、傘を差さずにナイフを持っている紫藤と俺に対して、遠くからスマートフォンのカメラを向けるだけだった。


「……戦いの最中に、何を言ってるんですか? ……あなたに苦戦することくらい……初めから織り込み済みですよ。……この程度のダメージ……たいしたことありません。……まだ俺は……戦えますよ」


「……そっか。まあ、そうだよね。みんな事情があって、ここに来てるもんね」


 紫藤は笑みを消して、対プレイヤー用ナイフを構えた。

 切れ長の瞳は俺をまっすぐ見つめていた。

 土砂降りの雨は勢いが弱まる気配はない。

 雨粒が地面に降りそそぎ、辺り一面で波紋が広がっては消えていく。

 濡れた地面の模様は絶えず変化している。


 そして、紫藤の足元の波紋がわずかに大きく広がる。


――ギュイィッ!!


 紫藤は腰を深く落とすと、俺との距離を一気に詰めてきた。

 華奢な手は対プレイヤー用ナイフを握りしめて、俺の首をねる勢いで振り上げた。


――瞬間移動したのかと錯覚するほどのスピード。

――静止状態からの動きだしが尋常なく速い。


 俺は体をひねって、紫藤のナイフをすれすれで避けた。

 まだ頭のイメージと実際の動きにズレがある。

 桜の花が彫られたボタンが、学ランの留め具から千切れた。


 雨に逆らうようにして、宙にボタンが舞い上がる。

 俺の目線の高さを超えたとき、落ちてきた雨粒がボタンにピシャリと当たる。


 俺は両手でデコピンの構えを取り、紫藤の眉間に狙いを定める。

 親指から中指を離した勢いで、空中で濡れたボタンを弾き飛ばす。


「うん、わかるよ。目の前にアイテムがあったら、思わず使いたくなっちゃうよね」


 だが、紫藤は顔色を変えず、目の前に弾かれたボタンをナイフで切り裂いた。

 そのままバイオレット色の光の刃を斬り返し、急いで顔を逸らした俺の頬に一文字の傷をつけた。

 傷口から溢れた血が汗のように首筋へ伝っていく。

 全身に鳥肌が立つ。

 皮膚が焼けるような痛みを感じる。

 頬を濡らす雨粒が傷口に染みる。


 紫藤は濡れた道路を蹴って、対プレイヤー用ナイフを突きだした。

 俺がギリギリで避けると、紫藤は素早く体勢を変えて、逃げた方向にナイフを振り切った。

 俺の肩にナイフの先端が当たり、シアン色の血が飛び散る。

 斬られた痛みを感じる間もなく、紫藤のナイフが迫ってくる。


 俺は体勢を低くしたり、斜めに跳んだりして、紫藤のナイフを避けつづける。

 東京駅へ逃げるために、背中を向ける余裕すらもない。

 雨に濡れた学ランが重たくなってくる。

 息がだんだん上がってくる。

 アバターの切り傷が、みるみるうちに増えてくる。


「……ああ……くそ。……こんなふうに……


 俺は自分の胸倉を握りしめる。

 傷だらけになっても戦おうとする凛子の後ろ姿が脳裏に浮かんだ。

 目の前の対戦相手を見つめる。

 バイオレット色の光の刃を持つ手の動きを観察する。


 紫藤はフェイク・アースの世界で生き残ってきたプレイヤーだ。

 アスリート並みの身体能力を持ち、とてつもなく素早いナイフ捌きを得意としている。

 チュートリアルのふりをしなくても、対戦相手をスピードで翻弄できる実力者。

 プレイ開始直後の初心者が戦って、勝てるレベルの相手ではない。


「――学習しろ」


 けれども、俺はゲームオーバーになるわけにはいかない。

 この世界から凛子を救うまで負けるわけにいかない。

 絶対に生き残る。

 たとえ相手が経験を積んだプレイヤーだろうと、人並み外れたクイックネスを持っていようと、スマートフォンを奪われるわけにはいかない。


「――学習しろ、学習しろ」


 プレイヤー『紫藤ライ』を攻略する。

 この瞬間、無限に分岐する未来の中から、「勝利」のルートを見つけだす。


「――学習しろ、学習しろ、学習しろ!」


 だから、頭脳をフル稼働し、目の前の状況を整理しろ。

 相手の行動を予測し、想像を超える作戦を考えろ。

 本気で、真剣に、最善を尽くせ。

 どんなゲームにも勝てるチャンスは必ずある。

 相手の弱点を見抜き、わずかな隙に付け込むんだ‼



「思考パターン、学習完了。攻撃パターン、学習完了。不確定要素、解析。完全理解まで、学習率69……82……99%……」



――プレイヤー『紫藤ライ』、学習完了。



 俺は目を見開き、自分の顔からスクエア型眼鏡を投げ捨てた。


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