34話 伝説のステージ
スマホ画面の中から出たとき、俺は今までと「空気」が違うのを感じた。
冷たくて、しんとした静けさがあった。
宙に少し浮いた高さから着地すると、地面に接した足が数ミリだけ沈む。
フローリングの床やアスファルトの道路にはない、存在を受け入れてくれるような柔らかい感触だった。
俺の身の回りには、部屋にあったものが散乱としていた。
一緒に転送されたチェスターコートの裏地は、小動物用ケージに敷き詰められていた牧草で汚れている。
遮光カーテンはグシャグシャになっていて、観葉植物の鉢が足元で割れていた。
開いた受験の参考書のページには、パキラの葉が
近くでつむじ風が巻き起こり、金ぴかのスマートフォンが中から現れた。
地面に上半身が突き刺さったモグ吉は、逆さまの体勢で後ろ足をじたばたとさせている。
《
淡い秋の日差しが降りそそぎ、湿った土の匂いが立ち上り、野鳥のさえずる声が聞こえてくる。
人工の建造物どころか、NPCすら1人も見当たらない。
目立った特徴のない山の大きく開けた傾斜地。
俺は地図アプリで現在地を調べようとしたが、圏外のせいで起動することができなかった。
「ぷはぁ~! 自分のギアで死ぬかと思ったわ! 危うく『
「……ここがどこだかわかるってことは、《冒険を呼ぶ地図》の転送先はランダムじゃないってことか。人間の脳の研究のために、わざと俺が希望してないところに飛ばしたのか?」
「いやいや、そんな意地悪なことするわけないやろ。『Fake Earth』のチュートリアルとして、どうしても伝えなあかんことがあるから、この自然豊かな場所に連れてきたんや。
ハードな模擬戦をやりたがるあたり、遊津の旦那は全然わかっとらん感じやしな~。
──ぶっちゃけ今の自分、ハムスターのわいに
《小さな番犬》が吠え始めた。
赤色のスマートフォンが振動する。
真顔になったモグ吉は、両手でスマートフォンを持ち上げた。
俺は息を呑み、急いで対プレイヤー用レーザーを起動する。
端末上部のイヤホンジャックをモグ吉に向ける。
だが、親指をホームボタンから離すより、モグ吉がスマホ画面を叩くほうが早かった。
金ぴかのスマートフォン、裏面のカメラレンズからフラッシュが焚かれた。
うっ、と俺は思わず目を閉じた。
あまりの眩しさに耐え切れず、アバターの瞼が反射的に下がった。
後頭部がズキンと痛みだす。
両目が焼けるような熱さを感じる。
指先から力が抜けていき、赤色のスマートフォンが手から落ちる。
急いでスマートフォンを拾おうとしたが、目はなかなか開かない。
足にも力が入らなくなり、俺は横向きに倒れてしまう。
操作バグが起きたとしか思えない異変。
カメラのフラッシュを見ただけなのに、アバターの手足は神経が麻痺したように動かせなかった。
「ほんまに気づいてなかったみたいやな。遊津の旦那、チュートリアル始めたときから、目がドン引くくらい充血してたで。
『
「……俺の不調を伝えるために、最初に『マリオメーカー2』をプレイさせたのか」
「ん~まあ、理由の1つやな。自分でアバターの状態を把握できんかったら、この世界で生き残るのは難しいやろうし。
とりあえず充血が引くまで、目の力は使わんほうがええと思うで。わいは医者でも何でもないけど、なんかめちゃくちゃヤバい感じするわ」
《小さな番犬》は吠えるのを止めて、赤色のスマートフォンは振動しなくなる。
小動物用のケージから出たモグ吉が、地面に飛び降りる音が耳元で聞こえた。
俺は歯を食いしばり、地面についた手に力を込めた。
五本の指が曲がり、湿った土が爪の間に挟まるのを感じる。
目の力がしばらく使えない。
戦いの選択肢を1つ失うのは痛手だが、プレイスタイルの見直しにはちょうどいい機会いいだろう。
紫藤から淀川との戦いまで、俺はどの対戦相手にも「目の力」のカードを切っていた。
これからも連戦が起こり得ることを考えれば、リスクの大きい力に頼り切るわけにはいかない。
左腕のギプスを盾代わりにする、《小さな番犬》の鳴き声を囮に利用するなど、様々なプレイスタイルを模索するべきだ。
──この世界で強くなるために、やらなければいけないことは多い。
──いつ敵プレイヤーが来るかわからない以上、どうすれば最短で強くなれるのか、効率的なやり方も考えつづけなければいけない。
俺は落としたスマートフォンを手探りで探した。
模擬戦を早く始めたいのに、なかなか見つからないことに苛立ちを感じる。
人差し指にスマホケースが当たり、アバターのほうへ引き寄せた。
凛子のことを思い浮かべて、重くなった瞼をこじ開ける。
奥多摩の山から見晴らした視界には、エメラルドグリーン色の湖がふもとで広がっていた。
澄んだ水面には、逆さまの紅葉した山が鮮やかに映っている。
そびえ立つ山と山をつなぐドラム缶橋のそばで、口髭のあるコイが水中から跳ねた。
濡れた鱗は日光で輝き、尾ひれをダイナミックに揺らす。
広大な自然の中で、静かな水しぶきが上がり、小さな波紋が消えていった。
「ふぅ~、やっと目に入りよったな。こんな近くにあるのに、なかなか見向きもせんから、ヤキモキさせられましたで。
……この景色、凄いやろ? 東京にあるとは思えんくらい感動するやろ? こんな圧倒的にグラフィックが綺麗なゲームを、遊津の旦那はプレイしとるんやで」
小さな腕を組んだモグ吉はにかっと笑う。
後ろ足2本で立っており、横たわった俺と目線の高さが揃っていた。
「遊津の旦那、お前はんは優秀なプレイヤーや。そのボロボロになったアバターで、無茶でしかない模擬戦をやっても、結果的には強くなることができるかもしれん。
けど、ほんまにそんなプレイでええんか? 必死に自分を追い込まなあかんほど、現実世界で培ってきたものは、この世界で役に立たへんのか? 遊津の旦那は、わいらアーカイブ社が選んだ挑戦者やねんで。
──せっかくプレイしとるんやから、このゲームを楽しむ余裕くらい持ってくれや」
モグ吉は自分の胸を叩いて、俺の額をコツンと小突く。
円らな目に悲しい影が一瞬だけよぎった気がした。
俺は一息ついて、地面に倒れたアバターを起こす。
長袖のカットソーについた土を払って、エメラルドグリーン色の奥多摩湖を見つめた。
『Fake Earth』を楽しむ余裕を持つ。
実際に死闘を経験した身からすれば、モグ吉のアドバイスを受け入れる気にはなれなかった。
ゲーム内の戦いは殺し合いと変わらない。
スマホゲームで遊ぶのと違って、ゲームオーバーのリスクがあまりにも重すぎる。
しかし、きっと凛子はゲーマーとして、『Fake Earth』を楽しんだだろう。
プレイヤー同士の殺し合いを好まないとしても、現実世界の自分とは違うアバターや本物の人間と区別のつかないNPCに心が踊ったはずだ。
──君さ、つまんなそうな顔でプレイしてるね。
凛子とゲームセンターで出会ったとき、初めてかけられた言葉が蘇る。
俺は片手をポケットに突っ込み、ライムミント味のフリスクケースを揺らした。
真っ白な粒がケースにぶつかり、涼しげな音が鳴る。
今後プレイしていく中で、ゲームを楽しむ余裕が持てるかどうかはわからない。
一定の実力がなければ、楽しむこともできないとも思う。
ただ、奥多摩にギアで転送された直後より、視界が広くなったように感じた。
「ありがとう、モグ吉。少しだけ楽になったよ」
「おー良かったで。ほな、遊津の旦那の心構えができたところで、そろそろ『
「……ん? どういうことだ? 俺をここに連れてきたのは、ゲームの楽しさを伝えるためじゃないのか?」
「いやいや、なんでやねん。遊津の旦那は強くなりたいのに、精神論を語って終わりはあかんやろ。
ゲームの楽しさを伝えながらも、プレイヤーとして一段階レベルアップさせる。一流のチュートリアルは、要求された以上のことをやらんと」
モグ吉は微笑み、山の中をトコトコと歩いていく。
50センチ先の地面に生えた雑草の前に立つと、背筋を測定するように思い切り引っ張った。
次の瞬間、視界がぶれ始めた。
アバターの目の不調かと思ったが、後頭部が痛みだすことはなかった。
何かが真下から突き上げるような感触、俺は地面が揺れ始めたことに気づく。
周囲の山から野鳥が一斉に空へ羽ばたいていった。
緊急地震速報のアラートが鳴り始める。
東京都で震度3の揺れ、震源地は奥多摩。
地面に座ったモグ吉は、準備体操を行っていた。
──ザァァァァァァァ!!
派手な音が鳴り響いた瞬間、地中から「レンガ造りの建造物」が飛び出した。
周辺にあった木々は土ぼこりをかぶり、葉擦れの音が悲鳴を上げるように響きわたる。
レンガ造りの建造物は5メートル以上の高さがあった。
その長さは1キロを優に超えており、万里の長城を彷彿とさせる。
俺は逃げることができず、レンガ造りの建造物の左端に乗せられていた。
下に降りる階段は見当たらず、地上には飛び降りる以外に戻る方法はないようだった。
目の前にはまっすぐ進む道だけがある。
黒い三角旗が建造物の右端には掲げられており、出口となりそうな城がその先にあった。
しかし、レンガ造りの建造物の右端まで、簡単に辿りつけそうにはなかった。
「異形の怪物」が建造物の上に何体も乗っていた。
凶暴そうな三白眼、胴体に手が生えていない代わりに、獲物を仕留める牙は口からはみ出るほどに長い。
体長は160センチ近くあり、菌類が突然変異したような姿をしている。
俺は異形の怪物を目にした瞬間、この地中から現れた建造物の正体を確信した。
俺の目の不調を伝えるために、『マリオメーカー2』で遊んだのかと質問したとき、「ん~まあ、理由の1つやな」とモグ吉が曖昧な答え方をしたことを思い出す。
──古今東西あるゲームの中で、世界で一番知名度の高い伝説のステージ。
──1回プレイするだけで、操作方法が自然とわかるように設計された、ゲーム初心者にもおすすめのコース。
『
「どや、世界遺産に申請してええくらいの完成度やろ? わいは昔からDIYにハマっててな、思い切って作ってみたんや!
一番苦労したのが土管のところでな~。地下に潜ったはええけど、どうやって上に戻ればええんか、ほんまに──」
モグ吉は手をこねくり回しながら、制作話をベラベラと喋り始める。
いつの間にか緑色の帽子をかぶっていて、濃い付け髭を口の上につけていた。
俺はステージの長い道のりを見通す。
1/1スケールで作られたWORLD1-1は、宙に浮いているブロックの配列までも完璧に模倣していた。
真っ青な空を見上げれば、ちぎれ雲もゲーム背景と一致している。
日差しも絶妙な角度から差し込んでおり、緑色の土管の右側が影になっている。
400秒のタイムリミットはあるのか。
赤いスーパーキノコを食べれば、俺のアバターは2倍の大きさになるか。
もしもWORLD1-1をクリアしたら、WORLD1-2が続きにあるのか。
頭の中で質問したいことが、次々と浮かび上がってくる。
任天堂のゲームのリアル版に挑戦することが、『Fake Earth』の楽しさを伝えることにつながるのか。
等身大のクリボーと戦うことが、敵プレイヤーとの戦いに役立つのか。
根本的な疑問もどんどん湧いてくる。
「なんや? 早く遊んでみたいか、遊津の旦那? ワクワクしてる顔しとるで」
「……気のせいだよ、モグ吉。たしかに模擬戦の代わりだから、早くやりたいと思ってるけど、心がワクワクしているかどうかは別問題だ」
「ふふん、まあそういうことにしといたろ。遊津の旦那も高校生。思春期の難しいお年頃やからな~。
──んじゃあ、どっちが先にゴールに着くか、仲良く競走しまっせ!」
モグ吉はスマホケースを外して、ナイロン紐を中から取り出す。
そして、タイヤ引きのトレーニングを始めるかのように、腰とスマートフォンを紐で結びつけた。
俺は胸に手を当てて、息をゆっくりと吐く。
生まれて初めてゲームを遊んだのはいつだったか、思い出せそうで思い出せないことをふと考えた。
凛子と2人でやり込んだせいか、お馴染みの地上BGMが脳内で勝手に再生される。
頭の中でコントローラーが登場して、親指がBボタンを押すイメージが浮かぶ。
近づいてくるクリボーに向かって、俺はモグ吉とともに駆け出した。
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