33話 Human evolution
『人類の進化(Human evolution)』
世界時価総額のトップを誇るIT企業、アーカイブ社は2025年に創業以来、この経営理念に基づいた事業に取り組んできた。
まず創業者のアダム・レイが始めたのは、「人工知能の完全な普及」だった。
人類の成長を遅らせているのは、「多くの人が判断を直感や経験則に頼りすぎているからだ」と考えて、深く考える行為のきっかけとなるために、客観的な立場から意見を述べてくれるシステムを作り上げたのである。
アーカイブ社が開発に成功したのが、「コンタクト式の超小型PC」だった。
朝起きてから、寝る瞬間まで。コンタクト型にPCに埋め込まれた人工知能は、あらゆることを判断し、装着したユーザーに伝えた。
たとえばユーザーが駅に入れば、どの電車で目的地に向かえばいいのか。
これまでの移動経緯に加えて、装着者の年齢・性別・健康状態から、暴漢の出現情報・混雑度まで加味した「一度めの判断」を、人工知能はコンタクトに表示した。
これは日常生活に限らず、営業や企画立案、プレゼンテーションなどのあらゆるビジネスシーンや、研究・開発の場でも、大いに活躍した。
iPhoneとほぼ同じ価格で購入でき、付属品のメンテナンス機器に5分間入れておくだけで、24時間安全に使うことができる。
この「アーカイブ・レンズ」と呼ばれるコンタクト式の超小型PCは、世界で爆発的に普及した。
発売から1年半も経たないうちに、全世界での利用台数は1億台を突破した。
だが、創業から3周年を迎えた日、アーカイブ・レンズの提供中止が決定された。
「独自の調査の結果、人工知能の過干渉は人類の知能を退化させることがわかりました」
レイ社長は記者会見で発表して、売上を伸ばしていたウェアラブル市場から撤退した。
ここから
彼らは人類の進化のために、「人類全体の底上げ」が最優先の課題として、「発展途上国の徹底的な医療整備」を手がけた。
十分な待遇と装備を持たせ、十分な腕のある医師を、十分な人数派遣する。
また先進国の医師を流用するだけでなく、現地の医師の育成・トレーニングも行った。
株式市場では冷ややかな声も聞かれたが、10年後には発展途上国とされた国々の「幼少期死亡率」は、先進国とほぼ同じとなった。
ほとんどすべての感染症についても、先進国における死亡率と変わらなくなった。
事実上、この地球から「発展途上国」は消滅した。
彼・彼女らは、健康的な身体と健康的な精神を持って、アーカイブ社の用意した学校へ通い、大いに勉学に励み、卒業後は、地元あるいは全世界で精力的に働き始めた。
国連が定めた「持続可能な開発目標(SDGs)」への多大な貢献。
全メディアが賞賛する社会的活動は、企業のブランド価値を高める広告となり、アーカイブ社の最終的な利益は先進国の国家予算並みとなった。
現在のアーカイブ社の特徴は2つある。
1つは、アーカイブ社は分類不可能な会社ということだ。
アーカイブ・レンズの提供を止めた後、彼らは、「医療」「インフラ」「教育」「エネルギー」その他、ほぼすべての巨大ビジネス分野に進出し、すべてシェアナンバー1を獲得している。
アーカイブ社は、世界一の「IT企業」でもあるが、世界一の「エネルギー企業」でもあり、世界一の「建設会社」でもあった。
もう1つの特徴は、社員が全世界でたったの1000人しかいないことだ。
世界の大企業では数万人から数十万人が働いているにもかかわらず、アーカイブ社は10分の1未満の社員数だけで、あらゆる業界のトップに上り詰めていた。
どうして競合他社より圧倒的に少ない人数で勝つことができたのか。
アーカイブ社の人事部長に取材した記者の話によれば、「優秀な人工知能を搭載したPCが1台あれば、数十万人分のマンパワーは補える」らしい。
では、
当時、社内で期待の若手とされていた記者は質問を変えた。
「全社員が『人工知能より優れた能力』を持っているからです」
アーカイブ社の人事部長は、それ以上多くのことは語らなかった。
「いや~遊津の旦那はなかなかのゲーマーやな~! さすがわいが推してるプレイヤーやで!」
自室のベッドに腰かけた俺の膝の上、ハムスターのモグ吉は携帯型ゲーム機のコントローラーを操作している。
小さな手でスティックを傾けて、Aボタンをときおり叩いていた。
俺は右手を広げて、親指の腹にスティックを当てながら、薬指と小指でボタンに触れる。
左腕はギプスで固定されているため、コントローラーは片手で使わざるを得ない。
背面のスタンドを立てたゲーム機が、壁掛けデスクに置かれている。
帽子をかぶったオーバーオール姿のヒゲを生やした中年2人が、横長のディスプレイの中で走ったり跳んだりしていた。
『Fake Earth』の世界に転送されてから、早く始まることを待っていたチュートリアル。
俺はコントローラーを渡されて、『マリオメーカー2』をモグ吉と一緒にプレイしていた。
「……なあ、モグ吉、これは何の意味があるんだ?」
「そりゃ親睦を深めるために決まっとるやろ。お互いに気心知れたほうが、チュートリアルの会話も弾むやん。ビジネスマン風に言うなら、『アイスブレィカァ~ル』ってやつや」
モグ吉は舌を巻いて、「アイスブレイク」をネイティブっぽく発音する。
小さな手でコントローラーを上に動かすと、操作していた緑色の帽子の中年は走りながらジャンプした。
次の瞬間、透明だったブロックが真上に現れて、ジャンプの勢いを殺された緑色の帽子の中年は少し先にある穴へ落ちていく。
悲鳴を上げたモグ吉は、俺の膝の上でぴょんぴょんと飛び跳ねた。
俺はモグ吉を無視して、操作している赤色の帽子の中年に集中した。
移動リフトが来るのを待たず、パックンフラワーが待ち構えている土管へジャンプして、当たり判定をギリギリ受けない土管の縁へ着地した。
敵キャラとオブジェクトの微小なサイズ差を見極めて、土管の縁から縁へ跳びつづける。
最後に操作ミスでパックンフラワーに接触したが、ステージ最速のタイムでゴールバーをくぐり抜ける。
見た目はハムスターでも、モグ吉はアーカイブ社の社員。
人間の脳のデータを集めるために、世界中の人たちをクリア報酬でおびき寄せて、ゲームという名の人体実験に加担しているメンバーだ。
気さくなキャラクターを装っているが、腹の底では何を考えているのかはわからない。
『Fake Earth』内でゲームを一緒にプレイするのも、親睦を深める以外の狙いがあるとしか思えなかった。
「く~、これでわいの3連敗か! 人間のアバターを使えたら、絶対に勝てるのにな~! いかんせんハムスターのアバターやからな~!」
「いや、10連敗だよ、モグ吉。だいたい自滅負けだし、アバターは関係ないだろう。
……そろそろ質問してもいいか? いつ敵プレイヤーが襲ってくるかわからないし、訊けるときに訊いておきたい」
「ふふん、さては勝ち逃げするつもりやな? まあ、わいは大人やから、今回は大人しく敗北を受け入れたるけど。
ほな、遊津の旦那が『Fake Earth』で気になっとることを教えるで!
──とりあえず『ゲームマスターを倒した後、NPCになったプレイヤーの記憶はどうなるのか』と『NPCになったプレイヤーがもう1回死んだらどうなるか』について答えればええか?」
モグ吉は振り返り、俺の膝の上であぐらをかく。
小さな腕を組んで、円らな瞳で見上げた。
俺はゲームを始めてから、今までどうプレイしてきたのかをざっと振り返る。
チュートリアルに会ったら何を質問するのか、誰かに話した覚えはなかった。
独り言すらつぶやいた記憶はない。
頭の片隅に留めておいただけで、ノートに書きだすこともしなかった。
「……どうしてわかったんだ? もしかしてアーカイブ社はプレイヤーの思考を読めるのか?」
「まさか。そんな大層なことできまへんで。なんとなく質問そうなことを推測しただけや。
訊かれる前に答えるチュートリアル、知的でめっちゃクールやろ?」
得意げな顔をしたモグ吉はヒゲを手で流す。
爽やかなイケメンが髪をかき上げる仕草を真似しているようだった。
笑った口から前歯が出る。
ピンク色の鼻の穴も誇らしげに膨らんでいた。
俺はモグ吉を見つめる。
『マリオメーカー2』を一緒にプレイしただけで、チュートリアルに訊きたい質問がわかるとは思えなかった。
たまに対戦ゲームで相手の思考が読めるときはあるが、プレイ中に考えていないことまではわからない。
どういう思考回路で質問を予測したのか、まったく理解することができなかった。
「というわけで、説明するで~。
まずは『ゲームマスターを倒した後、NPCになったプレイヤーの記憶はどうなるのか』。
要は『サービス終了で全プレイヤーが現実に戻るとき、ゲームオーバーになったプレイヤーは別人の記憶を植え付けられた状態で帰んの?』って話やな。
答えは『ゲームオーバーになったプレイヤーの記憶は元どおりに戻す』や。別人の記憶で現実に戻ったら、本人はパニックになるやろし、家族や友人も迷惑をかけてまうからな~。
全員がその後も安全に生活できるように、消す前にバックアップを取った記憶に戻して、NPCに生まれ変わった後の記憶は消す処理を行いまっせ」
モグ吉は親指をぐっと立てる。
機種変更したスマホに前のデータを復元させるみたいな口ぶりだった。
「で、お次は『NPCになったプレイヤーがもう1回死んだらどうなるか』か。まあ、これはチュートリアルでよく訊かれる質問やわ。この世界は物騒やし、何かの戦いに巻き込まれて死ぬしれんからな~。
気になる答えは……『別のアバターに転生する』や。プレイヤーは絶対に死なすわけにはいかんけど、同じアバターを何回も復活させたら、トラブルになる可能性もある。
せやから記憶をちょちょいと組み換えて、また新しい人生を歩んでもらうんや」
NPCになったアバターが死んでも、憑依したプレイヤーは死なせない。
おそらくアーカイブ社は人類の進化の研究のために、脳のサンプルを1つでも失いたくないのだろう。
プレイヤーは寿命が尽きないかぎり、アーカイブ社に生かされつづける。
一部のプレイヤーを切り捨てるような例外はない。
俺はスクエア型眼鏡をかけ直す。
胸の奥にあった不安が消えるのを感じた。
両手を頬に当てたモグ吉は、体をくねくねと揺らしている。
なぜか小声でいやんいやんとつぶやいていた。
「愛が深い男やな~遊津の旦那。今の2つの質問、どっちも凜子ちゃんに関係することやろ? ええな~青春やわ~。わい、キュンキュンさせられましたで!」
「モグ吉、次の質問だ。──このチュートリアルに制限時間はあるのか?」
「こらこら! なに恋愛トークをスルーしとんねん! せっかくわいがモテるテクニックを教えたろうと思ってたのに!
……いちおう質問に答えると、ゲーム序盤やと何を訊けばええかもわからんやろから、『チュートリアルは最大24時間まで対応可能』や。
ちなみにチュートリアルは『ギアの練習』や『模擬戦』とかもできまっせ! 実戦を積みまくった遊津の旦那には必要ないかもしれんけど」
「いや、模擬戦をすぐやろう。ほかのことは考えれば、だいたいわかるし。時間はできるかぎり有効に使いたい」
俺はギプスで固定した左腕を握りしめる。
レーザー砲で空いた部屋の穴から、シアン色の血痕が残ったリビングの床が見えた。
警察官のプレイヤーの淀川との戦い。
激戦の末にコインを手に入れることができたが、いま俺が生き残っているのはたまたまにすぎない。
──NPCの母親が俺をかばった直後、撃たれた胸から血を流しながら微笑んだことを思い出す。
──NPCの父親が俺たちを逃がすために、包丁を腹に刺されながらも立ち向かったことを思い出す。
──弟の誕生日をかすれた声で祝って、ゲームオーバーになった優斗を思い出す。
『Fake Earth』で起きる出来事は、現実世界とまったく関係がない。
NPCの両親はプログラムであり、今までリアルに生きているように振る舞っていただけだ。
ゲームマスターを倒せば、優斗の消された記憶も元どおりに戻る。
そもそも、俺はこのゲームを終わらせるためにプレイしているのだから、偽りの世界で誰が死のうと心を痛める理由はない。
だが、NPCの両親の死を知った優斗の表情が頭から離れなかった。
彼の青い瞳が一瞬だけ揺れた場面が脳裏に焼きついている。
かけがえのない人との別れ。
自分より大事なモノをなくす辛さは、俺自身がよくわかっていた。
この世界が作られた偽物だろうと、あんな悲しい光景は見たくない。
自分が弱かったせいで、誰かの大切な人を犠牲するようなことは二度とあってはならない。
──凛子を失ったときの俺みたいな思いを。
──できるかぎり多くの人に体験させないために。
俺は1人のプレイヤーとして、もっと強くならなければいけなかった。
「もう模擬戦やりたいんか! ずいぶん気合いが入っとるな~!
難易度は『ゲームオーバーになる激ヤバモード』から『無双気分を味わえる俺ツエーモード』があるけど、どうする?
遊津の旦那は連戦で怪我もしとるから、とりあえず軽めのやつでええか?」
「できるだけ厳しいやつにしてくれ、モグ吉。初心者が経験の差を埋めるには、並大抵の努力じゃダメだ」
「……ふーん、了解や。どういうシチュエーションでやりたいか、ほかになんか希望はありまっか?」
「そうだな。場所は『人口1000万人以上の都市』、屋内か屋外かはどちらでもいい。あとは戦う相手の人数は可能なら、3人以上にしてくれ」
俺はスマートフォンを手に取り、東京都内でアラートが鳴ったときの戦いを想定する。
拳銃で撃たれた左腕の傷が急に痛んだが、表情に出ないようにぐっと堪えた。
モグ吉は俺の膝の上で屈んで、小動物用のケージに飛び移る。
ケージに敷き詰められた牧草を手で掘っていき、金ぴかのスマートフォンを中から取りだした。
「ほな、模擬戦のために、ギアで移動しまっせ!
──レッツゴー! 《
鮮やかに宙返りしたモグ吉は、両足でスマホ画面を踏んだ。
小さな足の下には、破けた地図のアイコンが表示されている。
次の瞬間、小動物用のケージの中で、「つむじ風」が巻き起こりはじめた。
敷き詰められた牧草が浮いて、水色の滑車もスタンドから風圧で引き離された。
つむじ風の勢いは強くなり、俺の部屋にあるモノまで巻き込んでいく。
ハンガーラックに吊るしていたコートが剥がされた。
受験の参考書も宙に飛ばされて、ページがバラバラとめくられる音が響いた。
突然のつむじ風は、内側へ引きずり込むように渦巻いている。
俺は眼鏡をギプスで固定した左腕で押さえながら、リーフ柄の遮光カーテンにしがみついていた。
ついには遮光カーテンが破けて、観葉植物の鉢やベッドとともに空中へ放り出される。
両手を上げたモグ吉は、スマホ画面の中に一瞬で消えた。
サイクロン式の掃除機で吸い込まれるように、水色の滑車も牧草も画面の中へどんどん入っていく。
視界がめまぐるしく変わる中、俺の右手もケージの中に引き寄せられた。
金ぴかのスマホ画面に、中指が当たった感触が伝わる。
──ペチャッ。
中指の爪先が軽くなると同時に、俺はスマホ画面の中に入り込んだ。
ほんの一瞬の出来事で、右手から引きずり込まれるような感覚すらなかった。
スマホ画面の中の空間は、「大きな世界地図」が広げられている。
地図の日本列島の上に立った俺は、不思議な力で身動きすることができなかった。
アバターの股の下には、折り目みたいな線が引かれている。
地図の端と端が内側へ曲げられていき、ユーラシア大陸と太平洋が両側から迫ってくる。
そして、世界地図が二つ折りにされた瞬間、俺はスマホ画面の外へ転送された。
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