32話 SPECIALコマンド
目で見えるものが、世界のすべてではない。
世界には目に見えないものが多く存在して、人間はそれを感じることができる。
例えば耳で──電車が風を切る音。線路で車輪が回る音。日本語の車内アナウンスの直後に、流暢な英語に訳したアナウンスが聞こえてくる。
例えば肌で──電車の力強い振動。前髪をかき上げる風。屋根の冷たさが伝わってくる。
ここで大事なことは、「
見えないものを感じるために、目を閉じる必要は一切ない。
目を開けていても、電車の音は聞こえるし、肌に風が当たる感触はある。
耳を塞いでも、目がよく見えるようにはならないように、実は目を閉じたところで、急に音が聞こえるわけではない。
暗闇で「聴覚」や「触覚」が研ぎ澄まされる気がするのは、普段の脳が耳や肌が受け取る情報を重視せず、目を頼りにしているから起きる錯覚にすぎない。
もっとも、「視覚」を使いながら、「聴覚」や「触覚」も同じレベルで使いこなすのは、非常に難しい技術だろう。
例えるなら、ピアノを演奏しながら、バイオリンを弾くようなものだ。
しかし、「見えるもの」と「見えないもの」を同時に認識できれば、今までとは異なる感覚で世界を捉えることができる。
2つの楽器の音が重なれば、音楽の幅が広がるように、俺自身のプレイスタイルの可能性も広げることができる。
夜の電車の上で伏せていた俺は、誰かからの視線を感じていた。
右斜め前方より、同じ高さからの視線。
親指でホームボタンを長押しする。
反対回りの電車の上には、誰も乗っていない。
俺は一発だけ対プレイヤー用レーザーを撃った。
当たった手応えがなかったので、反対回りの電車の屋根へすれ違っている最中に飛び移る。
電車の上には、クラッチバッグを持った男性らしきアバターが姿を現していた。
髪も肌も服も電車の屋根と同じ銀色。
アバターの側面だけが暗い夜の色に染まっていた。
眉毛も眼球までも色が完璧に変わっていて、表情が見えないどころか、顔のパーツはどんな形をしているのかがわからない。
高層ビル群の窓明かりを浴びる中、銀色のアバターは屋根の上でタップダンスを踊っていた。
小気味よいアップテンポの音。
直方体の車両をスリットドラムに見立てて、即興で演奏している雰囲気を感じさせる。
表情が見えない分、無言で足を踏み鳴らしている姿が不気味だった。
サビにかけて盛り上がっていくように、屋根を叩く音は速くなり、だんだん大きくなっていく。
「……標的との距離、約15メートル」
俺は片膝をつき、赤色のスマートフォンを構えた。
『Fake Earth』の世界に入ってから
頭の中で滴型の種が発芽して、樹形図が広がっていくイメージが浮かぶ。
親指をホームボタンから離した直後、相手はどういう選択を取るのか、様々なパターンの未来が並行して見えた。
──ジオン!!
ライトグリーン色のレーザー光線を撃った瞬間、目の前のプレイヤーは左にジャンプして避けた。
俺が親指をホームボタンから離すと同時に、彼の右足は屋根を思いきり蹴り、空中で華麗にターンする。
どうして横に跳ぶだけで躱せるのに、回避中にターンを挟んだのか。
なぜ戦闘中にスマートフォンを持たず、手荷物のクラッチバッグを代わりに持っているのか。
余裕のアピールなのか、はたまた別の狙いがあるのか、相手の思考がつかみ取れない。
俺は親指でホームボタンを長押しした。
彼が屋根に着地するとき、光り輝くイヤホンジャックを向ける。
そして、親指の爪先を動かし、もう一度対プレイヤー用レーザーを撃つ──
息をぐっと止めて、全身を強張らせて、攻撃の予備動作に入った演技をする。
──「撃たれる」と相手に思わせれば、撃たなくても相手を動かすことができる。
──本当に撃ちたいところへ、相手を誘導することができる。
俺は構えたスマートフォンを右にずらした。
呼吸を合わせたかのように、目の前のプレイヤーも右にジャンプした。
1発目で電車の左側に避けた以上、相手の逃げ道は右にしか残されていない。
相手が着地するよりも早く、長めに溜めた対プレイヤー用レーザーを放った。
だが、仕留めるつもりで撃ったレーザー光線も命中しなかった。
電車の右側に着地する直前で、銀づくめのプレイヤーは足を引っ込めた。
宙に浮いたアバターを後ろに倒し、滞空時間を強引に延ばす。
レーザー光線が通り過ぎた後、背中から落ちていく途中で、電車の屋根の真ん中に左足を下ろす。
不安定な体勢になったアバターは片足で支えられた。
振動する電車の上でも、指先から足先まで水平になったポーズを保ちつづけている。
銀づくめのプレイヤーは跳ね起きると、電車の上で足をもう一度鳴らしはじめた。
激しいロック調から、ゆったりとしたテンポ。
後ろ向きに足を交互に滑らせるステップも織り交ぜて、俺から少しずつ遠ざかっていく。
俺はスマートフォンを下ろした。
追いかけたところで、逃げられる結末は見えていた。
駆け引きで優位に立つことができても、電車の上で対プレイヤー用レーザーを当てることはできない。
俺の推測が正しければ、今の相手はこの世界で力を発揮する「才能」を持っている。
「……そもそも『時間切れ』か」
俺はリンゴの木を思い描いて、地面深くに根を伸ばすイメージを想像する。
電車の屋根についた片膝を上げて、できるだけ前へ高く跳んだ。
次の瞬間、《小さな番犬》が吠え始めた。
最後尾の車両の真ん中がひび割れる。
電車の屋根のひびは広がっていき、眩い光が割れ目から溢れだした。
──ディギュロン!!
夜空に屋根の破片が舞い上がるとともに、直径2メートルの光の球体は上へ上へと飛んでいった。
宙に飛び散った破片に当たった架線が揺れる。
NPCの乗客たちが悲鳴を上げた。
隣の車両へ走って逃げる足音が響く。
スマホカメラのシャッター音が鳴った。
「非常停止ボタンを押せ!」「馬鹿! 次の駅へ逃げられなくなるだろう!」と大声で揉める声が聞こえてくる。
俺は振り返って、レーザー砲で開いた穴に飛び込んだ。
車内ビジョン、中吊り広告が順に目に入り、最後尾の車両の通路に着地する。
自動運転を行っているのか、車掌室には誰もいない。
車両内には2人の男女のアバター。
隣の車両に向かう扉と車掌室の前に立っている。
セーラー服を着た女性アバターは、眉間に皺を寄せてスマートフォンで肩を叩いていた。
外ハネした金髪のボブヘアに、結び目の大きいスカーフを着崩し、ガラス玉のブレスレットを3つもつけている。
小太りの中年の男性アバターは、嬉しそうに目尻を下げて口笛を吹いた。
蝶ネクタイに合った燕尾服を着て、オールバックにした茶髪は光沢があり、外羽根式の革靴も綺麗に磨かれていた。
「なんてサプライズだ! 電車の上にネズミがいると思ったら、
有名人に会えるのは、理屈抜きでアガるよね~! 君もそう思わないか、お嬢さん?」
「……いや、べつに。むしろ敵が増えて、ぶっちゃけ面倒臭い」
「あはは、つれないね~! たしかに自分が負ける可能性が高くなるから厄介か!
けど、乱戦は誰がどう動くかわからない分、格上の相手にも勝てる可能性も高くなるだろう?
どっちみち戦うんだし、ポジティブに考えて楽しまいないと!」
「うざっ。マジでどうでもいいんですけど。はぁ~、もう色々と厳しいな~。
……全員まとめて、ぶっ殺すか」
女性アバターはため息をついて、ガラス玉のブレスレットを手首から1つ引きちぎる。
細い紐がガラス玉から抜けて、半分以上のガラス玉が通路に飛び散った。
落ちた衝撃でガラス玉に亀裂が入る。
残りのガラス玉は彼女の指の間には挟まれている。
天井の室内灯の光を浴びて、ガラス玉の中の銀箔が妖しく輝いていた。
「──1回くたばれ、《
女性アバターはギア名をつぶやき、軽く上にガラス玉1つをふわりと投げる。
真上に上がったガラス玉は緩やかに回り、やがて重力に引っ張られて垂直に落ちていった。
次の瞬間、女性アバターは腰をひねって、スマートフォンを持った手を後ろに引いた。
アバターの上半身に無駄な力みのない、テニス選手の構えによく似たフォーム。
すぐさま彼女は横に鋭くスイングして、金色に光った画面でガラス玉を打ち抜いた。
強烈な打撃音が響き、通路の前に立つ俺と男性アバターめがけて、ガラス玉が勢いよく飛んでくる。
金色の光がガラス玉を包み込んで、彗星の尾のように後ろへ流れていた。
嫌な予感がした俺は膝を曲げて、急いで通路から座席のほうへ横に跳んだ。
──ワググッウ!
猛スピードで迫る中、金色の光を纏ったガラス玉は巨大化した。
親指くらいのサイズから、ボーリング玉くらいのサイズへ一瞬で変化した。
高速でスピンしているガラス玉の速度は落ちない。
攻城兵器のカタパルトで岩を投擲したような勢い。
直撃すれば、アバターの骨は確実に折れる。
しかし、小太りの中年の男性アバターは通路から動かなかった。
感心するように口笛を吹いて、ポーチタイプのスマートフォンを操作する。
「芸術点が高いギアだね、お嬢さん! 装飾品を飛び道具にするセンスもグッドだ!
じゃあ、僕もギアを見せちゃうよ!
──びっくりドッキリ! 《カクシブロック》!」
恭しく礼をした男性アバターは、ギア名を高らかに叫ぶ。
ポーチタイプのスマートフォンの画面は薔薇色に光り輝いた。
だが、目で見るかぎり、車両内で何かが変わった様子はなかった。
巨大化したガラス玉が小さくなることもなければ、誰かのアバターに異変が起きることもない。
男性アバターの光っていたスマホ画面は暗くなっている。
通路に映るガラス玉の影が、男性アバターの影に重なった。
──ピコン!
電車の振動音が響く中、奇妙な音が車両内で鳴った。
戦闘のBGMには似合わない、暗いダンジョンの奥で隠し扉を見つけたようなビックリ音。
何かが起きたことがわかる確かな音だった。
巨大化したガラス玉の勢いは、謎の音が鳴ったと同時に止まった。
男性アバターに当たる直前で、何かに阻まれたようだった。
車両にぶつかった衝撃が伝わり、吊り革が一斉に小さく揺れる。
金色の纏っていた光が消えて、ガラス玉は元のサイズに縮んでいく。
男性アバターの前には、
段ボール箱くらいの大きさ。
今まで遮蔽物はなかったのに、突然何もないところから現れている。
《カクシブロック》は「見えないブロックを配置する効果」らしい。
頑丈な素材でできているのか、宙に浮かんだブロックは傷ひとつなかった。
「いつまで傍観者でいるんだい、遊津暦斗くん?
──人生で『様子見』は最大の悪手だぜ!」
男性アバターは微笑み、対プレイヤー用ナイフを起動する。
薔薇色の光の刃を構えて、座席の真ん中に立つ俺に向かって走った。
女性アバターはガラス玉をスマホ画面に乗せている。
親指を画面の上で浮かせたまま、俺と男性アバターをじっと見ていた。
俺はスマートフォンを両手で持つ。
後ろ向きに下がろうとしたとき、「ピコン!」と軽やかな音が背後で鳴った。
硬い物が背中にぶつかり、アバターは一歩も引くことができない。
サイコロ型のブロックが俺の背後に浮かんでいた。
「知らないから見落としただろう? 実は《カクシブロック》は1度で2個置くことができるんだ!」
男性アバターは通路を強く蹴って、嬉しそうな顔で俺に跳びかかった。
空中で吊り革をつかみ、アバターの体勢を素早く変えて、斜め下から突き上げるようにナイフを振る。
《小さな番犬》が激しく吠えた。
赤色のスマートフォンが振動する。
「その言葉、『
──あなたの視線から、もう1個あるのはわかってますよ」
俺は右手を伸ばし、真横に仕掛けられたブロックを暴く。
赤色のスマートフォンを振り、親指でホームボタンを2回押した。
──ジヴィム! ジヴィム!
微かに光ったイヤホンジャックから、レーザー光線より短い光の弾が連射される。
2発のライトグリーン色の光弾は、至近距離まで近づいた男性アバターに命中した。
1発目は「スマートフォンを持った右手」に。
中指の第二関節に刺さり、緩んだ手から対プレイヤー用ナイフが斜め下にすっぽ抜ける。
2発目は「吊り革を持った左手」に。
輪っかから指が弾かれて、男性アバターは通路に落下する。
次の瞬間、
アバターの首の骨の折れる音が耳に届く。
元のサイズに縮んだガラス玉は、仰向けに倒れた男性アバターの耳元に落ちた。
全身を痙攣させながら、男性アバターは口の端から泡を噴いている。
静かに息を吐いた女性アバターは、振り抜いたスマートフォンを下ろした。
「ふぅ、とりま1人目。これで賞金1億円ゲット。
……お母さん、待ってて。あと3億円で終わるから」
女性アバターは物憂げな顔をして、結び目の大きいスカーフを解く。
えんじ色のスカーフの中から、「透明なスーパーボール」が滑り落ちてきた。
数は全部で5個、球体の輪郭だけしか見えない。
逃げ場のない電車の中で、巨大化したスーパーボールが透明のまま、高速で跳ね回るビジョンが脳裏をよぎる。
「──《
女性アバターはギア名をつぶやき、透明なスーパーボールを5個に上へ投げる。
そして、アバターの腰をひねり、スマートフォンを持った手を後ろに引いた。
板チョコに似せたケースの付いたスマートフォン、液晶保護フィルムを貼った画面が光り輝く。
彼女は腰をひねり戻して、斜め上からスマートフォンを振った。
5個のスーパーボールをまとめて、金色に光ったスマホ画面で打ち抜く。
「──SEPECIALコマンド実行、『
俺はスクエア型眼鏡を外して、左手で対プレイヤー用レーザーを構える。
人差し指でケースの裏側を少しずつ押して、イヤホンジャックの向きをミリ単位で変えていく。
親指の爪先に力を集中させて、ホームボタンを素早く連打した。
──ジィドドドドドフォン!!
輝きが点滅したイヤホンジャックから、ライトグリーン色の光の弾が5連射される。
散弾銃を撃ったように、1発1発がばらけて、電車の通路を駆け抜けた。
5個のスーパーボールはスマホ画面に叩きつけられて、通路に激突した直後に跳ね上がる。
それぞれの打球が金色の光を纏って、天井や手すりに勢いよく向かっていく。
しかし、ライトグリーン色の光の弾が、スーパーボールの行く手を阻んだ。
それぞれの打球に1発ずつ命中して、勢いを殺すとともに弾道を曲げた。
金色の光を纏ったスーパーボールはバックスピンしながら、後ろのほうにゆっくりと飛んでいく。
5個すべて、女性アバターの方向へ戻っていく。
俺はスクエア型眼鏡をかけ直し、ライトミント味のフリスクケースを引っ張りだした。
口の中にフリスクを1粒放り込み、奥歯でガリッと噛み砕いた。
──頭の中で広がっていた樹形図のイメージ。
──その中の1本の枝が切り取られて、巨大化したスーパーボールに倒される未来が消える。
金色の光を纏った5個のスーパーボールは、女性アバターの目の前に弾き返されていた。
一番近くにあるスーパーボールは、彼女のこめかみまで迫っている。
女性アバターは瞬きして、5個のスーパーボールの行方を目で探した。
すぐさま自分に返ってきていることに気づき、ギアを解除しようと親指を動かす。
だが、光ったスマホ画面に指が触れるよりも、スーパーボールが巨大化するのが早かった。
彼女のこめかみに迫ったスーパーボールは、一気にボーリング玉のサイズに膨れ上がった。
鈍器で強く殴ったような音が車両内に響く。
女性アバターは座席の方へ吹っ飛ばされた。
電車にブレーキがかかり、線路を走る速度が落ちていく。
足元から伝わる振動も弱まりはじめた。
車内アナウンスが自動で流れて、まもなく池袋駅に到着することを告げる。
英語に訳されたアナウンスが続けて放送された。
俺は倒したプレイヤーたちに歩み寄る。
男性アバターも、女性アバターも、
プレイヤーがNPCに生まれ変わるときに鳴る、誰かがスイッチを入れたような音は聞こえない。
2人のスマホ画面はひび割れており、金色のコインが中に入っているのが見えた。
俺は屈んで、彼らのスマートフォンを1台ずつ回収する。
それぞれのスマートフォンのロック画面をスワイプして、カメラモードに切り替えた。
持ち主のアバターの顔を画面に映す。
親指で撮影ボタンを同時に押した。
──ルール4:自分のスマホカメラで自分自身を撮影した場合、イベント失格となる。
──ルール5:イベント失格となったプレイヤーは「ゲーム開始時のスタート地点」へ転送される。
小気味いいシャッター音が鳴り、撮影した画像がスマホ画面に表示される。
男性アバターのスマホ画面には「車掌室前の通路」しか映っておらず、女性アバターのスマホ画面には「モザイク模様の座席」だけがデータとして記録されていた。
どちらのスマホ画面にも、持ち主のアバターが画像から消えている。
彼らが戦った痕跡となるガラス玉や宙に浮かぶブロックもない。
俺がスマホ画面から顔を上げると、2人のプレイヤーは車両からいなくなっていた。
写真で撮影したものを再現したかのように、宙に浮かぶブロックもガラス玉もない。
それぞれの手で1台ずつ持ったスマートフォンも、瞬きする間に音もなく消えてなくなる。
RPGでモンスターを倒した後、そのモンスターがフィールドからいなくなった光景が脳裏をよぎった。
「……戦闘終了」
誰もいない車両の座席に座って、俺はアバターの左腕の調子を確かめる。
触っても肘を曲げてみても、違和感はない。
淀川に拳銃で撃たれた、全治1ヶ月の傷。
数ミリの開いた穴は塞がっており、戦闘中でも急に痛みだすこともなかった。
この傷が治るまでの1ヶ月間、様々な出来事があったことを思い出す。
『プレイヤー殺し』との戦い、あるプレイヤーとの再会、この世界での学校生活のトラブルetc……。
当時を振り返れば、たくさんの分岐点が待ち構えていて、俺は「最善」だと思うルートを進んできた。
選んだルートが正しかったのかは今でもわからない。
もしも当時の分岐点に戻れるのなら、違うルートを選びたい場面がいくつもある。
数多くの記憶が溢れ返る中、「俺をもっとも変えた出来事の記憶」が光り輝きはじめる。
それはNPCの両親と優斗を失った数時間後、病院で怪我の応急処置を終えた後に訪れた。
下北沢にある自宅に帰って、戦いで散らかった自分の部屋を片付けているとき、玄関のインターホンが鳴った。
NPCの優斗は葬儀会社へ打ち合わせに行き、医者に入院を勧められた美桜は病院に残ったため、5人で暮らしていた自宅には俺しかいなかった。
俺は赤色のスマートフォンの画面を見る。
《小さな番犬》はホーム画面で穴を掘り、温泉を掘り当てていた。
吠える様子もなければ、青色のスパイク首輪が黄色く点滅することもない。
ドアが蹴破られた玄関には、緑の制服を着た配達人が、小型の段ボールケースを脇に抱えている。
「すみません、お届け物です。けっこう大きいので、床に置かせていただきますね」
若い配達人は荷物を床にそっと置いた。
「受領印はいらないんで」と一礼して、にこやかに去っていく。
配達された段ボールケースは、俺宛てに送られたものだった。
『Fake Earth』でネットショッピングを利用したことはないが、NPCだった頃の遊津暦斗が頼んだものでもないらしい。
送り主の名前には「
俺の字でないことは一目見るだけでわかった。
俺は階段を上がって、ひとまず荷物を自分の部屋に運んだ。
何が送られたのか、いっさい予想できなかった。
伝票の品目は「誕生日プレゼント」としか記載されていない。
開けていい物なのか、捨てるべき物なのか、判断に迷う。
俺は恐る恐る開けてみることにした。
《小さな番犬》が反応しないので、危険物ではないことに賭けた。
対プレイヤー用ナイフを起動して、ガムテープで接合されたところを切る。
段ボールケースを開き、中にあった物を取りだす。
送られてきた物は「小動物用のケージ」だった。
給水ボトルには水が溜まっていて、透明な食器にはひまわりの種が入っていた。
ケージの中央には、水色の回し車が置かれている。
薄茶色のハムスターが回し車の上で、ひまわりの種をカリカリと齧っていた。
「どういうことだ? 誰がいったい何のために?」
「そりゃ、運営が送ったに決まってるやろ。ほかにプレイヤーの本名を知っとるやつはおらへんし。
まあ、あえて送り主を『アーカイブ社』にせんかったのは、可愛いわいのいたずら心やねんけどな」
いきなり陽気な関西弁が、俺の独り言に返事した。
その声は小動物のケージの方から聞こえてきた。
俺は対プレイヤー用ナイフを構えて、自分の部屋を見回す。
優斗と戦った後で散らかっているが、誰かが潜んでいる雰囲気はない。
今、この部屋にいるのは、俺とハムスターのみ。
俺は固唾を呑み、対プレイヤー用レーザーに切り替えた。
小動物用のケージにイヤホンジャックを向ける。
薄茶色のハムスターは震えながら、両手を降参するように上げていた。
「いやいやいやいや! なにハムスターに銃を向けとんねん! 絶対撃ったらあかんで! ほんまフリやないからな! わいが何者なんか、遊津の旦那ならわかるやろ!?」
円らな目で見上げたハムスターは、関西弁をまくしたてる。
出っ歯のある口の動きから、この小動物が喋っていることは間違いないようだった。
俺は電源ボタンを押して、対プレイヤー用レーザーを解除する。
ハムスターの正体に思い当たる節があった。
スマートフォンのホーム画面で時刻を確認すると、ただいま13時53分。
雨の降る東京に転送されてから、プレイ時間はまだ24時間経っていない。
「どうやら誤解は解けたと思ってもええんかな?」
「ああ、わかったよ。……やっと来たんだな」
俺はベッドに腰かけて、この世界で最初に出会ったプレイヤーの紫藤のことを思い出す。
彼女がチュートリアルを騙ったときから、頭の片隅でずっと引っかかっていたことがあった。
もしプレイヤーがチュートリアルのふりをするのなら、本物のチュートリアルはどうやってプレイヤーではないことを証明するのか。
答えは簡単だった。
『偽物』がプレイヤーの姿をしているなら、『本物』はプレイヤーではないことがわかる姿をすればいい。
「んじゃあ、気を取り直して、まずは自己紹介から始めまっせ。
わいはハムスターのモグ吉。この世界で遊津の旦那をサポートする、知的でクールなアーカイブ社の社員や!
──ほな、楽しいチュートリアルを始めるで~」
ハムスターのモグ吉は微笑み、水色の回し車であぐらをかいた。
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