38話 停戦の戦乙女
深みのある
高級時計と同じ素材のステンレススチール製のノズル。
軽さとしなやかさを兼ね備えた、絡まりにくいツイストデザインのケーブル。
低音の響きを重視しながらも、中高音域の解像度が高い。
EDM系やロックを聴くに最適な一機らしい。
「高校生が気軽に買える物ではない」ということは、開封前のギフトボックスを見るだけでわかった。
NPCの母親と父親の葬儀から8日後、ゲームオーバーになった兄の
現実世界を含めた人生で初めての葬儀は、大勢の人たちが立って参列するほど集まった。
俺は地図アプリを起動して、優斗のスマホケースの中に挟んでいた紙に書かれた住所──秋葉原のイヤホン・ヘッドホン専門店『e☆イヤホン』へ向かった。
プレイヤーの優斗からの誕生日プレゼントは、「ハイブリッド型イヤホン」。
米国の熟練した職人がハンドメイドで丁寧に作った、人気オーディオブランドの最新モデルだった。
──ああ、弟さんですか! お兄さんのことは覚えてますよ。ここ最近、お店によく来てましたからね。
自宅でイヤホンを耳につけたとき、俺はアルバイトの女性の店員の言葉を思い出す。
人当たりがいい店員は、優斗が買いに来たときの様子を教えてくれた。
ビル2F分ある売り場の商品すべてを聴き比べしていたこと。
『今までの誕生日の中で、一番喜んでもらえるプレゼントを渡したい』と言っていたこと。
普段使いがどうなのかを確かめるために、いくつかのイヤホンを試し買いすることもあったそうだった。
俺は耳へシリコン製のイヤーピースを差し込む。
密着性の高い装着感でありながら、異物が入ったような不快感はなかった。
赤色のスマートフォンをつかみ、端末上部のイヤホンジャックにケーブル端子を挿入する。
いつも対プレイヤー用レーザーの銃口になっているからか、正しい用途で使われるイヤホンジャックに違和感を覚えた。
定額聴き放題の音楽アプリを起動して、
エレキギターの前奏が始まった瞬間、あまりにも迫力ある重低音に
ライブハウスの最前列で聴いているかのように、1つひとつの音が電気信号となって、全身の神経の隅々まで響きわたるのを感じる。
音ゲーをプレイしたときに意識しなかった、ベースの演奏がギターより目立って聴こえてくる。
日常的に音楽を聴く人であれば、間違いなく喜んでもらえるプレゼント。
俺の耳は特別に優れているわけではないのに、イヤホンの性能の高さを理解することができた。
優斗の心遣いが伝わってくる。
しかし、曲がサビに入る前に、俺はスマホ画面の停止ボタンを押した。
気づいたら親指が勝手に動いていた。
どうして途中で聴くのを止めたのか、自分のことなのにわからない。
耳からイヤホンを外すと、ちょうどリビングの扉が開く。
リクルートスーツの紙袋を手に提げた、NPCの優斗が自宅へ帰ってきた。
「おっ、格好いいイヤホンじゃん。
もしかしてアレか?
誕生日プレゼントにもらったのか?」
「……そうだよ、兄さん。
こんな高性能なイヤホン、なかなか手が出ないからね」
「ふーん、そっか。
友達か彼女かは知らないけど、周りにいい人がいるんだな。
お祝いの気持ちを言葉で済まさず、目に見える形で渡してくれるのは、結構ありがたいことだからさ」
NPCの優斗は穏やかな笑みを浮かべて、5人掛けのソファにスーツの紙袋を置く。
リビングと続き間の和室に入り、母親と父親の遺影を飾った
仏具の鈴をりん棒で鳴らして、目を閉じて手を合わせる。
妹の美桜のように、死んだ両親に話しかけることはないが、
ゲームオーバーになったプレイヤーは記憶を消されて、別人として生きてきた記憶に書き換えられる。
NPCに生まれ変わったプレイヤーは、この世界がゲームであることすら思い出せない。
昔の自分が用意した誕生日プレゼントを目の当たりにしても、記憶の
この現実を再現したゲームは、虚構の物語のような奇跡が起きないところも忠実に再現している。
俺は右手を耳に当てて、親指で耳の穴を塞いだ。
たったいま自宅でゲームオーバーになったプレイヤーはいないのに、誰かがスイッチを入れたような音が聞こえる気がした。
外したイヤホンのケーブルを巻いて、開封したギフトボックスの中へ戻す。
祈っている優斗の元へ歩み寄り、隣に座って
『Fake Earth』の世界において、NPCの優斗こそが「本物」だ。
プレイヤーの優斗はアバターに
本当の彼は顔も名前も異なる別人物だ。
だが、俺にとって、プレイヤーの優斗も「本物」だった。
家族と過ごす日常のために戦った男が「偽物」だとは思えなかった。
本当の彼が現実世界でどんな人物だったのかは関係ない。
この世界では家族思いの兄だったことは紛れもない事実なのだから。
隣にいる兄に向かって、誕生日プレゼントの贈り主のことを話したかった。
アルバイトの女性の店員から聞いた話をそのまま伝えたかった。
死ぬ間際で両親の安否を心配していたことも。
最期に思い残したことが弟への誕生日プレゼントだったことも、何もかも。
──ラピビ!
緊急停止した電車の中で、赤色のスマートフォンが振動する。
山手線の路線図がスマホ画面に表示されて、脱落したプレイヤーが代表していた駅に×印が付けられた。
運営から10分ごとに送られる定期連絡。
参加プレイヤーは残り10名。
山手線バトルロイヤルに関係ないギルドが乱入したことによって、生き残っていたプレイヤーの半数以上が一気に
俺はスマホ画面の左端を強めに押して、直前に使っていたLINEに切り替える。
先頭車両にいる彼女の方へ向かわず、反対方向の最後尾の車両の方へ進む。
NPCの乗客たちの間を通り抜けて、最後尾の車両の奥側に位置取りをする。
電車の混雑率は150%オーバー。
座席の前に立っている乗客が障害物となっており、素早く車両を移動することは難しい。
対戦相手へ無理やり近づくことはできるが、NPCの乗客の陰から奇襲を受けるリスクがある。
だが、明智は赤い糸のギアを使って、俺を電車の中へ引きずり込んだ。
緊急停止ボタンを押して、次の駅で逃げられないように閉じ込めた。
池袋駅のホームへ降りることもできたのに、彼女は自分自身も接近しにくいステージを選んでいる。
お互いに乗客の中に隠れやすく、どの車両にいるのかもわからない条件で戦おうとしている。
俺は親指をホームボタンに添えて、赤色のスマートフォンをポケットに突っ込んだ。
最後尾の車両にいる乗客の多くは
一部の乗客は虚空を見つめたまま、無表情でぼんやりしている。
何もしない彼らは死んだような目をしているのに、この電車内では一番人間らしい行動を取っているように見えた。
──負ければ人生すべての記憶が奪われるゲームで、勝算のない戦いを挑んでくるプレイヤーはいない。
──居場所のわからない相手に攻撃の仕様がない今、明智の作戦を完全に読み切らなければ、間違いなくバッドエンドに突入する。
俺は頭の中でリンゴの木を浮かべて、複数の枝が
大量に密集したフジツボのような胞子角。
天然痘の発疹が人体に広がった様子を
「遠隔攻撃系のギアでやられる姿」や「NPCの乗客に襲われる姿」などの未来を、腐敗している枝の先に実らせた。
分岐する敗北のルートを同時に観測して、それぞれの対策を並行して考える。
──飛んでくる斬撃。
──全車両を燃やす炎。
──絶対零度の息吹。
──空から降りそそぐ雷。
──左右から迫ってくる壁。
──天井まで浸水する泥水。
──通路を下から突き破る槍。
──広範囲を吹き飛ばす爆発。
──精神を壊す幻覚。
──無色無臭の毒ガス。
──時間経過で発動する呪い。
──電車内で吹き荒れる竜巻、etc.……。
これまでの明智の行動を振り返り、彼女のプロファイリングに合わない未来も切り離した。
仲間がビルから狙撃してくる未来を切り捨てる。
先頭車両からレーザー砲を放って、電車内の全乗客ごとを撃ち殺す未来も切り払う。
《小さな番犬》の吠える声が聞こえる中で、凛子を助けられなかったことを悔やみながら、ゲームオーバーになる最期。
様々なパターンの負け方があっても、負けた先に訪れる未来は共通している。
俺は神経を研ぎ澄ませて、腐敗している枝を連続で切り落とした。
想定したバッドエンドを回避する選択肢を見つけて、分岐するルートを収束させた。
未知の力を持つギアはあらゆる現象を起こしうるが、「相手が電車内を戦いの場に選んだこと」を考慮すれば、無限の可能性を有限に絞ることができる。
思いつくかぎりシミュレーションして、腐敗している127本の枝をすべて切り落とした。
だが、最後の枝を切ったとき、切った断面からアルコールのような悪臭が漂った。
腐敗は枝から幹へ侵食しており、剪定ばさみでは切りようがなかった。
幹の内側は
毒々しい色をしていて、ぐっちょりと濡れていて、ひび割れた樹皮をドロドロと伝っていった。
──実行不可能で排除した未来に、電車内だからこそ成し遂げられる余地があったことに気づく。
──どこか論理に破綻がないかを考えれば考えるほど、もっとも可能性の高い未来に思えてくる。
俺は耳を澄ませて、最後尾車両にいる乗客を見渡した。
頭の中でリンゴの木の幹に病斑がブツブツと出てくるイメージがよぎる。
もし明智が俺の予想しているギアを持っていたら、急いで「装備アイテム」を調達しなければいけない。
NPCの乗客の中に紛れようと、電車の屋根の上に避難しようと、絶対不可避の攻撃が襲ってくるのだから。
最後尾車両の乗客の中に、探している装備アイテムを身に着けている者はいなかった。
俺は身を縮こまらせて、通路に立つ乗客の間を強引に通り抜ける。
重たい車両間の扉の取っ手をつかみ、できるだけ素早く横に引いた。
10両目の車両に戻ったとき、車内放送のスイッチを入れる音がした。
微かな音なのに、耳にすっと入ってくる。
リンゴの木の樹皮が脳内で剥がれていく。
地面へボロボロと落ちていき、樹皮の下で黒ずんだ幹が露わになった。
縦に剥がれていく樹皮は、アルファベットを1文字ずつ型抜きしている。
環状の樹皮が最後に剥がれ落ちると、「Time's Up!」の文字が幹に記されていた。
『──安らかな終わりを、《
明智のギアを起動する声が、
──ベェアーロロロロロロロロ!
羊の群れの合唱みたいな歌声が、爆音に近い音量でスピーカーから流れてきた。
1匹たりとも音程の揃わない不協和音。
電車内の窓ガラスは振動して、小さなヒビがジグザグに入っていく。
弓形の手すりも電流が流れてそうなくらいに震えていた。
10両目の乗客たちは、羊の群れの合唱をぼんやり聴きつづけている。
突然の異音が鳴ったにもかかわらず、俯いていた顔を上げたくらいの変化しかなかった。
やがて彼らはまぶたを眠たげにこする。
大きな欠伸を漏らしていく。
頭が上下左右に揺れる。
青髭が生えかけたサラリーマンは瞬きの間隔がまばらになった。
座席で足を組んでいるOLは太ももに乗せたバッグを抱え込んだ。
空いている優先座席の前に立っていた女子学生は、吊り革を持った手に頭を押し付けた。
──数十本の指が吊り革から離れていく。
──数十本の足から力が抜けていく。
そして、通路に立っていた乗客たちはどさどさと倒れた。
まるで停電で一斉に機能しなくなったロボットのようだった。
全員が穏やかな顔をして、それぞれの胸を上下させている。
規則的に呼吸している姿は正常なのに、眠っている乗客がみんな規則的に呼吸している光景は不気味だった。
『№029:《迷える羊の子守歌》』
『羊さんのお歌を聴いたアバターを眠らせるギアです』
羊の群れの合唱が鳴り響く中、明智から新着メッセージが届いた。
「ウサギが布団で眠っているスタンプ」と「『Good Night~』とパンタが寝言でつぶやいているスタンプ」が続けて送られてくる。
俺は耳を塞ぎながら、親指でホームボタンを長押しした。
天井に設置されたスピーカーに狙いを定めて、対プレイヤー用レーザーを放つ。
ライトグリーン色のレーザー光線は命中して、壊れたスピーカーのフレームが落ちてきた。
だが、《迷える羊の子守歌》の催眠音波は音量が小さくなるだけだった。
車両の外側に取り付けたスピーカーから、羊の群れの合唱は窓ガラスの割れ目を通り抜けてくる。
電車内からは車両の外のスピーカーの位置が見えない。
対プレイヤー用レーザーで破壊したくても、どこに撃てばいいのかがわからなかった。
俺は歯を食いしばり、乗降用のドアに頭突きする。
激痛が走る中、息を思いきり吸って、全力でドアにもう一度頭突きした。
赤色のスマートフォンのマイクを耳に近づけて、《小さな番犬》の激しく吠える声をゼロ距離で聴く。
奥歯に力を込めて、噛んだ舌をちぎる覚悟で歯ぎしりした。
べつに頭をレーザー光線で撃たれたわけでもない。
心臓をナイフで刺されたわけでもない。
シアン色の血は1滴も流れず、骨も1本たりとも折れていない。
RPGに例えるなら、俺のHPは満タンに近い状態だ。
それなのに、対戦相手の顔を見ることもなく、戦いに負けそうになっている。
血塗れになったプレイヤーが倒れるように、俺は睡魔で意識を失いそうになっている。
明智が先頭車両から歩いてきて、寝ている俺にナイフでとどめを刺す姿が脳裏をよぎった。
シアン色の血が俺の胸から溢れて、誰かがスイッチを入れたような音が鳴る。
凛子との思い出が真っ白になっていく……。
頭の中に「コマンド」を表示して、嫌な想像が見えないように被せた。
俺は「しらべる」を選択し、近くにいる乗客の通勤バッグから「イヤホン」がないかを探した。
両耳をイヤーピースで塞ぎ、音楽アプリの曲を直に聴けば、羊の群れの合唱みたいな歌声を
音楽を聴きながら眠ったふりをすれば、明智が近づいたときに奇襲を仕掛けられる──唯一残された勝利のルートだ。
しかし、10両目の乗客の持ち物を漁っても、状態異常を防ぐアイテムはなかった。
9両目に進んでも、イヤホンを装備している乗客はいなかった。
そして、
普段は外出するときに持ち歩いているが、今日は自宅の部屋に置いたままだった。
山手線バトルロイヤルは、複数のプレイヤーとの連戦が想定されるイベント。
たとえ鞄の中にしまっていても、激しい戦いの最中にイヤホンが傷つく恐れがあったからだ。
プレイヤーの優斗の形見。
この世界で家族と過ごす日常を愛した、彼が生きていたことを示す贈り物。
大切に使いつづけたいものだからこそ、俺は戦いの場へ持ってくることができなかった。
まぶたがどんどん重たくなり、視界が徐々に狭くなっていく。
噛みしめた舌から血の味がする中、俺は《迷える羊の子守歌》の攻略法を考えつづけた。
鼓膜を破いたところで、爆音に近い羊の合唱は骨伝導で聴こえてくる。
明智のいる先頭車両へ向かうには、距離があまりにも遠すぎる。
俺は親指でホームボタンを長押しして、対プレイヤー用レーザーを脇腹に撃った。
すかさず脇腹の傷口にイヤホンジャックを当てて、死ぬ気でホームボタンを連打した。
ライトグリーン色の光弾を連射して、皮膚の内側をぐちゃぐちゃに傷つける。
強い痛みを感じれば、重たいまぶたは涙で少しだけ持ち上がる気がした。
震える親指をホームボタンの位置に戻して、光り輝くイヤホンジャックを鎖骨に当てる。
凛子の顔を思い浮かべて、ライトグリーン色のレーザー光線をもう一度放った。
それでも睡魔が脳をじわじわと
まだ傷口から血は流れているのに、痛みは麻酔を打ったように感じなくなった。
意識が
親指でホームボタンを押そうとしたが、赤色のスマートフォンはいつの間にか足元に落ちていた。
頭の中で浮かべたリンゴの木が薄くなっていく。
《小さな番犬》の激しく吠える声が聞こえなくなっていく。
俺は通路に膝をついて、うつ伏せに倒れた。
重たい瞼は閉じて、薄く開けることすらできない。
まぶたの裏には、凛子とゲームセンターで遊んだ思い出が浮かんでいる。
去りゆく彼女の背中に、俺は手を伸ばしたが届かない。
忘れ……たくない……。
意識が途切れた瞬間、「カチッ」とスイッチを入れるような音が聞こえた。
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