39話 ログイン2997日前

「カチッ」という音が聞こえて、おれは目が覚めた。

 その音は、誰かがスイッチを押したような音によく似ていた。


 後頭部がズキンと痛む。

 思わず手で触れると、包帯のざらついた感触があった。

 髪の生え際から眉毛の頂点まで、包帯の半分を重ねるように巻かれているらしい。

 指で包帯を縦になぞれば、綺麗な段になっているのがわかった。


 どうしておれは頭に怪我をしたのか。

 その原因の記憶がない。

 というよりも、

 性別も、名前も、いま顔にかけている眼鏡の形も。

 自分を知る手がかりとなる、記憶の欠片みたいなものも一切ない。


 ただ「包帯」や「怪我」などの言葉は知っている。

 どういう意味なのかも、なんとなくわかっている。

 いつどこで誰に教わったのかは覚えていない。

 思い出せそうなことなのに、頭の中は真っ白な空間が広がっているだけだった。


 おれ自身が体験したことの記憶がごっそりと抜け落ちている。

 ここがどこだかもわからなかった。

 身の回りにある掛け軸や観葉植物を見ても、何1つ思い出すことができない。


 目の前で正座している女の人が誰なのかも、心当たりがまったくなかった。



「──おはようございます。よく眠れたようですね」



 障子越しの柔らかい日光が差し込む和室で、正座した女の人はうつむき加減にすみっていた。

 棒状の形墨けいぼくをまっすぐ立てて、優しい手つきで円を描くように回している。

 すずりの丘に落とした水滴は、棒状の墨でかき回されるたびに薄く広がっていった。

 静かにこすれ合う音が鳴る中、棒状の固形墨の先から黒い糸がにじみ出て、透き通った水滴はゆっくりと染まっていく。


 やがて硯の丘から墨があふれて、くぼんだぼくにとろりと流れていく。


 その女の人は修道服を着ていた。

 紺色のベールを脱いで、袖口を肘の手前まで折り返していた。

 シスターと和室は変な組み合わせなのに、キリッとした座り方が様になっている。


 この人は何歳くらいだろう。

 10代後半にも見えるし、30歳を超えているようにも見えた。


 シスターは吐息を漏らして、硯の丘の墨をかき回す手を止めた。

 棒状の固形墨の先についた墨を、透けた和紙で綺麗に拭き取る。

 黒染みが内側になるように和紙を畳むと、俯いていた彼女はおれの顔を見た。



「私の前に座ってください。

 今日から『みかづき果樹園』で暮らすあなたに、【名前】を贈ります。

 あなたが人生で迷ったときの助けとなるように。

 人として大切にしてほしいことを、この名前で伝えます」



 シスターは新品の筆に触れて、穂先についたキャップを外した。

 のりで固まった穂を下ろして、小皿に注がれた水へ音も立てずにひたす。

 色白の指が濡れた穂先をつまんで、やんわりと指の腹で揉んだ。

 反対の手で筆の軸をじっくりと回して、太い穂の根元まで柔らかくほぐしていく。


 おれはシスターに歩み寄り、彼女の前に正座した。

 同じ姿勢で向かい合ってみると、シスターとは40cmくらいの身長差があった。


 おれはこの女の人に会ったことがない。

 少なくとも、そのような記憶はない。


 知らない女の人の指示に従う理由はないのに、どうしておれは近づいてしまったのかがわからない。


 シスターに目を見つめられて、よく通る声で話しかけられたとき、彼女の言うとおりにしなければいけないような気がした。



 濡れた穂の水気を和紙で吸い取り、シスターは磨り流した墨に穂先をすうっと入れる。

 筆を持った手を上から下に動かして、穂の根元まで墨をどっぷりと浸けた。

 真っ黒に染まった穂を硯の縁に擦りつけて、余分な墨を落とすとともに穂先を尖らせていく。


 おれとシスターの間には、半紙が書道用の下敷きに載せられている。


 シスターは筆を持ち上げて、真っ黒に染まった穂を半紙へ垂直に下ろした。

 斜め上に毛先が揃うように筆を入れて、右へまっすぐな線を引いた。

 続けて「一」の字の下に短い斜めの線を縦に書く。

 筆は全部で16回振られて、「頼」という漢字が記された。


 シスターは半紙の余白に目を向けて、り流した墨に穂をつけ直す。

 硯の縁で穂先を整えて、縦の線を「頼」の字の下に長く引いた。

 2画目は1画目と同じ場所を起点にして、3画目は1画目の途中から書き始められる。

 筆は全部で7回振られて、右手には「助」という漢字が記された。



「『頼る』と『助ける』。

 この2文字をつなげて『頼助らいすけ』と読みます。

 誰かに頼られて、助ける人になってほしい。

 そのような願いを込めてつけさせてもらいました。

 頼られるようになりなさい。

 そして、助けられるようになりなさい。

──名前の順番のとおり、まずは頼られることが大事ですよ、頼助」



 筆を硯に置いたシスターは両手を膝の上に重ねる。

 静かな口調で語りかけながら、おれの目をまっすぐ見つめていた。

 綺麗な二重の線が目頭から目尻まで描かれている。

 亜麻あま色の髪は、1本1本を丁寧に手入れしているようなツヤがあった。


 おれは新しい自分の名前をつぶやく。

 ここで目が覚めるまで、どんな名前で生きていたのかは覚えていなかった。

 一文字たりとも思い出せない。

 そもそも日本人だったのかさえわからなかった。


 ふとさいなことが急に気になり始める。

 ほかに考えるべきことは色々あるのに、この「疑問」は頭にまとわりついて離れなかった。


──どうして「人に頼られること」が「人を助けること」より大事なのか?

──困っている人を見かけたら、その人に頼られなくても、助けることが当たり前ではないのか?


 半紙に書かれた字を何度見ても、おれは「頼助」の名前に込められた真意を理解することができなかった。




「……今はもう知ってるだろ。

──頼られないと、助けることはできないんだって」




 俺は左手を胸に当てて、いま【昔の出来事を追体験する夢】を見ていることに気づく。

 心臓を指でガリガリと引っかれるような感覚を覚えた。


 当時、シスターに名前の順番の理由を尋ねなかったことを思い出す。

 とても大事なことのように思えて、シスターに訊いてはいけない気がしたのだった。


 このときの選択が正しかったのかは、今でもわからない。

 人生で何が正しかったかなんて、きっと死ぬ瞬間になってもわからないことだろう。


 なぜシスターは「人に頼られること」を「人を助けること」より重んじたのか。


 高校1年生の夏の終わり、俺はその答えに自ずと辿りつくことになった。



──ブムウゥゥゥ……。



 夢の中にいることを自覚しても、夢が終わるようにコントロールすることはできない。


 障子から差し込んでいた日光が消えて、照明の点いていない和室は真っ暗になった。

 いつの間にかシスターは目の前からいなくなっていた。

 筆を置いた硯も清書された半紙も畳の上にはない。


 次の瞬間、障子の和紙がまぶしく光り輝いて、みかづき果樹園で暮らした思い出が映し出された。

 スマートフォンのカメラロールのように、記憶の場面が障子の1マスごとに投影されている。

 親友のまもるや主治医のおじさんなど、懐かしい人たちの顔が何枚もあった。


 障子の1マスごとに映った思い出は、次の思い出へ瞬く間に早変わりしていく。

 時の流れとともに成長しているのか、幼い姿だった俺の目線の位置が少しずつ高くなっていった。

 思い出の風景は、山のふもとから都会のビル街へ変わっていく。

 真っ赤なキャップが似合う女の子が、障子の組子で区切られたマスを埋め尽くしていく。



 だが、凛子との思い出が障子全面に揃ったとき、左端の一番上にあるマスの和紙が音を立てて破けた。

 拳大の穴が空いて、破けた和紙は組子から畳へがれ落ちた。

 頭の中で「カチッ」という音が聞こえて、記憶を映した和紙は真っ新な状態へ戻る。

 その和紙に映っていたものが何だったのか、俺はたった1秒前のことを思い出すことができなくなった。


 後頭部が軽くなったのを感じる。

 凛子と一緒に遊んだ記憶の中から、何かが消えてしまった喪失感に駆られた。

「忘れてしまった」という感覚はあるのに、いつの記憶を忘れてしまったのかがわからない。

 必死に思い出そうとしても、記憶のざんすら取り戻すことができなかった。


 障子の和紙が1マスずつ破けていく。

 破けた和紙が畳に落ちるたび、頭の中で「カチッ」という音が鳴った。

 1つ、また1つと、凛子との思い出が失われていくことがわかる。

 具体的に失ったエピソード記憶が何かわからないまま、喪失感だけが胸の内で大きくなっていく。


 これは夢──現実ではない、最後に覚めてしまう夢。

 いま記憶を消される感覚が生々しくても、この喪失感は本物によく似たフェイクでしかない。

 夢から起きてしまえば、夢で起きたことはなかったことになる。

 悪夢に恐怖を感じる必要はない。



 しかし、俺はあることに思い至り、体が強張るのを感じた。

 

「昔の出来事を追体験した後、その人の大事にしている記憶から消去していくこと」が、NPCに生まれ変わる手続きである可能性を否定することはできない。


 死んだ人間がどうなるかがわからないように、ゲームオーバーになったプレイヤーがどんなふうに記憶を消されるのかはわからなかった。



 障子の和紙はボロボロになり、ほとんどのマスが穴だらけになっている。

 ●●との思い出を投影したマスは、あと1つしか残されていなかった。

 ゲームセンターで一緒に遊んだ日々を思い出そうとしても、頭に浮かぶアーケード筐体の画面にはモザイクがかかっている。

 ●●がどんな顔をしているのかも思い出せず、●●の性別や年齢までも記憶から抜け落ちていた。


 そして、最後のマスの和紙が破けた。

 障子の組子から剥がれ落ちて、畳に散らばっている和紙の上に積み重なる。


 頭の中で「カチッ」という音が鳴った。


 ●●との出会いの記憶を映した和紙は、隅から隅まで漂白された状態に戻る。



「……あぁ……あ……」



 俺は両手で耳を塞いで、これが夢であることを願った。

 あの「カチッ」という音を、もう二度と聞きたくなかった。

 たったいま心から大切にしていた何かを忘れたのに、それが何だったのかが思い出せなくなってしまう。

 自分が自分でなくなるようで、いっそのことひと思いに殺されたほうがマシだと思った。


 けれども「カチッ」という音は鳴り止まなかった。

 それどころか音が鳴る間隔は短くなり、やがて頭の中で絶え間なく鳴りつづけた。



 カチッ、カチッ、カチッ、カチッ……。

 障子のすべてのマスが、新しい和紙に自動で張り替えられていく。


 カチッ、カチッ、カチッ、カチッ……。

 スマートフォンのカメラロールのように、記憶の場面が障子の1マスごとに投影される。



 目の前にある思い出の数々は、俺にとって何ひとつ身に覚えがない。

 

 知らない人の青春の日々が並べられている。



 これからアーカイブ社が作った記憶を脳に組み込まれる可能性に気づいたとき、「カチッ」という音が最後に聞こえた。




        ○




 いけぶくろ大塚おおつか間の線路で、山手線外回りの電車は緊急停止している。


《迷える羊の子守歌》を解除して、池袋駅代表のあけさいは車内放送のスイッチを切った。

 携帯オーディオプレイヤーで聴いていた曲を一時停止して、彼女は頭に装着していたワイヤレスヘッドホンを首にかける。

 先頭車両から最後尾の車両まで、ほかの乗客たちはみんな安らかな顔で眠っていた。


 明智彩花は乗務員室を出て、先頭車両から前の車両へ歩いていく。

 寝ている乗客を越えて、渋谷駅代表のあそれきの元へ向かっていった。

 車両間の扉が次々と開けられていき、2人のプレイヤーの距離は縮まっていく。


《小さな番犬》は激しく吠えつづけて、遊津暦斗に危険が迫っていることを呼びかけていた。

 通路に転がったスマートフォンを震わせて、スマホ画面に乗った彼の手を揺らしている。

 明智彩花が前の車両に進むたび、ホーム画面にいる番犬の吠える声は大きくなった。

 赤色のスマートフォンの振動も強くなる。



 しかし、遊津暦斗は目を覚まさない。

《迷える羊の子守歌》の催眠音波によって、深い眠りに引きずり込まれていた。


《小さな番犬》はログインボーナスで3人に1人のプレイヤーが引き当てるギア。


 これまで明智彩花は様々なプレイヤーと戦う中で、《小さな番犬》がどれほど激しく吠えようと、《迷える羊の子守歌》で眠らせたプレイヤーが一定時間起きないことは検証していた。



「……結局みんな寝落ちか」



 明智彩花は7両目で足を止める。

 遠く聞こえる《小さな番犬》の吠え声を耳にしながら、彼女は9両目で倒れている遊津暦斗を目視した。

 親指でホームボタンを長押しして、対プレイヤー用レーザーを起動する。

 かつに近づくことはリスクがあるため、遠距離から静かに仕留めることを選択した。


 両手でスマートフォンを持ち、光り輝くイヤホンジャックを遊津暦斗に向ける。

 瞬きするのを止めて、親指をホームボタンから離した。


 端末上部のイヤホンジャックから、対プレイヤー用レーザーが放たれた。

 緋色のレーザー光線は車両間の扉を貫通して、8両目の寝ている乗客の頭上を駆け抜けた。

 8両目と9両目の間にある扉に風穴を開けて、斜め下に撃たれたレーザー光線は高度を下げていく。


 そして、いろのレーザー光線は遊津暦斗の頭部に命中した。



──ケル!? ケルベロ! ケルベロ! ケルルケルベロ!



《小さな番犬》は悲鳴を上げるように吠えた。

 レーザー光線が遊津暦斗の右側頭部をえぐった瞬間、遊津暦斗の頭がのけ反って、シアン色の血が勢いよく噴き出した。

 顔からスクエア型眼鏡が外れて、左目のレンズに血が降りかかった。

 アッシュグレーの髪の一部が青く染まり、毛先から血の滴がぽつぽつと垂れていた。


 明智彩花は表情を変えず、2発目の対プレイヤー用レーザーを撃った。

 長めに溜めたレーザー光線に被弾して、遊津暦斗の左側頭部は爆ぜるように破壊された。

 潰れた脳がえぐられた頭皮から丸見えになる。

 血塗れになった耳は上半分が欠けていた。


 明智彩花は3発目の対プレイヤー用レーザーを続けて放つ。

 4発目、5発目、6発目と連続で発射した。

《小さな番犬》は必死に吠えつづけていたが、7発目のレーザー光線にスマートフォンを撃ち抜かれて、吠えていた声はプツンと途切れる。

 遊津暦斗の頭部はグチャグチャになり、原形をとどめていない肉片となっていた。



 しかし、姿

 致命傷のダメージは与えたはずだ。

 それなのに、遊津暦斗のアバターはNPCに生まれ変わる気配がなかった。


「カチッ」という音は鳴らず、流れた血が傷口へ逆流することもない。

 6発の対プレイヤー用レーザーを頭に撃たれているのに、まだプレイヤーとして生きている。


 明智彩花はスマホ筐体のサイドボタンを押して、対プレイヤー用ナイフに切り替えた。

 緋色の光の刃を振り下ろして、自分の手の甲へ突き刺した。

 手の甲の皮膚を破いて、手のひらからナイフの先端が飛び出す。

 シアン色の血が傷口からあふれても、彼女は刺された痛みをまったく感じなかった。



──現実世界を再現したゲームで、非現実なことは起きない。

──もし非現実なことが起きたなら、考えられる可能性は1つしかない。



 現実世界と区別しにくい幻覚の世界へ、いつの間にか引きずり込まれている。


 明智彩花はため息をつき、いま「夢」を見ていることに気づいた。



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