26話 最初の人生
これは主人公の兄・優斗がゲームに参加する前の物語である。
【ゲーム世界 :『Fake Earth』】
プレイヤー名=遊津優斗(Asodu Yūto)
【現実世界】
戸籍名=リー・ケンスイ(Lee Kensui)
俺が10歳の誕生日を迎えた日、母はケーキを飾るキャンドルの炎を見つめながら、「ケンスイ、あなたはお医者さんになりなさい」と自分の手を俺の手に重ねた。
「それがお前にとって、一番堅実で幸せになれる道なんだよ」と父は優しい声で続けた。
燃えている5本のキャンドルはアルファベットの形をしていて、左からH、A、P、P、Yの順番で並んでいた。
黄色い蝋が溶け始めて、真っ白な生クリームに垂れそうになっている。
俺は小さくうなずいて、キャンドルの炎に息を吹きかけた。
そのとき「将来の夢」なんて持っていなかった。
同級生は、「プロの陸上選手になりたい」だとか「ドッキリ系Youtubeの脚本を書く人になりたい」だとか、色々あるみたいだったけど、俺には「どうしてもこれをやりたい」というものはなかった。
──親がそう言うなら、医者もいいかなと思った。
──やるべきことを決めてくれたことは、逆にありがたかった。
満天の星が間近に見える、タワーマンションの最上階の部屋で。
ほのかな灯りが消えると、父と母は静かに拍手した。
翌日から俺は「毎日2時間」家で勉強するように言いつけられた。
「毎日2時間以上」ではなく、学校が休みで1日時間がある日でも、勉強は2時間ぴったりで終わることを求められた。
俺が住んでいた国はシンガポール。
アジアの中でトップレベルの教育先進国。
政府は『ストリーミング制』を導入して、子どもの進学先は卒業試験の成績で決められた。
初等学校の成績が良くなければ、その時点で大学を受けられなくなり、将来は専門学校に行くことを定められる。
子どもの人生を左右する試験として、どの家も勉強には口うるさくなっていた。
それなのに、父と母は砂時計を逆さに回して、家での勉強時間は2時間ぴったりにこだわった。
各教科の参考書は書店で一番薄い物を買い、俺がつまずいた問題は自分たちで教えた。
人より裕福な暮らしを送っているのに、家庭教師を雇うことはなかった。
学校でも授業を受ける以外に勉強することは禁止された。
「86点を目指す気でやりなさい。本番のテストでそれだけ取れれば、満点を取った人と同じ学校に行けるから。
勉強で一番になる価値はみんなが思ってるほどない。一番になりたい人は自分に自信がないから、一番になって安心したいだけ」
「時間をかければ、何でもうまくいくわけじゃないんだよ、ケンスイ。むしろ必要以上に時間をかけてしまったことで、うまくいかなくなることもあるんだ。
人は時間をかけた分だけ、結果を期待してしまうからね。
──だから、短時間で、効率良くやって、ほどほどの成果を出す。これが本当に頭のいい確実なやり方なんだ」
学校の先生が言いそうにないことを、父と母は口癖のように繰り返した。
そして、俺が家で2時間の勉強を済ませると、「好きにしなさい。もし私たちにしてほしいことがあるなら、遠慮しないで言いなさい」と穏やかに言われた。
1人でテレビをぼうっと見ていても、2人はそばにいるだけで何も言わなかった。
「テニスをしたい」と言ったら、父は潮風の吹くコートで練習相手になってくれた。
「ドライブに行きたい」と言ったら、母は市街地のサーキット場をフェラーリで爆走してくれた。
「なんとなく変わった体験をしたい」と言ったら、15階建てのビルがスーパーカーの自動販売機になっている建物に連れて行かれて、飲み物感覚でポルシェを買うところを見せてくれた。
──塾に通って猛勉強している友達と比べて、こんな勉強の仕方でいいのか。
毎日2時間勉強することは、「ラク」とは言えなかったが、これで友達たちと同じ学校に行けるのかは、正直、疑問に思った。
それなりの点数を取るために、みんな勉強を頑張っているのではないかと思った。
それでも父と母は今日やるカリキュラムを指定して、2時間を計る砂時計を引っくり返すだけだった。
結局、初等学校の卒業試験を受けたとき、俺は各教科86点前後を取ることができた。
日常で見慣れた点数が、本番でも変わらず返ってきた。
学年1位の優等生が本番で失敗する悲劇もなければ、落ちこぼれが高得点を獲得する逆転劇もない。
夜遅くまで自習室で友達と勉強したドラマも、試験前に長い間教わった先生から激励のコメントをもらうこともなく、塾に通い詰めていたクラスメイトより少し悪い成績で、俺は同じ成績上位の学校に進学することが決まった。
「おめでとう、ケンスイ。この調子で頑張りなさい」
「おめでとう。これで医者に一歩近づいたな」
毎日家で2時間勉強するルールは、初等学校を卒業してからも続いた。
シンガポール国立大学医学部に入学するためには、中高の卒業試験でも上位の成績を取らなければいけないからだ。
俺は父と母から部活も恋愛も禁止されなかった。
父と母は学校で困ったことや欲しいものがないかを聞くだけで、それ以上のことは何も干渉してこなかった。
普通よりも恵まれた学校生活を送っている。
真夏の太陽の陽射しが差し込む教室で、冷房の風を浴びながら、俺はふとそんなことを思った。
中等学校へ1月に進学してから、勉強は上の下くらいの成績をキープしていた。
水泳部では将来伸びそうな新入生として期待されて、クラスで3番目に可愛いと言われている女の子と付き合っている。
同級生の大半が親との喧嘩が増える中、父と母とは良好な関係を変わらず保っている。
「お前みたいに何でもそつなくこなせたらな」と部活仲間に自虐気味に言われたこともあった。
しかし、俺は学校があまり楽しくなかった。
人生は間違いなく順調で、同級生が欲しがりそうなモノは持っているのに、毎日がなんとなく退屈だった。
いったい何を不満に思っているのか、自分でもよくわからなかった。
父と母に相談しても、「思春期はそういうものだから悩む必要はない」と何でもないように返されただけだった。
学年14位の成績で卒業試験をパスして、トップレベルの高等学校に環境が変わっても、心がどこか物足りない感じは消えなかった。
代わり映えのない毎日が繰り返されていく。
陸上のトラックを延々と周回しているような気分だった。
毎日2時間の勉強が終わった後、俺は自宅のベッドに寝転がって、コミュニケーションアプリで友達や恋人と他愛のないやり取りをした。
常に何かをやっておかないと、暇に押し潰されそうで怖かった。
──眠たくなるまで、気を紛らわせるなら何でもいい。
俺がスマホゲームを始めたのは、学校のみんなと話を合わせるためだった。
同じキャラをなぞって消して、時間切れになるまで高得点を目指す、定番のパズル系のアプリ。
連続でキャラを消せば、制限時間は延びて、一度に稼げる得点も多くなるシステムらしい。
総ダウンロード数が1億を超えており、自己ベストのスコアが世界で何番目なのかをランキング形式で表示していた。
最初にプレイした感想は「ハマりそうにない感じがちょうどいい」だった。
学校の授業や2時間の自宅学習に支障が出る中毒性はまったく感じなかった。
止めたいときにいつでも止められた。
プレイ開始から1週間経っても、引きずることなく終わることができた。
ところが、俺は3か月経っても、毎日同じゲームをプレイしていた。
家で2時間勉強するように、通学のタクシーに送迎されているときや埋め込み型の信号を待つ合間に遊んで、1日1時間だけプレイした。
クラスメイトは1か月もしないうちに遊ばなくなり、今はYoutubeの好きな動画の話で盛り上がっていた。
スマホゲームは手軽に遊べる分、やり込みすぎるあまり飽きるのが早い。
陰でこっそり遊んでいる人がいることを期待したが、みんなアンインストールしたのか、クラスメイトの名前はランキングから消えていた。
どうして俺は何の変哲もないスマホゲームを続けているのだろうか。
両手でスマートフォンを持って、左右の親指を速く動かす。
水兵帽子を被ったアヒルのキャラは、一度になぞり終えた瞬間に輝きながら弾けた。
可愛いリボンをつけたネズミのキャラが降ってきて、色んなキャラが集まっている山の上に積もる。
俺は同じキャラが画面の真ん中にいるのを思い出しながら、別のキャラが並んでいるところをなぞって消す。
このゲームのコツは、「どこを消すか」ではなく「どこを消さないか」を判断すること。
目についたものを順番になぞるのではなく、それぞれのキャラが固まるように全体像を作り上げること。
視野を広く持つことを意識すれば、画面の隅から隅まで目が届く。
なぞって消せるキャラが複数あっても、指を迷わせずに滑らせることができる。
べつに俺にとって、パズル系のスマホゲームは生きがいではなかった。
今の自分を10年後に振り返ったら、なぜあんなものにハマっていたのか、きっと苦笑いを浮かべる自信があった。
俺は一息ついて、世界ランキングを上にスクロールする。
パズル系のスマホゲームを始めてから1年と4か月と22日、ランキングの1位の座には俺のハンドルネームが表示されていた。
──毎日家で2時間勉強している合間に、世界で一番になったことを教えたら、父と母はどんな反応をするのだろう?
俺は自分の部屋を出て、両親の寝室へ向かった。
なぜか姿勢を正して、早足になっていた。
必要もなくドアをノックした。
2人の顔を見たとき、何から話せばいいのか、頭の中を色んな言葉がぐるぐると回りはじめた。
「おめでとう、ケンスイ。そういう才能があなたにあったのね」
「おめでとう。本当に凄いことだと思うよ。何かで世界一になるなんて、そう簡単にできることじゃない」
初めて見るだろうゲームのことでも、父と母は俺の記録を褒めてくれた。
ゲーム名を調べて、プレイ人口の多さや頭の体操になるアプリであることを知ってくれた。
「ゲームの1位が何の役に立つのか」なんて否定的なことは言わなかった。
しかし、2人の反応は、俺がテストでいい点を取ったときと変わらなかった。
親子の会話のキャッチボールは1分も経たないうちに終わった。
表面上は喜んでいても、心の奥底では関心をあまり示さない。
父と母はスマホゲームをプレイすることも、俺がプレイするところを見たいとせがむこともなかった。
俺は両親の寝室を出て行き、自分の部屋の学習椅子に座る。
今日はまだ30分しかプレイしていなかったが、あらためてプレイする気にはならなかった。
親指でパズル系のゲームアプリのアイコンを長押しする。
ホーム画面中のアイコンがカタカタと震えはじめる。
ただのプログラムなのに、生命を感じさせる震え方。
アイコンの左上の×印を触り、「削除」と書かれた文字を選択すると、パズル系のゲームアプリは一瞬で消えてなくなった。
世界で一番になった5分後に、俺はそのゲームから引退した。
アプリを再インストールすることは二度となかった。
毎日変わらず続いたのは、親に課された2時間の勉強だけだった。
削除したゲームアプリを開発した企業の男がやってきたのは、何でもない休日の昼下がりだった。
「はじめまして、リー・ケンスイくん。僕はアーカイブ社ゲーム事業部スカウト係のオッド・ストーン。
──『Fake Earth』のプレイヤーとして、優秀な頭脳を持つ君をスカウトしにきた」
インターホン画面に映ったオッドは、流暢なマレー語で自己紹介した。
20代前半くらいの外見で、緩いパーマをかけたマッシュヘアが似合う男だった。
ストライプ柄のスーツの内ポケットから、シアン色のスマートフォンを取りだす。
待ち受け画面には「俺がゲームで5分だけ世界一だったスコアのランキング」が設定されていた。
全世界の経済に影響を与える企業が、メイン事業ではないゲームアプリの1ユーザーの元へ会いに来る。
俺がゲームで好成績を収めたことを考慮しても、怪しい話であることは間違いない。
しかし、俺はエントランスのロックを解除して、この初対面の男を自宅のラウンジに案内した。
いつもと違う出来事に惹かれるものを感じた。
運がいいのか悪いのか、それともオッドがタイミングを見計らったのか、父と母はショッピングで家を不在にしていた。
地球のロゴの入った名刺を渡すと、オッドはラウンジチェアに座り、『Fake Earth』の説明を始めた。
とは言っても、彼が教えてくれたのは、たった3つの情報だけだった。
──ゲームの世界に入り込むフルダイブ型のVRゲームであること。
──高額な賞金やアーカイブ社のブラックカードがクリア報酬であること。
──そしてゲームオーバーになれば、死と同等のペナルティーがあること。
どれくらいのプレイヤーが参加しているのか、ゲームのジャンルは何なのか、それ以上のことは何ひとつ説明しなかった。
「この話は断ってくれても構わないよ。君にとって、このゲームに参加するメリットはほとんどないからね。
このまま医者になれば、クリア報酬の賞金くらい楽に稼げる。ブラックカードを手にしたところで、より裕福な暮らしが送れるだけでしかない。
『選ばれた人しかできないゲームをプレイできる』、ただそれを魅力的に思うかどうかだ」
オッドは俺の目を見つめる。
飄々とした口調とは裏腹に、真剣な眼差しを向けていた。
俺はオッドから目を逸らさず、長テーブルの陰に隠れた手を握りしめる。
アーカイブ社の誘いを断ることを決めた。
今年は高等学校の卒業試験がある。
シンガポール国立大学医学部への進学がかかった最終試験。
医者になるために、父と母の期待を背負って、毎日勉強を8年以上欠かすことなく続けてきた。
将来が約束された人生。
先行きが見えない時代で、安定した道を選ぶのは正しい選択だ。
敷かれたレールを歩きつづけることは、一握りの人しかできない。
ここまで積み上げてきたものを台無しにしてはいけない。
「──『Fake Earth』に参加します」
だが、俺は一言一句はっきりした声でそう言ったとき、胸の奥がスカッとするのを感じた。
「了解」とオッドが短く返事すると、宛先のないメッセージが俺のスマートフォンに届いた。
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