10話 本物とフェイクの境界線
無数の雨粒が垂直に落下していた。
地面に勢いよく叩きつけられる雨の音は、ありとあらゆる音をかき消していた。
通行人の話し声も、青信号の誘導音も、濡れた道路を走るタクシーの音も、何もかも。
水色の傘の下、俺たちの頭上で、雨粒の弾かれる音が響きわたる。
紫藤はため息をつき、スーツの襟に付けていた「地球」のロゴバッジを外した。
「あ~あ、チュートリアルの演技、けっこう練習したんだけどな~。そう簡単に騙されてくれるわけないか。社員証も本物は誰も知らないだろうし、それっぽく偽造すればいけると思ったけど、いきなり話しかけてくる人って普通に怪しいもんね」
地球のロゴバッジを放り捨てた直後、紫藤は急に真顔に変わった。
切れ長の目は据わっていた。
喉元に刃物を突き付けるような殺気を漂わせている。
華奢な手は手帳型のスマートフォンを握っていた。
「……すみません、紫藤さん。1つだけ質問してもいいですか?」
「えっ、自分でチュートリアルを終わらせといて、まだ質問するの? これから戦う相手に何を訊くつもり?」
「あなたが俺にチュートリアルをした理由です。正直言って、俺のコインを奪いたいなら、演技で騙すより、《対プレイヤー用ナイフ》で刺し殺したほうが手っ取り早かったですよね?」
俺はスクエア型眼鏡をかけ直し、紫藤と出会ったときのことを思い出す。
NPCかプレイヤーかを見分けられない通行人たちに戸惑い、雨の中で傘も差さずに動けなかった俺。
後ろからこっそり近づいて、俺の首をナイフでグサリと突き刺す隙は十分にあったはずだった。
「なんだ、そういうことか。君ならちょっと考えればわかることだよ。
『Fake Earth』は他プレイヤーのスマホ画面の下に埋め込まれてるコインを手に入れないとクリアできないルール。もし君がスマホをどこかに隠してたら、ナイフで刺し殺しても、スマホを探すのに手間取って目立っちゃうでしょ?」
紫藤はスマートフォンの角でこめかみをトントンと叩いた。
俺の質問に答えるときの態度は、チュートリアルの演技をしていた頃と変わらなかった。
制服のポケットに入れた「ギンガムチェックのハンカチ」からひんやりと冷たい感触が伝わる。
チュートリアルが始まるとき、紫藤がくれた状態異常を防ぐアイテム。
これで髪や首についた水滴を拭ったおかげか、いま俺は雨に濡れていたときの寒気を感じなかった。
――さて、次は《対プレイヤー用ナイフ》を使ってみよっか。
――ゲーム開始時から使えるギアの1つ。
――そして、このギアにはなんと、初心者がより簡単に使えるように、『ホームボタンの長押しで起動できる』ショートカット機能があります!
紫藤のチュートリアルはフェイクだ。
その正体はプレイヤーで、俺のコインを奪うことを目的としている。
俺にとって、「敵」であることは間違いない。
しかし、プレイ前に詳細は明かされなかった『ギア』について、紫藤は簡潔にわかりやすく説明してくれた。
身振り手振りを交えたり、実際にスマートフォンの画面を見せたりして、初心者でも理解できるように説明の仕方を工夫していた。
そして、紫藤はギアを説明するとき、嘘をついたようには見えなかった。
おそらく彼女は俺にチュートリアルだと信じ込ませるために、実際のギアの設定を偽りなく教えてくれたのだろう。
もし偽物のチュートリアルであったとしても、プレイヤーに説明したことが正しいのなら、その人は本物のチュートリアルと変わらないのではないだろうか?
何をもって「フェイク」と判断し、何をもって「本物」と判断するのか。
頭の中で浮かんだ疑問に、俺は答えを出すことができなかった。
「ねえレキトくん、私のこと勘違いしてたでしょ? 私がチュートリアルをしたのは、『ゲームを始めたばかりの君を狙うことに罪悪感があったから』とかさ。
だから、最初から正体を見破ってても、君は演技中の私を攻撃できなかった。人生を賭けたゲームなのに、戦う相手に甘さを捨てることができなかった」
紫藤はくすっと笑った。
傘を持つ彼女の手は笑ったときの振動で震えて、水色の傘に貼りついていた雨粒がパラパラと落ちた。
雨水が数ミリほど溜まった地面に、一斉に落ちた雨粒の描いた波紋が重なり合う。
重なり合った波紋は一瞬で消える。
「……違いますよ。俺があなたを途中で攻撃しなかったのは、正々堂々と戦いたかったからです。その、何ていうか、良心が痛んだとか、そういう理由じゃありません」
「はあ、素晴らしいフェアプレイ精神ね。君がチュートリアル中に不意打ちしてれば、私を倒せたかもしれないのに」
「そんなことはわかってますよ。『相手が戦う前に、戦いを終わらせる』、不意打ちが立派な戦法の1つであることは理解してます。
けど、あなたをそれで倒したところで、その場しのぎにしかなりません。明日生き残るためにも、このゲームを終わらせるためにも、俺は強くならなければいけないんです」
『Fake Earth』に参加している20万人以上のプレイヤーたち。
彼らの中には大所帯のギルドの頂点に立つ者もいれば、1人で何年もプレイしつづけてる猛者もいるだろう。
そして、この世界の管理者である「ゲームマスター」。
全プレイヤーが倒せていないラスボスは、並大抵の強さでは絶対に勝てないはずだ。
「だから、俺は演技中のあなたを攻撃しませんでした。今ここで『戦いの経験値』を稼ぐために。万全の状態のあなたを倒してこそ勝つ意味があるんですよ、紫藤さん」
俺は学ランの胸ポケットからスマートフォンを取りだした。
濡れた手から滑り落とさないように、赤色のスマートフォンを握りしめた。
雨の勢いが増していく。
地面を叩く雨粒の音がうるさくなる。
水色の傘を持ち上げた紫藤は俺に半歩近づいた。
「ふーん、君、私に勝つ気でいるんだ。プレイ時間15分くらいの初心者のくせに、ちょっと生意気じゃない 」
「格上の相手であることは十分にわかってますよ。ただ、勝てる可能性はそんなに低くないとも思っています。本当に強いプレイヤーは、チュートリアルの演技なんてしませんからね。
――あなたが初心者のコインを狙うのは、初心者以外のプレイヤーに勝てないからでしょう?」
俺は紫藤に微笑みかけ、星印のついたエナメルバッグを肩から下ろす。
紫藤も口元に笑みを浮かべて、ハイヒールの踵をコツンと鳴らした。
東京駅の前、水色の傘の下で、俺たちはお互いの目を見つめる。
半径1メートルにも満たない空間、どちらの攻撃も確実に当たる間合い。
水色の傘の露先に溜まった雨が水滴となり、やがて足元の水たまりにポツンと落ちた。
――シュパァァン!!
紫藤は右足を素早く浮かせて、俺の足を狙って踏み下ろした。
尖った踵がVANSのスニーカーへ一気に迫った。
俺は全速力で後ろに跳んで、紫藤のハイヒールを間一髪で避けた。
尖った踵は水たまりに衝突して、勢いよく水しぶきが飛び散った。
視線と視線がぶつかり合う。
濡れた地面に降りそそぐ雨粒が、大小さまざまな波紋を描いていく。
俺は片手をポケットに突っ込んで、ライムミント味のフリスクケースを引っぱり出す。
口の中にフリスクを1粒放り込んで、奥歯でガリッと噛み砕く。
――目の前の女性型アバターは「紫藤ライ」。
――この世界で最初にエンカウントしたプレイヤーだ。
激しい雨音が戦闘のBGMとして鳴っている。
緊張からか、それとも高揚感からか、アバターの心臓が高鳴るのを感じる。
そして、頭の中で「コマンド」が表示される。
▼たたかう
▼にげる
▼ぼうぎょ
▼どうぐ
俺は「たたかう」を選び、紫藤に向かってエナメルバッグを振り上げた。
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