6 つながり

「かなちゃん?」

 美術室の前で声をかけられて、おもわず立ちすくんだ。後ろからかけ寄ってきた足音は軽やかで、声も弾んでいる。そんな彼女を見るのは初めてだった。

「まーちゃん。」

 振り向いて、教えられた通りにあだ名で呼ぶ。思った以上の違和感。

 ぼくと向かい合った佐倉さんは見たこともないような笑顔で、「久しぶりだねえ。」とこちらの肩を叩いてくる。

「学校来られるようになったんだね。よかった。」

 かなえは、前に登校したときに佐倉さんに会わなかったんだろうか。スマホで連絡すればすぐだろうけど、クラスが違って部活に顔を出していなかったら、実際そんなものだろうか。

 ぼくは、にこにこしている佐倉さんに向かって頭を下げた。腰を折るように、深々と。

「……ごめんね、まーちゃん。」

 ぼくの言葉に、佐倉さんが息をのむ。

 もちろん、佐倉さんのことを『影』に任せて、自分のことばかり考えていた遠夜由羽からの謝罪は伝わらない。けれど、これだけはどうしても言いたかった。

 たとえかなえからの言葉としておかしいものだったとしても。

「……かなちゃん。」

 さっきより低い声が聞こえた。

 ばれた、と思ってるな。

「ずっと学校来なくて、ごめん。」

 佐倉さんが何か言う前にもう一度頭を下げる。こうすれば、いじめに気がついているようには見えないはずだ。

 思った通り、佐倉さんはあわてたように手を振った。

「……い、いいのいいの。全然気にしてないから。」

 肩をつかまれて半ば強引に上体を引き起こされる。顔を上げてしっかり彼女の顔を見ると、ちょっと焦ったのか顔が赤くなっていた。

「部活は今まで通りな感じだったけど、教室では話せる人増えたし。だから、大丈夫。」

 もう一度「ごめんね。」とくり返すと、佐倉さんは困ったように笑った。

「ね、久しぶりにお話していこうよ。今日どうせ部活ないし。」

 ……なんだって?

「そうだったの?」

「先生の会議があるとかで。」

 突然、どっと疲れがおしよせた。よろけたぼくの様子を見て、佐倉さんがこらえきれずに笑い出す。誰もいない廊下に、声が響く。

「ひどいよ、まーちゃん。」

「ごめんね。ね、これでおあいこ。」

 ぼくはしぶしぶうなずいた。ここに来るまでにどれだけの労力を使ったと思ってるんだ。ぶつぶつと文句を言いたくなったけれど、楽しそうな佐倉さんを見ていたらどうでもよくなった。

 佐倉さんはぼくの手を引いて、どこに行くかも言わずに歩きだした。

「……ね、ぼくがいなかった間、なにかあった?」

 校舎の中にはほとんど人がいなかった。たまに教室の中で騒いでいる人たちがいるくらいだ。夕暮れの色に染まる廊下で、太陽の光がまっすぐ差しこんでいる。

 返事がなかったから隣を見たら、ちょうど佐倉さんごしに太陽が見えて、目を細めた。

 だめだ。何も見えない。

「……いろいろ、あったよ。」

 彼女の返事は曖昧で、ほとんど何もわからない。

 けれど、いろいろの中にぼくのことが含まれているのは、ためらいがちな言い方からわかったような気がした。

「クラスのほうでちょっとね。」

 佐倉さんはこっちを見て、へらへらと笑った。どう解けばいいのかわからない数学の問題が出てきたみたいに。

「今度、ちゃんと言うから。」

「……うん。」

 あの日の佐倉さんを、思い出す。

 きっと数えるほどしか喋らなかっただろうやつのために、あんなふうに泣いてくれた。ぼくはもう彼女を救った遠夜由羽ではないどころか「遠夜由羽本人」ともいえないけれど、彼女の見てきた「遠夜由羽」って人間を、崩したくはなかった。

「かなちゃんこそ、お母さんとは仲直りできたの? 部活、辞めないで済みそう?」

 佐倉さんはかなえの家の事情とか、いじめのこととか、彼女に関することは大体知っている。すべてかなえが自分で話したと言っていたから、相当佐倉さんを信頼していたんだろう。

「それは、……また今度。」

「なるべく早く仲直りしたほうがいいよ。かなちゃん絵を描く人になりたいって中学校の頃からよく言ってたし。」

 通り一遍の友達を心配する言葉には聞こえなくて、ぼくは足をとめた。佐倉さんは「そういえば」と振り返る。数歩先を行く彼女と目が合った。

「……どうしたの?」

「う、ううん? それより、まーちゃんこそどうしたの?」

「あのね、謝らないといけないことがあって。」

 後ろのほうで誰かが笑う声がした。今下校する人たちでもいるんだろう。話を聞かれないよう、ぼくたちはまた歩き出した。下駄箱は目の前だ。

「預かってた屋上の鍵、なくしちゃって。本当は野坂さんたちに突っ返そうと思ってたんだけど。ごめんね。」

 ……屋上の鍵。

 確か、佐倉さんが由羽に渡しちゃったって言ってた。

 野坂さんたちに突っ返そうとってことは、元々押しつけられたものだったってことか?

 さしずめ、かなえを鍵を盗んだ犯人にでもするつもりだったんだろう。

 怒りを鎮めて、平静そうな笑顔で言う。

「……持っててもしょうがなかったでしょ。」

「ううん。わたしが持ってたほうがよかった。」

 靴箱を開ける音が、誰もいない下駄箱に響いた。

 たて突けが悪いわけでもないのにがたん! と予想以上に大きい音が響いて首をすくめる。

 あの朝、彼女はこんなふうに乱暴な開け方はしていなかった。

「まーちゃん?」

「……なんでもないの。なんでもないよ。」

 隣に立っている佐倉さんは、泣きそうな顔をしていた。


 佐倉さんと別れて、すぐにかなえの部屋にとんだ。目の前に突然現れたぼくに、かなえはいっしゅん身をこわばらせてから、すぐに「靴!」とぼくの足元を指さす。

「ああ、ごめん。」

 靴を脱いでベランダに出した。近くの木から紅葉が落ち始めている。

 かなえは珍しく勉強をしている……ように見えた。古典のノートは瑞々しい竹藪が描きだされている。やっぱり美術部なんだ、と改めて実感した。

 コートとブレザーを脱いだだけでベッドに腰かける。

「まーちゃんと話せた?」

「うん。元気そうだったよ。」

 そう、とこちらも向かずに返事だけが届く。かなえは熱心に竹藪を広げていた。

「まーちゃんが、屋上の鍵なくしたって。」

 何気ない一言に、かなえがぱっと振り向く。

「いつ?」

「知らない。野坂さんに突っ返そうと思ってたのに、って言ってたけど、なにかあったの?」

 かなえは鉛筆をノートにこつこつ当てながら、困ったように髪をかきあげた。

「いやがらせ。盗んだってことにされて。」

「ああ、引き出しか筆箱にでも忍ばされたの?」

 一つうなずいたかなえは、またノートに向き合った。

「野坂さんが先生に言ったみたいだけど、まーちゃんがすぐにもらってくれたから。」

「そうなんだ。」

 物的証拠がなければ、誰もその人が犯人とは言えない。

 かなえは「なくなったなら、よかった。」と呟いた。

「……ねえ、かなえ。明日は学校に行ってくれる?」

 無言で振り向いたかなえに、ほほ笑む。

「その間に、ちょっと野坂さんとお話してくるから。」

 かなえはぼくが話だけで終わらせる気がないと解ったのだろうか。「いいよ、かなた。」といつもより強く名前を呼んだ。

 ぼくはかなえのほほえみから目を反らして、すっと消えた。

 言質がとれたわけだけど、気持ちはすっきりしなかった。

 ……もしも屋上の鍵が由羽の手に渡らなかったら。あいつは飛び降りなんて、考えなかっただろうか。

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