10 さよなら
かなえのお母さんが倒れて、三日。
お母さんの代わりに家事をこなすのはぼくの仕事で、かなえはいつもの通りに学校に行っている。野坂さんが学校に来ていないことを聞いたのは一日前のことだ。
夕飯の片づけと洗濯物を畳む作業を終えて、二人分のお茶を淹れる。
今日もお父さんは遅くまで仕事だ。
かなとに口裏を合わせてもらっているから、かなえはまだお母さんのことを知らない。
この機会に、彼女にすべてを話そうと思っていた。
離れに戻ると、かなえがゲーム機をさしだしてきた。またカーレースをやりたいらしい。
ぼくはお茶を机に置いて、ゲーム機の電源を入れた。
久しぶりのゲームだった。ここ一週間、いじめだ母親だと忙しかったから。
「今日、どうだった?」
かなえが聞いてきて、わたしは腹を決めた。
さて、ここからだ。
「……前よりは、ましになったよ。」
かなえはふうんと生返事をよこす。
ゲームの音だけが部屋に響いた。カーブでかなえを抜く。すぐに後ろから爆弾を投げられて、スリップ。
態勢を整えて、わたしは何気なく、決めていた言葉を言った。なるべくはっきり聞こえるように。
「ねえ、かなえ。」
「なあに、かなた。」
「どうしてお母さんがいないのか、わかる?」
「……旅行に行ってるんでしょう?」
「倒れたんだよ、三日前に。今病院で寝てる。」
目を見開いたかなえ、というものを初めて見た。わたしはゲームを一旦停止させた。
「どうして言わなかったの?」
「心配するんだ。」
「当たり前でしょ。」
「嫌っていたお母さんなのに?」
言葉に詰まったかなえに、柔らかくほほ笑んだ。
本当に言いたいことは腹の底にしまいこんで、無理やりに、別の言葉を吐きだす。
「大丈夫だよ。可愛い娘に反抗されて、混乱しているだけだから。」
ごめんね、かなえ。
「お父さんにもちゃんと話したよ? 大学のこと。好きなようにしなさいって言われたから、こつこつバイトして、学費をためる予定。」
こんなことをすれば、誰だって傷つくってわかってたんだ。
「野坂さんのことも、ようやくわかったの。あれは彼女も悪かったけれど、向き合ってあげなかったかなえも悪いってこと。」
でも、こうするしかなかったんだよ。
「……どういうこと?」
「今の状況、かなえにはわかってないよね。」
「うん。」
「でもこれは、まぎれもなくかなえの行動の結果だよ。みんなそう思ってる。」
だって、わたしだってこうやって騙されたんだから。
わたしはここぞとばかりに明るい声を出した。
「わたしが、かなえのまわりのややこしいこと全部、解決したの。」
だから。
「だからわたし、これからは柊かなえとして生きるからね。」
身を乗り出す。ゲーム機を床に置いて、かなえの肩に両手を置いた。
ただでさえ白い顔が、徐々に青くなっていった。ゲーム機を握る手も震えている。
「考えなかった? わたしのこと。自分の面倒なこと全部やってくれるだけなんてこと、あると思ってた?」
「……あ。」
何の意味もない音。わたしはかなえが言葉を喋るまで、気長に待っていた。
時計の秒針が三回半まわって、やっと、かなえが口を開く。
「なにか、隠していたの……?」
目の前にある目に、わたしは写っていない。
平静を装うのが難しいくらいの鋭い言葉に、背筋が震えた。
いっそ「騙してたの」って言われて、罵られたほうがましだった。
息を吐きたいのをこらえて、応答を絞り出す。
「うん。」
だったらこっちも、いっそ冷酷なくらい、淡々とこなそう。こんなこと、さっさと終わらせよう。そうしないと。
「なにを、かくしていたの。」
「わたしが、『影』が、どういうものか。……ちょっと前まで、わたしは、かなえと同じ学校に通う普通の高校生だったことも。」
かなえの目に、部屋の明かりが反射した。
「わたしみたいな存在はね、頼った人間になり替わって、その人になる。そのかわり、乗っ取られたほうは同じような存在になる。誰かの、『影』になる。」
「……わたしも?」
「そうよ。」
かなえの肩から、手を離した。
もう、その目を見るのがつらかったから。
「次は、あなたの番。」
ゲーム機を拾いあげて、一時停止を解除した。かなえはゲームが再開されても何も操作をしない。すぐに路肩につっこんでそのまま止まってしまった。
久しぶりに、かなえより先にゴールにたどり着く。
「わたしの勝ち。」
顔を上げると、かなえの目から涙が零れ落ちるのが見えた。その口から、結局変わらないままだった細い声が出る。
「返してって言ったら、返してくれない?」
「返さないわ。」
「……そう、だよね。」
その手から滑り落ちたゲーム機が床に当たって、派手な音を立てた。
「かなただって、体がほしいよね。」
最後の顔は、笑っているように見えた。
……さっきとは違う悪寒が走り抜ける。
あわてて手をのばしても、かなえの体はため息といっしょに空気に溶けてしまった後だった。ガチャガチャした音の鳴るゲーム機だけが、そこに誰かがいたことを物語っている。
力のなくなった手を下ろす。
かなえの、最後の言葉。
きっとあの子は、『影』のことを正しく理解していない。
思えば最初からそうだった。変な名前をつけたり、自分から学校に行ったり。彼女にとって、この現象に巻き込まれたことなんて、どうでもよかった……や、関係なかったんだ。
だってあの子は、本当に、双子の片割れが帰ってきたと思いこんで――。
「……かなえらしかった、かな。」
ゲーム機の電源を切る。かなえのも同じように。とたんに部屋の中が静かになった。時計の回る音だけが、規則正しく響いている。
やっと終わった。これでやっと楽になれる。
「……楽に?」
時計の音が、聞こえなくなった。耳の奥で高い音が鳴る。やけに部屋の中が明るく感じる。
わたしは床に寝ころんだ。フローリングの床は冷たくてきもちがよかった。
……そんなわけ、ないじゃないか。
だって、柊かなえの人生は、まだまだこれからなんだから。
「なにが終わった、だ……。全部、これから始まるんじゃないか。」
気がついたら、やたらお腹が痛かった。のども痛くなっていた。やけにクリアな頭でわかったのは、二時間近く笑い続けていたことと、流れ続ける涙で服の袖を重くしている事だけだった。
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