幕間
かんしょう
桜が舞い散るころ。川沿いの桜並木を見ながら、由羽のお見舞いに行った。
風もないのにひらひらと降ってくる花弁はもう木の上よりも道のほうが白いくらい散っている。今年は四月になって一日だけ雪が降って、桜の上に雪が積もった。お昼には溶けてしまったのがすこし残念。
ほかの土地に行ってしまえば、あの光景はなかなか見ることができなくなるんだろうな。
高校二年生になってそろそろ一か月になる。二年の始めには文系クラスと理系クラスに分けるためのクラス替えがあって、わたしは文系を選択した。かなえの願いである美大生になるために、選択教科も美術をとっている。佐倉さんや秋孝とは同じクラスになった。
たまに由羽のお見舞いに行っていることは、二人にはまだ内緒。
病院はいつもと変わらずひっそりとしている。ただ、散歩に出ている患者さんが多くて、そのぶん看護婦さんも忙しそうに働いていた。
由羽の病室の前であたりを見回す。誰もいない。「面会謝絶」の札のかかった引き戸をそっと開けて、中に入る。
最初に見えたのは、開け放たれた窓だった。
落下防止のためにそこまで開かない窓が、それでも最大限に開かれている。吹きこんできた暖かい風が規則正しく響いていた心電図の音をかき消し、はっとする。
由羽は見たところ酸素マスクと点滴しかつけられていないように見えるけれど、部屋の中には心電図の機械が置かれている。ただ眠っているのとは違う、青白い顔。
「――どちらさん?」
由羽の傍らに誰かが座っているのに気がついたのは、そう声をかけられてからだった。
「げっ。」
名前を呼びそうになって、慌てて言葉を飲みこんだ。咳きこむわたしを見て丸椅子に座っていた人が立ちあがった。
ひょろりとした背。いつもより整えられている髪。作業着よりはちゃんとしているけれど、ラフな格好。
名前を呼ぶことはできない。だってかなえにとって、玄さんとはこれがファーストコンタクトなんだから。
かなえと由羽の背丈は五センチくらいしか違わないけれど、玄さんは誰の前に立っても見上げるような位置に顔がある。目の前に立った玄さんは壁のようだった。
「由羽坊の友達かい?」
「あ、ちょっと違うんですけど……。お見舞いに。」
わたしは背中に持っていた花を出した。玄さんはそれを受け取って、わたしに「ありがとう。」と笑った。
「由羽坊に女の子のお友達がいたとは。驚いた。」
「いや、わたしは遠夜君と一回も話したことないんですけど。」
しまった。つい本当のことを。
おろおろしているわたしを見て、玄さんはなぜか悲し気な顔になった。そんな顔を見るのは初めてだった。
「遠夜君のご家族の方ですか。」
「いいや、俺は由羽坊の家の庭師さ。
わたしが「柊かなえです。」と名乗ると、玄さんはすっかりいつもの気の抜けた顔に戻っていた。
「まあ、座って。ちょっと話していかないかい?」
玄さんの提案に、わたしは素直にうなずいた。こっちも久しぶりに、玄さんと話がしたかった。
椅子を二つ並べて、眠っている由羽を見ながら佐倉さんのことを話した。
「そうかい。友達が由羽坊のことを気にかけてくれてたかい。」
「はい。」
実際、まだ佐倉さんの口から遠夜由羽の名前は聞いていないけれど。
玄さんはそうか、そうかと頷いて、「俺はね。」と由羽を見た。
「由羽坊のお母さんと高校までずっと一緒でな。よく庭で遊ばせてもらってた。庭師になろうと思ったのは、だから自然なことだったんだよ。由羽坊のお母さんは呆れてたけどな。自分より頭がいいんだから、ちゃんと大学行けばいいのにって。」
「はは……。」
強気な態度で言っている母さんが目に浮かぶようだ。
「今は住みこみで庭師をさせてもらってる。」
「そうだったんですか。じゃあ、お家ではよく遠夜君と話とかしてたんですか。」
「いや、俺は母屋じゃなくて、離れに住んでるから。離れっていうか、あれは茶室に近いかな。」
「茶室?」
「庭の隅っこにあって、ほんと小さな入り口からしか入れなくて。周りの庭を整えるのは楽しいけどさ。」
玄さんは小さいときから庭にいて、由羽だったころはよく遊んでもらっていた。茶室にも行ったことがある。奥と言ってもそれは母屋から見た位置で、実際はより表の道路に近い竹林の中にある。私道に入ってきた人をいち早く見られる位置にあるのだ。
玄さんは由羽を見たまま、ちょっと顔を曇らせる。
「今日会ったばかりのお嬢さんにこんなことを話すのも、変なんだけどさ。」
そう言って、玄さんは黙りこんでしまった。
何の話だろう。親のこと? それとも、なにか由羽に思っていたことでもあったんだろうか。
「かまいませんよ。さっきはわたしがいろいろ聞いてもらいましたから。」
安心したようにこっちを見た玄さんの目は、まだ沈んだ色をしていた。
「こいつがこうなる前の晩のことなんだけどな。俺、夜に由羽坊が家の外で誰かと電話をしているのを見かけてさ。」
玄さんの背後で、窓から風が吹きこんだのか、レースのカーテンが舞い上がった。外はよく晴れていて、部屋の中のほうが暗いくらいだ。
「話の内容は聞こえなかったけど、なんか言い争ってるのは聞こえてさ。こんな時間にどうしたんだろうって気になって様子を見てたら、由羽坊が突然道路に飛び出して、そこにすぐ車が来て。すごい音だった。」
実際にはないことになっている交通事故。
「……遠夜君って、学校の屋上から飛び降りたって。」
「ああ。そうなんだよ。たしかに事故った車はあったけど、ただの飲酒運転だっていうし、次の日の朝に由羽坊はけろっと学校に行ってるし。俺の見間違いで、由羽坊はただ電話をして家に帰っただけなんじゃないかって、思いたかったんだけどな。」
「だけど?」
こちらが乗り出し気味になったことには気がつかれなかったようで、玄さんは同じ調子で喋り続けた。
「由羽坊の親父さんが、あいつが事故の少し前に玄関から出て行くのを見てたんだよ。帰ってきたところは見てないって。そのときはその、遠夜の家でいろいろあって精神不安定になってたから、だれも信じてなかったみたいなんだが。」
……何か物を投げる音。後ろから近づいてくる足音。ひっそりと呼びかける声。
あの夜、あの人の姿は一度も見なかったけれど、気配だけは鮮明に憶えている。
「でも、その次の日に。」
「ああ。こいつは学校の屋上から飛び降りて、現に今こうやって寝てる。……だけど。」
ふっと日が陰って、逆光になっていた玄さんの顔が見えるようになった。よく見ればどこかやつれているようだった。
「こうやって眠っているのを見ていると、ふとした拍子に思うんだ。本当にこいつは由羽坊なのか、ってね。本当のあいつは、あの夜に車に轢かれて、どこかに行っちゃったんじゃないか、ってね。」
なにも、答えることはできなかった。
自然と玄さんもしゃべるのをやめて、部屋の中は心電図の音と、それとは微妙にずれている時計の音だけになった。
次に顔を上げたとき。そこには見たことのない顔をした玄さんがいた。
「遠夜にゆかりのないかなえちゃんになら話してもいいかな。」
「……なん、ですか?」
「由羽坊の家……遠夜の家に伝わる、家宝の事。」
それは、わたしでも初耳だった。
確かに、昔は地主だったらしいし、そこそこ昔から続く家だとも聞いている。何かあってもおかしくはない。
「金銀財宝とか、そういう感じですか?」
「いいや、違う。普通の人なら欲しがらないような、強いて言えば『知識』、ってところだ。」
「はあ。」
わたしの反応がおもしろかった……わけではないだろう。歪んだ笑顔のまま、玄さんは続ける。
「ずうっと昔から続いている家だから、とても古い資料がいっぱいあるんだ。中にはそれを欲しがるやつもいるから、家族にもめったに話はしないらしい。由羽坊の母親も、成人してから知ったって言ってたしな。その『知識』、すべて庭の土蔵にしまってあるらしい。」
「らしいってことは、本当にそこにあるかはわからないんですか?」
「ああ。鍵がかかっててな。誰も在り処を知らないんだ。」
つい、と玄さんが目線を移す。
「由羽坊なら何か知ってるかと思ったんだが……。いかんな。『知識』があればこいつを起こしてやれるかも、なんて考えたから探してたのに。これじゃあ本末転倒だ。」
うつろな目のまま時計を見て「おっと。」と声を出す。
「そろそろ看護婦さんが来るな。」
玄さんは立ち上がると、腰に手を当てて大きくのびをした。いつもの玄さんだ。
いっしゅん前が嘘のような。
「さっさと退散しないと怒られちまう。」
「……許可をもらって入ってたんじゃないんですか?」
「かなえちゃんと同じ。こっそり来ただけ。」
ここには家族しか入れないからさ、と玄さんが言う。家族って言っても、あの忙しい母さんとあの後どうなったかもわからない父さんがそう頻繁に来てくれるとは思えないけど。
わたしは椅子をかさねて片づけて、もう一度由羽を見た。よく眠っている。ここが病院でなければふつうに昼寝しているようにしか見えないだろう。
「じゃあな、由羽坊。また来る。」
そう言って、玄さんは由羽の頭をなでた。
「じゃあ、行こうか。」
「……あ、はい!」
わたしたちはこっそりと部屋を出た。廊下には誰もいなくて、看護婦さんにはばれなかった。
「途中まで送っていくぞ?」
「いえ、大丈夫ですんで。すこしこの辺を散歩してから帰ります。」
玄さんはそうか、と言ってわたしを見送ってくれた。
来た時と同じように川沿いの道に出る。
なるべく、玄さんと一緒にいたくはなかった。そりゃあ久しぶりに会えてうれしかったけど、それよりも得体の知れない怖さを感じたから。
玄さんはなんというか、うちでは空気みたいな存在だった。
常に庭にいて、母屋にはめったに来ない。たまにいたと思ったら勝手口でお手伝いさんと話してたりとか。決して、家の中には入ろうとしなかった。
そのかわり、庭の中では常にその気配を感じることができた。崩れた石垣、生い茂って陽の光をさえぎる竹藪、育ちすぎた木。
ぼくらが少し気になる頃、玄さんは常にそれらを直したり切ったりするために作業をしている。
「きっと何日も前から目をつけていて、きっちり順序だててやってるんだろうなあ。」
わたしがまだ小さいころ。玄さんの作業をぼんやり縁側に座って眺めながら、母さんはそんなことを言っていた。
恥ずかしながら、わたしはそのころわりと本気で玄さんのことを「竹の妖精」だと思っていたのであまり近づかなかったのだけれど。
そんな玄さんから遠夜の家について聞く日が来るなんて。
……それにしても、意外な話が出てきたもんだ。
「竹林の土蔵、なあ……。」
ふっと、昔閉じこめられたときのひんやりした暗闇を思い出して、そそくさと家路を急いだ。
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