15 おかしなひと
格子状に組まれたいくつもの棚に、積まれた巻物。和綴じやよく見る形の洋書はどこにもない。
入り口の近く。はしごの上に座って、巻物を見ている和装の男の人がいた。
歳はぼくより少し上くらいだろうか。着流しは寝間着にも見える。後ろでてきとうにまとめている長い髪も、病人っぽさを醸し出すのに一役買っているようだ。
男の人はぼくを見下すと、やわらかく笑った。
「初めまして、遠夜由羽。」
「……へっ。」
変な声が出た。初対面の人に名前を呼ばれるなんてなんか気持ち悪い。
ぼくの心を読んだかのように、ふふっと笑われた。
「当たり前だよ。なにせぼくの子孫だ。」
その見た目に反して、男の人は身軽に動く。
はしごから飛び降りたかとおもうと、無重力のところにいるみたいにゆっくりと着地する。周りの物はちゃんと地面にくっついているのに、この人だけ法則が違うみたいだ。
驚いているぼくをほほえましそうに見て、その人は口を開く。
「ぼくは遠夜柚卜。……の、弱い部分。怯えや恐れ、そういう長い時を生きる中で不要と判断された、魂の一部。感情ともいう。」
「……はあ?」
ふ、とその人は悲し気に笑う。
「不思議だよね。ぼくを捨てた柚卜は人間としての理性を失って、結果的に永遠の時を手に入れたのに。間が悪かったってだけで、あっさり消えちゃうんだもの。」
「はあ。」
言葉にならない。背負っている闇が深すぎる。
「ああごめん、困ってしまうよね。実はぼくも困ってるんだ。なにせ人と話すのは十何年ぶりだから。」
「柚卜さんはここには来なかったんですか。」
「よく来てた。でも、君が生まれる前には死んでたからね。」
柚卜さんは……その置いていかれた心は、高い高い書架を見上げて、ため息をつく。
「人間が成長して、自分の判断で動けるようになるくらい。それほどに、外の時は経っていたんだね。」
どこか諦めのような。
「まあ、柚卜が辿ってきた時間を思えば瞬きのようなものか。」
またへらへらと笑う。
それを見ていたら、お腹のあたりがむかむかした。
「あなたにとっては、一瞬でしたか。」
そう聞くと、柚卜さんの心はふふふ、と笑ったまま答える。
「いいや。長かった……永遠のようだったよ。」
くつくつと。ちょっとづつ、笑い声は大きくなっていく。
「長かったなあ……!」
どこまでも続く空間に。慟哭が響いては消えた。
君だってそうだろう、とその人は笑う。
「君は、君自身がよくわかっていないんだろう?」
……。
その問いに、
……。
…………。
………………………………………。
……………………………………………………どう、
どう、答えたらいい?
その問いに答えようとして、そんなものに答えはないのだと、唐突に気がついた。
ぼくは、遠夜由羽だ。
遠夜柚卜の子孫、らしい。
友達の、秋孝の思惑で。「影」の現象に巻き込まれた。
それから、四栂さんと、偽の秋孝。
ぼくにどうするかを問いかけた。
そう。体が入れ替わった。
しばらく前まで女子高生だった。
でもそんなのは借りものだ。
かなえの中のかなたという存在になり替わったに過ぎない。かなえの人生にすら干渉できなかった。そんな中途半端な「影」だった。
今の自分だって、本当に「遠夜由羽」だと言えるのだろうか?
「君は、一度だって君は、自分で行動しようとしたかい?」
「……いいや。」
「じゃあ巻きこまれるだけ? 流されるままに?」
「……そう、だね。」
「自分の意思でここまで来てないんだろう?」
「そうだ。四栂さんたちの話を聞いて。」
「それ、信用できるのかい?」
柚卜の言葉に、っふ、と空気を吐く。
そっか。そんなこと、考えたこともなかった。
考える気さえなかったんだろう。
「地の文が自分の気持ちを語ってくれるなんて甘えは捨てたほうがいいね。どんな比喩でも暗喩でも直接的な単語でさえも、人の本心なんてわかるものか。」
「なんの話?」
「小説の話。」
きっと今、ぼくは彼をにらんでいる。
「それ、今関係あるか?」
柚卜は壊れてしまっていた。止まらない防犯ベルだ。笑い声が、うるさい。
「ぼくって、空っぽなんだね。」
「当たり前だ。だって君は柚卜の器だもの。」
お腹が痛いのか、柚卜は背を丸めている。
「中に柚卜が入るんだ。先になにかいたら困るだろう?」
「いちおう、父親なんだろう?」
ぼくの場合は祖父だけど。本来なら、かわいい子どものはず。
「そうだね。そうだった。でも柚卜にそんなこと言っても無駄だよ。誰一人だって逃したことはなかったからさ。生まれてすぐに乗っ取って、思うとしたら産声がうるさいって、そのくらいだったんじゃないかな。」
ああ、今の柚卜と何も変わらない。
「じゃあ、ぼくは不幸だね。」
自分の手を見る。柔らかい手。野球でもやっていればもっとごつくなっていただろうか。
手相すら見えない、真っ白な手。
「本当なら柚卜に体を乗っ取られて。――こんなことで、悩まずに済んだのに。」
いつの間にか、柚卜が近くにいた。
熱くも冷たくもない細い指が、ぼくの鼻先に触れる。
「じゃあ、今。その体をちょうだいよ。」
――。
「ちょっと遅くなっただけさ。乗っ取られる相手が完全体の柚卜から不完全なモノに変わるだけ。それだけの違い。いいだろう?」
「なにがいいもんか。」
どん、とその体を押した。柚卜は紙細工みたいにふらふら後ろに下がった。
「ぼくは何も知らない赤ちゃんじゃない。――体を乗っ取られる痛みは、もう知ってる。」
「感情があるみたいな言い方だね。」
「あるよ。たぶん。――どこかにあるんだ。それを理解できないくらい、ぼくがからっぽなだけなんだ。」
秋孝を、思い出す。
あいつはぼくに何を見たんだろう。もしかしたら秋孝と喋っていた時、ぼくの中には何かがあったんだろうか。
空虚すぎて、会話の内容なんてなにも覚えていない。それだけどうでもいいことだったんだろう。
それでも。
あいつがぼくの中になにかを見たのなら。それを、ぼくに返してほしい。
からっぽの「ぼく」の中に、めいっぱい「遠夜由羽」を詰めこんでほしい。
柚卜はぼくになにを見たのだろう。
いつの間にか、その手には一巻きの「術」が握られていた。あたりは静寂に満たされていて、耳の奥がキンと痛む。
笑い声を止めて。理知的な顔で、穏やかな青年のように柚卜はほほ笑む。
「残念だなあ。」
「残念だったな。」
「あはは。もう君、オウムになりなよ。きっと楽に生きられる。」
「これも残念。たぶん、生まれ変わりは信じてないよ、ぼく。」
書庫には何もなくなっていた。行燈も一つだけ。ひっそりとぼくらとその近くを照らすのみ。
柚卜はぼくに巻き物を渡す。
「餞別をあげるよ。」
「……何の術?」
「【定義】だよ。」
「は?」
「巻物を開いて、願い事でもなんでも口に出すといい。そうすると、一言一句違えずに、この世界に【定義】される。」
「……なんでも?」
「ああ、なんでも。」
泣きそうな顔で、そいつは笑う。
「この蔵に柚卜が残していった、最後の術さ。」
ぼくは巻物を開いてみた。なにも描かれていない、まっさらな巻物だった。
顔を上げると、柚卜が引き戸に手をかけたところだった。
入ってきたときと同じではない。まるで、蔵の入り口のような――。
「ありがとう。これで心置きなく消えられる。」
「――おい!」
柚卜は敷居をまたいだ。その体は霞のように風に溶けて、消えてしまった。
複雑な道はどこにもなかった。ただ暗闇に沈む竹林の中で、誰かが必死にぼくの名前を呼んでいる声が、うっすらと聞こえていた。
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