9 説得

「かなえはまだ小さかったから、おばさんのことは憶えていないかもしれないけど。」

 ベッドで眠っている母さんをはさんで、駆けつけてくれたかなえのお父さんは静かに語りはじめた。病院はとっくに面会時間が過ぎていたから、廊下のほうも静まりかえっている。

「お母さんには双子のお姉さんがいたんだ。かなえとかなたみたいにね。お姉さんは絵がうまくて、美大にも行って、才能もあった。かなえのおばあちゃんとおじいちゃんもお姉さんに期待していたから、お母さんはそれが気に食わなかったんだろうね。あまり仲のいい二人は見たことがなかった。」

 お母さんは昼間よりは血色のいい顔になっていた。

「一番決定的だったのは、かなたがお姉さんになついてしまったことかな。そのうえ、あんなことがあれば……。」

「あんなこと?」

 お父さんが言葉に詰まる。見つめ続けていたら、折れてくれたのか大きくため息をついた。

「かなえは現場にいなかったから、詳しいことは憶えていないかな。かなたが亡くなったのは交通事故だったけれど、不注意で道路に飛び出したとき、助けようとしたお姉さんも一緒にはねられてしまったんだよ。」

 その事実に、昼間のお母さんの言葉を思い出した。

 お母さんは、お姉さんにかなたを取り上げられたと思っているんだ。

「だから、ぼくが絵を描くのを嫌がっていたのね。」

「絵? ――お前、絵なんて描いてたのか?」

 きょとんとしたお父さんの顔に、違和感を覚える。

「そうだけど?」

「そうだったのか。」

 平然としている。そのまま話を続けられそうになって、慌てて割り込んだ。

「美術部を辞めないなら学校には行かせないって、家に閉じこめられてたんだよ?」

「……そんなこと、お母さんがするわけないだろう。」

「じゃあ、母さんが倒れたとき、ぼくがどうして家にいたと思ってるの?」

「たまたま休んでいるのかと……。」

「そんな偶然、ないよ。」

 気がつけば体が震えていた。こんなに違う容姿の人なのに、父親ってことだけで、あの人を思い出してしまっている。

 本当になんにも知らないんだ、この人。どうしてこう、自分は悪くないって言いたげな顔をするんだろう?

「ちゃんとお母さんに話をしようとしたの。絵がちゃんと描きたいって。進路も自分で決めたいって。だけど、こうなっちゃった。お母さんを混乱させちゃった。」

 だからかなえのお父さんに聞いてもらおうと思っていたのに、これでは伝わるかどうか、わからない。

 お父さんは、困ったようにぼくを見ているばかりだった。けれど、その目線は合うことはない。

 ……ふつうのお父さんって、こんなに頼りないものなの?

 もちろん、あの人は頼りないどころじゃなかったけれど。お父さんって呼ばれる人は、もっとちゃんと家族の事をわかっていて、寄り添ってくれるものなんだと思っていた。

 全部、ぼくの描いていた幻想だったのだろうか?

 そのとき、後ろから扉を開ける音がした。

「相変わらずだな、この家は。」

 けだるげな声。どこかで聞いたことのある雰囲気に振り向くと、背の高い男の人が扉を静かに閉めていた。

「かなと、来たのか。」

「あんたが連絡してきたんだろ。」

 かなえのお兄さんのかなとさん。

 前に電話で聞いた声が近くで聞こえて、なぜか目が潤んだ。

 そりゃあ母親が倒れたら連絡ぐらいするか。

 かなとはぼくの頭をぽん、と叩いてから、隣に椅子を持ってきて座った。二人でお父さんと向き合った。

「母さんは?」

「薬で眠っているだけだよ。精神的に不安定になったそうだから。」

「そっか。」

 隣を見上げると、目が合った。斜め上にある顔をまじまじと見る。かなえとよく似ていた。

「さっき外で、だいたいのことは聞いてたけど。かなえは母さんに何を話そうとしてたの。」

 ――そうか。この家でかなえのことを一番理解していたのは、この人だったのか。

 元から相談する先を間違ってたのか。

 ぼくは、ゆっくりと息を吸った。この人に聞いてもらえなかったら、きっとぼくの主張なんて通らない。わかってもらえない。

 ぼくは、と言いかけて、やめた。

「――わたし(・・・)、美大に行って、ちゃんと絵の勉強がしたいの。だから美術部は続けたいし、ちゃんと学校も通いたい。バイトして学費も貯めるよ。だから、わたしを閉じこめて、勝手にわたしのことを決めるのは、やめてほしい。」

「――だってさ。」

 かなとはわたし(・・・)の話をお父さんに振った。

「俺、高一のときに進路のこと、こんなにしっかり考えてなかったし、結局楽だから母さんの言った通りの進路を選んだけど。かなたがこんなに考えてるの、無視するのもどうかと思う。」

 頭に手を乗せられて、ぽすぽすとやさしく叩かれた。よくやったと言われている気がした。

 父さんはまだ呆けたような顔をしていた。それから「そうか。」とわたしを見た。

 その時、腕時計をちらりと見たのをぼくは見逃さなかった。

 なんだか、面倒くさそうだ。

「かなたが決めたなら、そうしてごらん。お母さんとは、お父さんも話をしてみるから。」

 一見理解のいい返事だけど。元々父親なんて信用してないからすべてが疑わしく見える。

 とても頼りない言葉に眉をひそめると、同じことを思っていたのか、隣でかなとが「俺も一緒に話すわ。」と申し出てくれた。

 よかった。これで、どうにかなるみたいだ。

 そう思ったらどっと疲れが出た。大きくため息をつく。思っていたより気を張っていたみたいだ。

 そりゃあそっか。父親って存在と向き合って話をするなんて、初めてだったもんな。

 それにしては拍子抜けだったけど。

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