8 豹変
次の日もかなえは学校に行って。午後になって、ぼくは制服姿で母屋の前に立った。ちゃんと一瞬玄関の中に入って鍵を開けてから、改めて外に現れて、扉を開ける。
「――ただいま。」
靴を脱いで、ホコリ一つない廊下を歩く。扉の開けられたリビングで、ソファに座ったかなえのお母さんが、びっくりしたようにこちらを見ていた。
「……かなえちゃん?」
「ただいま、お母さん。」
リビングは暖かい光に包まれていた。大きなソファがゆったり置けるくらい広い。奥にはキッチンとダイニング。
ソファの脇に立つと、かなえのお母さんはぼくを見上げた。
品のいい奥さんらしい長いスカートとゆったりとしたシャツ。シンプルに結んだ髪。自然な印象を与える薄化粧の顔に、少し困ったような筋が出る。
「どうしたの、かなえちゃん。お部屋にいたんじゃないの?」
鞄の持ち手を強く握る。
「だめじゃない、勝手に家からいなくなるなんて。それもお母さんにみつからないように――? どうしちゃったの、かなえちゃん。いつもはあんなにいい子なのに。最近ちょと変よ? 心配事があるならお母さんが聞いてあげるから……ほら、とりあえずお部屋に」
「学校に行ってたの。」
あふれ出る言葉をさえぎる。
お母さんは笑顔を絶やさない。――いや、笑顔が固まったまま動かない。
張り付けたような表情のまま、ぼくに合わせてすっと立ち上がる。背中に棒を入れているんじゃないかってくらいきれいな立ち姿。
目線をお母さんに合わせる。目を――離せない。
「どういうことなの、かなえちゃん。」
「黙っていてごめんなさい。……最近、こっそり学校に行ってたの。」
「なんでそんな危険な事を。もしかしてあの佐倉とかいう子に何か言われたの?」
かちん……ときたけど、空気を吸ってごまかす。かなえなら何か言い返してたな。
「そうじゃないよ。」
「じゃあなんで……。」
「このままお母さんに守られてばっかじゃいけないと思ったの。それに、学校も部活も、ぼくにとっては大切なものなの。だから――。」
「……部活?」
お母さんの笑みが、深くなった。
「まだ、絵なんて、描いているの?」
やさしい、やさしい笑顔だ。
宗教画でしか見たことないけど、本物の聖母様ってこんな顔をしてるんじゃないのかな。
「辞める気、ないから。」
ぼく自身は中学の美術以外で描くようなことはなかったけれど。これから練習しないと、かなえじゃないってばれてしまいそうだ。
そうやって別のことを考えられたのは、目の前に立つ人の眼の光が、すこし和らいだような気がしたからだ。
「お母さん、もっと勉強しなくちゃだめよって言ったわよね。お兄ちゃんより上の大学に入るにはもっと勉強を頑張らないといけないんだから。絵なんて描いてる暇ないでしょう?」
「……お兄ちゃんと比べないで。ぼくは別に、頭のいい大学に行きたいわけじゃない。」
「なにわがままなことを言って。」
「どうして自分の進路を自分で決めることが、わがままになるの?」
にらみつけるようにするどい言葉をはいてから、はっとした。和らいだと思っていた目の光は、もうどこにもなかった。
うつろな目は、ちゃんとぼくを映しているんだろうか?
「……そんなこと、言う子じゃなかったのに。」
お母さんの肩が震える。
「そうよ……。かなえちゃんがこんなこと言うわけないわ。そうよ。そうよそうよ。」
大きな窓からさしこんでいた陽の光が、急に陰った。目が慣れないうちに、ぼくの首に手が伸ばされる。
――由羽?
どこかで、あの人に呼ばれた気がした。
「あなた、かなえちゃんじゃないでしょう。」
目の前の、うつろな目を見る。首に取りついた手も、それをはがそうとつかんだぼくの手も震えていて、一体どちらが震えているのか、もうわからない。
きれいな笑顔で蓋をしていたものが外れて、爆発してしまったような顔で、お母さんは娘の姿をしたものを殺そうとしていた。
「そうよ。ねえ、あなたかなえちゃんじゃないんでしょう。そうなんでしょう、
苦しい。
酸欠になって、ぼうっとしてきた。こうなってはなりふり構っていられない。
「かなただけじゃなくて……かなえまで、わたしからとりあげる気なの!?」
ぼくは、姿を消した。
つかんでいたものがなくなって、お母さんが床へ崩れ落ちる。そのまま意識を失ったのか、頭をかばうことなく床に倒れそうになった。
慌てて受け止めたけれど、その重さにおもわず座りこむ。
「お母さん?」
ぐったりとした肩をゆすってみる。呼吸はしているようだった。
……こうなる予定では、なかったんだけど。
ソファに置いてあったお母さんのスマホに手をのばす。ロックはかかっていなかった。着信履歴の一番上に、お父さんの名前。
混乱した子どもだったら、救急車の前に親に電話をかけても、おかしくないよね。
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