5 初登校
紅葉が進む山の少し手前に学校が見えてきて、ぼくは静かに息を吐いた。
さあ、ここからが本番だ。大丈夫、かなえから教室でどんなふうに過ごしているか聞いているし、いじめっ子の名前も聞いたし、佐倉さんのあだ名も聞いたし、かなえがどんなふうに呼ばれているかも聞いたし。
大丈夫。
大丈夫なはず。
……きっと大丈夫。
静かに吐いた息は、ため息に似ていた。
小さい歩幅で、それでもしっかり歩いていると、登校する生徒の集団に出くわした。コバンザメみたいにひっそり近寄って行って同じ方向を目指す。何人かで歩いているところもあれば手をつなぎ合っているカップルもいて、もちろん一人で黙々と歩いている人もいる。その横を自転車に乗った生徒が颯爽と駆け抜けた。
その後ろ姿に見覚えがあった。秋孝だ。
止まりかけた足を無理やり動かす。パッと見つまづいたように見えただろうか。ちょっと恥ずかしい。
秋孝はもう校門の中に入ってしまって、姿が見えなくなっていた。大丈夫。クラスはちょっと離れているけれど、なんてったって秋孝は佐倉さんと同じクラスなのだ。そのうち会える。
昇降口に来たところで、いつもとは違う下駄箱を探した。しっかりと鍵のかけられた小さなロッカーを開けると、上段に上履きがきれいにそろえられているのが目に入った。このあたりのセキュリティがしっかりしているからか、いじめられっ子によくある「靴を隠される」という手段はとられていない。
上履きに履きかえるとき、とん、と肩を叩かれた気がした。
片足で立っていたぼくはよろけて倒れそうになったけれど、誰かが腕をつかんで引き留めてくれた。「大丈夫か?」と男子の声がする。
「ごめんなさい。」
「あんたのせいじゃないみたいだけど。」
聞き慣れた声に、はじめて男子の顔を見た。
秋孝はこちらを見てはいない。かわりにどこか遠くを見ていて、視線を追って振り向けば、ちょうど人波の間を小走りに遠ざかる三つ編みおさげの人影が見えた。
でた、いじめっ子その一。おんなじクラスの野坂さん。
ぼくはちゃんと両足で立つと、改めて秋孝に「ありがとうございます。」と頭を下げた。秋孝は「ああ。」とか「うん。」とかよくわからない返事をして、「じゃあ。」と軽く手を挙げて去っていった。
なんなんだ、あいつ。
鍵をしっかり閉めるころには秋孝の姿は人の向こうに見えなくなっていた。ぼくも教室に向かって歩き出す。朝の校舎は生徒の声であふれかえっていた。
あのそっけない態度はなんだろう。もしかして、ぼくが誰だか気がついたのか? こんなに早く?
じっくり問いただしたい気持ちはあるけれど、それはできなかった。かなえから面識のある人の名前は大体出してもらったが、その中に秋孝の名前はなかった。だから、こちらから話しかけるのは不自然なのだ。
「……話すって、何を話すんだろう。」
今更だけど、そんなことが頭をよぎる。秋孝と会ったところで、ぼくは一度も喋ったことのない「柊かなえ」って女の子なのに。
教室に入ると、何人かの人がこちらを振り向いたのに気がついた。不登校だった人が突然学校に来るようになれば珍しがる人もいるだろう。ぼくはさっさと教えられた廊下から二列目の、一番後ろの席に座った。かなえはいつも一人でスマホをいじっていることが多いそうだから、ぼくもそれにならう。
先生も気を使っているようで、授業で当てられることはない、とかなえから聞いている。授業の予習は習慣で続けているから大丈夫なんだけど、先生の気遣いはありがたく使わせてもらおう。
適当にニュースサイトを見ていると朝の部活帰りの生徒がどやどや入ってきて、続いて担任の先生が入ってきた。今日は小テストはない。先生と目があって、軽く頭を下げた。
かなえのクラス、二組の担任の名取先生は古文の先生で、若いけどおっとりしている男の人だ。かなえのことも放任主義の親のごとく何も言わず、今日もホームルームが終わった後に「何かあったら言ってね。」と一言声をかけて行ってしまった。
先生が来て、チャイムが鳴って、淡々と授業が進む。びっくりするくらい変わらない学校生活。
ともすれば自分が別人になっていることも忘れてしまいそうだった。
でもそれも、授業が終わるまで。
六時間目の終わり、クラスの人から「柊さん、今日掃除当番ね。」と声をかけられて、仲良しっぽい五人組といっしょに机を動かした。運動系部活の人達だから、てきぱき働いていれば大丈夫だ。
椅子を乗っけた机を持つと、今更だけど右腕が痛くなった。朝、秋孝につかまれたところだ。青あざにでもなっていたらどうしよう。
ぼうっとそんなことを考えていると、とつぜん、なにかに足をとられた。
前につんのめって、慌てて机を置く。がたん、と大きな音が響いた。
「大丈夫?」
近くにいた、さっき声をかけてくれたクラスメイトがこちらをのぞきこんだ。
「大丈夫。ちょっとつまづいただけ。」
後ろを振り向く。なぜか、誰かの辞書が落ちていた。
とりあえず机の上に拾いあげて、掃除を続ける。辞書は名前が見当たらなかったから、教卓の上に置いておいた。
掃除が終わって、一緒に掃除をしていた子に「大丈夫だった?」ともう一度聞かれる。
「うん、大丈夫だよ。」
「何かあったら言ってね。」
ありがとうと伝えると、その子は待っていた友達と一緒に廊下をダッシュで遠ざかっていった。ぼくも鞄を持って、美術室に向かう。
野坂さんの姿はもうすでにない。美術室に行ったらいるだろうか。
「あ。」
そっか。そういうことか。
思わず立ち止まって、教室をふり返った。
自分がこういう状況に出くわすのはかなりひさしぶりで、すっかり感覚が鈍っていた。
さっきの辞書、野坂さんのかもしれない。ぼくがつまづくのを承知で、変なところに置いておいたのかも。
……いや、野坂さんとは限らないじゃないか。たまたま置いてあっただけかもしれない。それとももしかして、さっき心配してくれた子が、野坂さんに便乗しているとか?
ぐるっと一巡り考えて、息を長く吐いた。
人を疑うと疲れる。ぼくが由羽のままだったら、いろいろ考えるのが面倒で首すらつっこまなかった。
だけど、今のぼくは由羽じゃない。
美術室に向かって一歩踏み出す。
野坂さんとは会うかもしれないけれど、同時に、佐倉さんだっているかもしれないんだ。そんなに気負わずに行こう。
そうじゃないと、足が勝手に昇降口に向かいそうになるんだ。
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