3 なにかあったら
三十分ほどぼうっとしていたけれど、このままここにいると誰か帰ってきたときに怪しまれることに気がついて、のろのろと立ち上がった。
隣のクラスの人は、かなえが出て行ったのを見ている。わたしが通ったらおかしく思うだろう。かなえが出て行ったのと逆の方向へ、廊下を歩く。
人がいるところへは行けなかった。かなえが二人いることに気がつく人がいてはいけない。足が向かうのは人気のないところ。球技大会に含まれないせいで人のいない、テニスコートまでとりあえず歩いた。テニスコートの隣には卓球場があって、間にはさまれるように自動販売機とベンチが置かれている。ちょっとした休憩スペースだ。
いつもは部活の人がいたりするけれど、さすがに今日は誰もいなかった。日陰になっているベンチの端に座って、空を見上げる。
遠くに入道雲が見える。高いところだけ風が流れているのか、雲だけが東に向かって流れていて、わたしの周りは暑い空気が停滞している。ぱたぱたと手であおいでも効果はない。
完全に、頭がさっきの教室の時間から止まってしまっていた。何も考えられない。考えなくてはいけないことははっきりわかっているのに。
授業がないから必要ないのに、三時間目の終わりのチャイムが鳴った。その音にかき消されて、近づいてくる人の足音が聞こえなくて、声をかけられたとき、飛び上がるほどびっくりしてしまった。
「柊さん?」
「へっ。」
ベンチからずり落ちそうになるのを、秋孝が腕を取って押さえてくれた。「ありがとう。」とお礼を言う余裕もなくて、沈黙が場を満たす。
何を話せばいいんだろう。どうしてここに、は、そのままこっちに跳ね返ってくるし。試合どうだった、も、まだ決着がついていないだろうから答えにくいだろうし。
ぐるぐると考えているうちに、秋孝は自動販売機でジュースを買っていて、一本をわたしの前に差し出した。やっと「ありがとう。」を言って、ひんやりと冷たい缶を受け取る。
……どうしてこいつは冷やしおしるこを選んだのか。
わたしの隣に座った秋孝は、あろうことか同じものを飲んでいる。
「黒田君好きなの、おしるこ。」
「これ、ここの自販機にしか売ってないから。」
答えになっていない。
せっかくもらったけど、飲む気にはなれなくて手の中で転がす。かきーん、と校庭のほうから音がした。
「柊さんさ。」
「うん。」
「さっき、佐倉さんといなかった?」
どこからか黄色い歓声が聞こえる。
隣を見ると、人ひとり分のスペースを開けて秋孝が座っている。缶をつつくたびに高い音を出している。
かん、かん。
「……さっきって、いつ?」
「さっき。廊下で。」
「黒田君が話しかけてきたとき?」
「そう。」
わたしは肩をなでおろした。
「スマホ忘れちゃって取りに来たの。でも、ちょっと具合が悪くなって。」
半分本当の言い訳に、秋孝の返事はなかった。じっと見つめられて、「なに?」と思わず聞き返す。
ふっと目線を外した彼は、缶の中身を一気に飲み干すと、なんてことないようにつぶやいた。
「それ、さっき柊さんから聞いた。」
「……さっきって?」
「さっき。ここに来るとき、廊下で。」
なでおろしていた肩に、再び力を入れる。
わたしが秋孝に最後に会ったのは、スマホを忘れたと気がつく前だった。
真剣そのものの目が、まっすぐこちらを見つめている。ばっちり合っている目を外そうとも、その視線から逃れられないのは目に見えていた。
もしかして、由羽だったこと、ばれてる?
何も言えずに見つめ続けていると、先に目線を外したのは秋孝のほうだった。
立ちあがって、おしるこの缶をゴミ箱へ捨てる。
「もしも自分の『影』に困っているなら、いつでも相談して。」
予想外の言葉が、きた。
こちらがあっけにとられている間に、細身の背中は遠ざかって、すぐに校舎の間に見えなくなった。
「……つまり、どういうこと。」
残されたわたしは動かない頭を動かそうと必死になったけれど、結局、考えはじめるよりも戻ってきたかなえに発見されるほうが早かった。
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