2 帰還
その後、その『影』が姿を現すことはなかった。あっという間に二週間が過ぎて、平和的にテスト期間が終わった。
勉強ばかりに目が行っている間に、気がつけばセミの鳴き声が響く季節になっていた。空はより青く、雲は高く積み上げられている。すっかり夏の装いだ。
先生たちが採点や成績をつけている間、うちの学校ではクラス対抗の球技大会がある。
体操着姿の生徒たちで埋めつくされた廊下を佐倉さんと並んで歩いていると、隣にやってきた秋孝に「どうかした?」と声をかけられた。
「なにが?」
「すごく気が抜けてると思って。」
そうだろうか。「どのあたりが?」と逆に訊くと、秋孝は首をひねって「なんとなく、全体?」とはっきりしない返事をした。
わたしには、そっちのほうが抜けているように見える。いつものことだけど。
「テスト終わったしね。あとは夏休みを待つばかりだし。」
「そうだね。」
ぱっと振り返って佐倉さんに満面の笑みで返事をする。後ろから秋孝のため息が聞こえた。
ここまで露骨に態度を変えると、さすがの秋孝でも邪魔者扱いされているのがわかったのか、さっさと体育館へ向かって歩いて行ってしまった。これからうちのクラスは女子バレーボールが二回戦に挑むことになっている。わたしと佐倉さんはソフトボールのチームだから今回は応援だ。
夏休みの予定について話していた佐倉さんが、急に顔を近づけてきた。
「ねえ、やっぱりかなえってさ。」
「ないから!」
「えー。あやしいー。」
「本当になんとも思ってないの。」
「そんなこと言ってー。ちょっとは気になるんじゃないのー。」
「ぜったいに、ない!」
秋孝のいないところで何度となく繰り返されてきた会話はもはやコントの域で、ノリツッコミのバリエーションも増えてきた。結局オチもなく笑い合って終わるのもいつものこと。
佐倉さんは誤解している、というか、そうやって勘ぐるのが面白くてずっと疑惑を持ち上げ続けているんだろうけど、実際のところ、わたしが秋孝のことを異性として見ることなんて考えられないのだ。
中身が違うとはいえ、ずっと一緒にいた友達を今更そんな目で見ろと言われても、たとえ正常な男女だったとしてもできないだろう。
ただでさえ自分が女になったってことを忘れてしまうことがあるのに。
言い合いをしているうちに体育館の入り口が見えてきた。校庭の競技が盛り上がっているのか、比較的入り口は空いているように見える。
「試合って何時からだっけ。」
「ちょっと待ってね。」
わたしはスマホに保存してある対戦表を見ようとポケットに手をつっこんだ。ティッシュしか入っていない。反対側もハンカチとロッカーの鍵だけ。
「あ、スマホ置いてきた。」
「え、ほんと?」
もうちょっと早く気がつけばよかった。けっこう遠いんだよな、教室。
「ちょっと取りに行って来るね。」
「わたしの見ればよくない?」
「放っておいて知らない人に見られてたら嫌だからさ。」
「そりゃそうか。」
佐倉さんは「中で待ってるね。」と手を振って見送ってくれた。室内用の運動靴を預けて、速足で来た道を引き返す。
試合に間に合うように教室を出てきたから、早く戻らないと試合が始まってしまう。廊下はさっきより人が減っていて、たぶん試合の始まるタイミングがそろっているんだろう。たまに応援にも行かずに教室で遊んでいる人たちも見かけるけれど。
近づいていくと、二年三組の教室が静まり返っているのがわかった。そろそろ試合が始まるかな。みんな体育館に集合しているんだろう。
教室の中に入る。
――誰かいた。
窓際の席で、校庭で始まったソフトボールの試合を見下ろしている。
体操着の背中に後ろで一つに結んだ髪が流れ落ちていて、手にはスマホが握られている。どこか既視感を覚える後ろ姿。
視線は昼下がりの校庭へ向けられていて、別にスマホをいじっていたわけではないらしい。近づいていくと、その人影が座っているのがわたしの席だってことに気がついた。
……どこかで見たような景色だ。
嫌な汗が流れ落ちる。
この状況を、知っている。いや、場所も時間も服装も、同じことはなにもない。
「あの。」
おそるおそる、声をかける。もったいぶってゆっくりと、女子生徒が振り返る。
唯一あの時といっしょなのは。
それと、わたしの「存在」が、同一のもの、だってことだけだ。
鏡の、ようだった。
その顔を、よく知っている。少し前まで毎日見ていた顔だから。ちゃんとわたしが過ごしたぶん、髪がのびて、ちょっと明るい顔になっていた。
「……どうして。」
「そんな怖い顔しないで、かなた。」
女子生徒は、――柊かなえは、まるであいつみたいに頬杖をついた。
彼女はあの日の朝のことを、知らないはずなのに。
何も言えずに、ただ倒れないように近くの机にもたれかかった。「しっかりして、かなた。」と手を叩かれた。
どうやら本当に、柊かなえのようだった。
「なんで? 別の人の『影』になったんじゃなかったの?」
「なったよ。ちゃんと乗っ取った。」
「じゃあ、どうして!?」
かなえに近づく。足に机が当たってがたんと大きな音がした。かなえの肩をつかむ自分の手が、震えていた。
「顔色青いよ、かなた。」
冷たい声は、凪いだ湖のようだった。
「かなえ……?」
「具合悪いんなら、代わりに応援行ってくるよ。」
腕をつかまれた。立ち上がったかなえと、くるりと位置が入れ替わる。気がついたら自分の席に座っていた。
「かなたはゆっくり待ってて。」
スマホを持った手が振られる。軽やかな足取りで教室を出て行ったかなえの姿は、すぐに見えなくなってしまった。
誰かがホームランを打ったのか、校庭から歓声が聞こえた。教室の時計の音も、隣の教室で騒いでいる人の声も聞こえる。そのどれもがどこか遠く感じた。
あまりに唐突に、あっさりといなくなってしまったせいか、ぼうっと教室の入り口を見ることしかできなかった。本当にかなえに会ったのか、自信が無くなってくる。
本当に。……なんで?
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