4 本契約
あんなふうに邪険に扱ったことを、今になって後悔している。
あいつの言っていたことはまるで予言のように現実になった。
人っていうのは一度便利なものを使ってしまうと、なかなかそれから離れられなくなる。パソコンとかスマホとかももちろんだけど、ぼくの場合は、見事に自分の「影」に依存することになった。
一週間なんてすぐだった。最初の二、三日は宿題を代わりにやらせたりする程度だったけれど、学力は生き写しみたいにそっくりで、よく間違える問題を同じように間違え、筆跡も一緒となれば、先生も疑う余地なく「本人がやった」ように見えた。四日目には代わりに学校に行かせてみた。何の問題もなく帰ってきた。もちろん五日目にぼくが学校に行っても、誰も異変には気がついていないようだった。
家庭内も同じだ。家政婦さんはぼくが二人いることに気がつかない。
玄さんはそもそも家の中に入ってこないから何も言ってこない。
両親はいつもの調子でほとんど家にいないし、自分の部屋の掃除は自分でする、と家政婦さんと約束しているから、部屋にいればたいていは大丈夫だった。
そもそも家が広すぎて場所が違えばだれがいるかなんてわかったものではないのだ。ぼくは自分の家の大きさを、はじめてよかったと思えた。
一週間が経った日、ぼくはやつに約束のことなど口にも出さず、それまでと同じように頼みごとをした。やつも納得したのか、何も言ってこなかった。
そうしてもう一週間、ぼくは適度にやつの力を借りた。そう、依存と言ってもレベルはそれほど高くはない。
ぼくが頼むのは宿題か学校に代わりに行くこと、それから軽い買い物。本屋行って来いとかコンビニ行って来いとか、悪く言うとパシリってやつだ。お金はぼくのものだから本当におつかいに行かせている気分だったけど。
何事にも程度っていうものがある。体を治す薬だって、飲みすぎれば毒になることがあるんだ。このまま何もかも任せていたら、そのうち廃人みたいになるんじゃないかな。
それに、「遠夜由羽が二人いる」という異常を他人にさとられないように、ぼくもちゃんと考えなくてはいけないのだ。お手伝いさんが来るとやつは勝手に姿を隠すから家の中は問題ない。だけど、学校は違う。やつが学校に行った日は必ず授業内容と、友達とどんな話をしたか聞くようにしている。つじつまが合わなくなったら大変だ。
「偉いよね、由羽は。」
やつ――暫定的にこころのなかで「影」と呼んでいる――が現れて十七日目の夜。お手伝いさんも帰った後で、影は今日の授業で教科書が何ページ進んだのか律儀に報告した後、そう言った。
「なにが?」
「学校さぼってるのに予習復習はちゃんとやるところ。」
「そりゃあ、学校をボイコットするのは個人の意思だからかまわないだろ。出席日数の問題は、お前がいるから関係ないし。ただ、その分の代償は責任をもって背負わないとな。」
この場合の代償は、休んだことで授業から遅れてしまうこと。当然のことだからこそ、手を抜くと後で巨大なツケが返ってくる。
「普通の人は、テストまでぼくらみたいな存在に任せちゃうんだよ。それで家にこもってゲームしたりとか。」
「そこまで依存する気はないよ。便利だけど、得体が知れないのは変わらないんだから。」
「じゃあどうして利用してるのさ。」
「なんだって最初は得体が知れないだろ。とりあえず使ってみないと、どういうものかわからない。」
返事の代わりに乾いた笑い声が聞こえた。
「ほんとに真面目だよ、由羽は。」
「そうか?」
「うん。見てるこっちが苦しくなる。」
ベッドに座るやつを見る。
「そういうお前だって、ほかのやつにもこういうことしたことあるの?」
「どうして?」
やつがぼくと同じ顔で目を見開く。なるほど、外から見るとこんな感じなんだな。普段の自分の表情なんて、こんな時にしか見られない。
「普通の人のテスト、代わりにやったことあるみたいな口ぶりだったから。」
「……ぼくがこういう存在になって初めて会ったのが由羽だよ。これは仲間からの受け売り。」
こいつ「ら」、群れるほど多いのか?
ぼくの考えを先回りするように影が言う。
「ぼくもそいつ一人にしか、同じ存在に会ったことはないけど。でも、いろいろ教えてくれるいいやつだった。」
なつかしそう、とは少し違う、なにか。やつはそう言ったっきり黙ってしまった。ぼくも「そうか」と淡白に突き放して教科書に向き直る。まだ予習をしているところより前には進んでいなかったから、予習の前に演習問題を解くことにした。
ぼくが勉強をしている間、やつは部屋にある本を勝手に読んでいることが多い。それも決まってベッドの上で。あんまり静かなものだから、問題に集中していると部屋にもう一人いるってことを忘れてしまう。
そろそろ次の教科に移ろうかと顔を上げたとき、ふっと聞き忘れていたことを思い出した。
「そういえば、学校で何か変わったことはあったのか?」
うーん、と考える声の後、聞き慣れない単語が続いた。
「……なんて?」
いつの間にかベッドに起き上がっているやつを見る。もちろん言葉はすべて聞き取れていたしその意味もわかっていた。けれど、突拍子もなさすぎて脳が理解することを緊急停止させてしまっていた。
やつはあっけからんと言う。どこの本棚から探し出してきたのか、昔母さんが気まぐれで買ってくれた『クリスマスの贈り物』から目も上げずに。
「助けたんだよ、佐(さ)倉(くら)さん。同じクラスの。」
「なんで? というか、どういう状況で?」
クラスメイトの佐倉さん。たしかおとなしい、もとい影の薄い人だったような気がする。中学は違うところだったからまだ半年しか付き合いはないけれど、喋ったことは一度もなかった。
「クラス替えで佐倉さんが斜め前に来てさ。彼女の引き出しが見えるわけなんだけど、なんか紙切れがいっぱい入ってて。よく見たらノートがばらばらになってたんだな。佐倉さんもすぐに気がついたみたいだけど。」
「………いじめ?」
「みたい。うちのクラスの、佐倉さんと似たような雰囲気の子たちから。」
ああ、いる。ちょっと影の薄い二人組。よくマンガの話をしてる。
「高校生にもなってよくやるよ。」
「由羽は昔っからいじめなんてくだらないって思ってたよね。」
そういえばそうだった。人を追いこんで楽しむくらいなら、図書館にある本を読破するほうが重要だった。今考えると暗い小学生だったな。
……ちょっと待て。なんでこいつはそんなことを知っているんだ?
質問をするより前にやつが話しだす。
「なんかその二人と佐倉さん、部活がいっしょで。佐倉さんばっかり先生に褒められるから『あいつばっかり』って思ってるみたいで、それで、足引っ張ってやろう、みたいな?」
以外に自分の影の情報収集能力が高い。一体誰に聞いたんだ、そんなこと。
「女子って怖いな。」
佐倉さん、何の部活だったかな。それよりだ。
「で、どう助けちゃったんだ?」
「人聞きの悪い。部室から締め出されてたみたいだから、代わりにノックして用事があるってだましてドア開けさせて、佐倉さんだけ押しこんで帰ってきただけだよ。」
うわ。鬼みたい。
「それで助けたつもりかよ。」
「ちゃんと後はがんばって、って言ったんだけど。」
その後の部屋の雰囲気を考えなかったんだろうか、こいつは。
ぼくはため息をついて、教科書に向き直った。
人のトラブルに首を突っこむことほど厄介なことはない。ぼくはもうこりごりだった。
「遠夜の家」のような有名人が首を突っ込むと、ろくなことがない。
それに、やつがやったのは、落とし物を届けた、みたいなただの親切な行動じゃない。助けた相手をよく思っていない人がいるのだ。その女子二人組は佐倉さんを助けたやつを、どう思うか? 敵の仲間は、また敵だろう。
しかも、敵は遠夜由羽、ということになる。
明日、学校に行くのが嫌になった。けれども、ここでやつに任せたらもっと事情がねじれそうだ。ここはぼくが行くしかない。
意を決したぼくは、やつに向き直った。
「一つ聞きたいことがある。」
「なに?」
やつはよっぽど面白いのか、本から顔を上げもしない。のんきに眠そうな顔しやがって。こっちは真剣そのものなのに。
「席替えあったんだろ、どこの席になった。」
ぼくの言葉に、やつはやっと顔を上げると大きな息を吐いた。さっきのぼくを真似したみたいに。なにかがっかりさせるようなことがあったっけ。
「由羽の席は一つ前になっただけさ。ちなみに秋孝は廊下側になったよ。」
明日学校に行けば確認できるような、必要のない情報を言って、やつはベッドに倒れこんだ。そのままベッドと同化するように、すっと沈むように消える。後には読みかけの本と人の形に乱れた布団ばかり。
ぼくもため息を一つはく。
いつもこの調子なんだけど、いまだに人の消えたベッドで寝るのは寝心地が悪い。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます