3 事情
本を読んでいたら、バルコニーに人影が現れた。時計を見ればもう夕方で、かなえは学校が終わってすぐに家に帰ってきたようだった。
窓を開けると、かなえはローファーを外に置いて、さっさと部屋に入ってくる。「さむい。」と言いながらベッドにダイブした。
ローファーをそろえて窓を閉め、放り出された鞄をベッドに立てかけてやって、ぼくはかなえの隣に座った。
「制服脱がないとしわになるよ。」
「はーい。」
むっくりと起き上がった彼女は大きくのびをする。やっぱりスカートをはいているほうが女の子らしいや。
眠たげな目がこちらを見る。
「お母さん、気がついた?」
「全然。」
「だよね。」
かなえはベッドから降りるとクローゼットを開けた。ハンガーを出して、さっさと制服を脱ぐ。寒かったせいか下に体操着を着こんでいた。
さっきの言葉。「だよね。」の後にも言葉が残っていそうだったのに、それを言う気はないらしい。引き出さないとだめか。
「お母さん、いつもあんな感じなの?」
「あんな感じ?」
「なんていうか……笑顔でこっちを押さえつける感じ。」
お昼の時も同じようにお盆を持ったお母さんがやってきて、午前中に何をしていたのか、それとなく聞いてきた。やらなかったけれど、離れから一歩でも出ればお母さんがやって来るんじゃないだろうか。
「……あれでもね、ぼくのためだと思ってるの。」
部屋着になったかなえは、静かにクローゼットを閉めた。
「お母さんね、学校なんて行かなくていいのよ、って言うの。」
「で、ここに閉じこめるわけ?」
「そう。」
「なんで?」
答えはない。質問を変えよう。
「抵抗はしてみた?」
ぼくが尋ねると、急にかなえの声のトーンが下がった。
「学校まで押しかけてきて。」
前後を聞かなくても、その言葉だけでなんとなく状況がわかる。
かなえはベッドに座ると、あおむけに寝転がった。ぼくもその隣に座って、同じように寝転がる。誰かが見たら双子がいるようにしか見えないだろうな。
「過保護なんだ、お母さん。」
「過保護すぎ、だけど。」
確かにそうだ。実際であったことがないからわからないけれど、こういうのをモンスターペアレントって言うんだろうか。
「昔から?」
「うん。……でも、こんなにひどくなったのは、六月から。」
だんだんと、かなえのしゃべる量が増えてきた。蛇口をゆっくりひねるみたいに。
「なにがあったか、聞いていい?」
かなえはぼくのほうを見て、自分と同じ顔をじっくり見て、「部活で。」と内緒話をするみたいに小声で言った。
「いやがらせ、された。」
頭の中に、やつの声がよみがえった。斜め前の机の中に紙きれが詰まっていて。よく見れば、それはノートで。
「……どんな?」
「描いてた絵に、落書きされて。デッサン破られて、絵の具と筆隠されて……。」
いけない。このままだと聞きたくないことまで聞いてしまいそうだ。
「かなえ、美術部なの?」
「うん。」
「そんな感じ、全然しないけど。」
顔を上げて、部屋を見回す。システマチックな本棚や机は女の子らしからぬ地味な色合いで、こういうところからも男っぽさが出ている。部屋には絵どころか筆一本も見当たらない。
「お母さんが、嫌いだから。」
「絵を描くの?」
「うん。」
部活でいやがらせをされたと聞いた母親は、どう思っただろう。娘に絵を辞めさせるにはいい口実だと思った、とか?
でもそれなら、かなえが部活を辞めれば収まる話だったんじゃないだろうか。
「お母さん、美術部を辞めるように言ったんじゃない?」
「うん。」
「でも、辞めなかったんだ。」
だからこうやって、強硬手段を取られている。
「うん。」
かなえが力強くうなずく。はっきりとした声。こっちをまっすぐ見る澄んだ目。今まで聞いた中で一番、思いが伝わってくる返事だった。
家に閉じこめられるっていうのは今のところ一番最悪な状況だけど、それでもかなえは屈する気がない。
「強いね、女の子は。」
あの朝の昇降口で、彼女も意地を張っていたのだろうか。
ぼくの言葉に、かなえは「なにそれ。」と言ってそっぽを向いた。会話は終わりとばかりにごろりと体をうつぶせにして、枕元に置いてあったゲーム機に手をのばす。
これ以上は、今日はやめておこう。まだ会って一日も経っていない相手にこんなに自分のことを喋ってくれただけでも行幸だ。元から口数の少なかったかなえがこんなに喋ったんだから、次もまた、喋ってくれると信じられる。
彼女に喋ってもらえるよう、信頼を勝ち取るのもぼくの仕事だ。
ヘッドフォンをしてゲームの世界に没頭してしまった彼女を邪魔しないよう、ぼくはすっと消えた。
明日もかなえは学校に行くだろか。だとしたら、また部屋の中で退屈に過ごす日々が続くのか。
かなえは敵を倒すみたいに、次々とゾンビを倒している。
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