9 連鎖

 その日はあいにくの雨だった。

 それらしく花束を持って、何食わぬ顔で病室の並ぶ廊下を進む。時おり患者さんとはすれ違ったけど、さいわいにも看護婦さんには出くわさなかった。

 あれから、さほど時間は経っていない。

 目覚めた……というより、自分が「こう」なったのを自覚したとき。秋孝に電話した日から一か月は過ぎ去っていて、ぼくは同時に自分がどうなったのかを知った。

 ぼくの目論見は外れた。

 長い廊下の端、面会謝絶の札が下がった部屋の前で立ち止まる。

 あの日、あの場所で。『影』になる前に死んだら、そんなものにならなくて済むと、ぼくは思っていた。でもそんなことはなかった。

 ぼくは『影』になった。

 でも、それがわかっていたのはぼくだけだったんだ。

 扉の前に誰かが立っていて、立ち止まる。

 なんでだ。朝のお手伝いさんがいる。名前は、なんだったか。

 固まったように動かないぼくを見て、お手伝いさんは気づかわし気にこちらを見た。

「もしかして、由羽さんのお友達?」

「いえ、友達の友達、というか。直接話したことはないんですが。」

 そうなの、と気にしていないようにお手伝いさんは言う。

 ……落ち着け。ぼくとこの人は初対面だ。

「遠夜くんの親戚の方ですか?」

「いいえ、わたしは家政婦なの。今日は付き添いで。」

「そうなんですね。」

「ああ、私は四栂といいます。」

 頭を下げられて、ぼくも今の名前を名乗る。

「はじめまして。柊かなえです。」

 そうやって挨拶をしていると突然病室の扉が開いて、母さんが出てきた。ばっちり目があってしまう。ばれないと分かっているにもかかわらず、背中をすっと冷たいものがかけ下りた。

 母さんはぼくを見て、すぐに「ああ。」と呟いた。

「由羽の、学校の子?」

「……はい、そうです。」

 ただでさえか細くて高い声が、空気に溶けちゃうんじゃないかって調子でしか出ない。

「ごめんなさいね。今は家族以外会えないのよ。」

「知ってます。お花だけでもと思って。」

 小さな花束を渡すと、母さんは「ありがとう。」と疲れた顔で笑った。

「びっくりしたでしょう。学校で突然飛び降りなんてあって。」

「わたしはあの日、学校に行ってなかったんです。でも友達が、その、遠夜君と同じクラスで。」

 考えてきた言葉を告げる。母さんはもう一度「ごめんなさいね。」と謝った。

 たぶん、車の前に飛び出したあの時、もうぼくは『影』になっていたんだろう。だから死ななかった。代わりに、電話をしていた秋孝の偽物は、ぼくが死んだと思いこんだんだ。

 それを聞いた本物の秋孝が、何を考えてこういう結末を選んだのか。

 母さんが、あ、と顔を上げた。

「もしかしてお友達って、さっき来た子かしら。あなたと同じ制服の、肩にかかるくらいの髪の。」

 ……佐倉さん?

「たぶんそうだと思います。さっきってどのくらい前ですか?」

「ほんの十分前よ。」

 母さんにお礼を言って、小走りに来た道を戻る。もしかしたら会えるかもしれない。

 隣で控えていた四栂さんが、そんなぼくに手を振ってくれた。

 標準の長さのスカートが足にばさばさ当たる。なるほど、これが嫌だから女子ってなるべくスカートを短くするのか。でも、あれってどうやるんだろう。わざわざ生地を切るわけじゃないよな。

 目立たないように非常階段をかけ降りて、病院の正面に出た。雨の音が大きくなる。佐倉さんらしき人影はいない。傘を開いて道に出ると、むき出しの足に直接風がきて叫びそうになった。

 女子ってほんと、偉い。

 ここまで来るには晴れていれば自転車もいいだろうけど、今日のような日はバスだろうか。

 バス停に行ったぼくは、何も雨をさえぎるもののないその場所で、ぼうっと立っている佐倉さんを見つけた。

 かけ寄って、傘をさしだす。傘をさしていなかった佐倉さんは全身ずぶ濡れだった。

「風邪ひくよ。」

 佐倉さんはうつろな眼を前に向けたまま、なんの反応もしない。そのまま待っていると、ぽつり、と言葉を落とした。

「……わたし、屋上の鍵を持ってたの。友達から預かっていて。それを、遠夜君にしゃべっちゃったから。」

 そうか。屋上は立ち入り禁止になったって、あいつ言ってたっけ。

 水滴が佐倉さんの目から流れ出て、雨と混ざってよくわからなくなった。雨とは温度の違う水滴。佐倉さんは顔を覆って泣き出した。

「その前の日まで元気に笑ってたのに。お、お家の人が大変だとか、そんなの、わたしなんにも知らなくて。自分でなんとかするって言っておいて何度も助けてもらって。それなのにわたし、もうあきらめようとしてたの。」

……あいつは、どうしてこんなに彼女に肩入れしたんだろう。

 いつものぼくならそうしたと思ったんだろうか。それはちょっと買い被りすぎだぞ。

 佐倉さんが泣くことはない。彼女は何も悪くないのだから。

 そっと、佐倉さんの肩に触れた。やっぱりとても冷たかった

 これは『影』っていう、ある日突然降ってわいた怪奇現象のせいで起きた、不幸な行き違いだ。

 佐倉さんにそんな突拍子もないことは言ってあげられなかった。冷えきった手をとると、無理やり傘を握らせる。

 やっと、佐倉さんが顔を上げた。

 同じ制服だけど、知らない人が隣に立っていることに今気がついたんだろう。自分の手の中にある傘を見て、「ありがとうございます。」と柄を握る手に力をこめる。

 佐倉さんが顔を上げる前に、ぼくはすっと姿を消した。『影』になったら、誰に教えられるでもなくできるようになっていた便利な技。

 顔を上げた彼女は、不思議そうにあたりを見回して、大きなくしゃみをした。このままだと風邪をひくと分かったのか、その目はあの時と同じようにまっすぐバスの来る方向を見た。

 佐倉さんはとりあえず大丈夫そうだ。

 自分の姿を見下す。佐倉さんより細い体。きっとこの子にも何か事情があるんだろう。

 後は死ぬしかないとまで思いつめるようなことがあれば、ぼくは佐倉さんの『影』になっていたはずだ。

 やってきたバスに乗りこむ佐倉さんを見送る。あの日みたいに白くけぶる道路の先に、長い車体がすっと消える。

 ぼくもそろそろ、「自分」のところへ戻ろう。

 ぼくが誰を助けなくちゃいけないのか、こうなったときからわかっていた。皮肉なことに「かなえ」って名前の女の子。いずれ誰かの願いを叶えることになるなんて、彼女はまだ知らない。

 それにしても、やっかいな相手を押しつけられたもんだ。


 大丈夫。ぼくはあいつのぶんまで、うまくやってみせる。


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